まあ、アニメの話でも。
一般論でないことを了承願いたい。
ざっとランク付けするならこんな感じ。
ただし、理由は個人的趣味を含めていろいろあるので一概に順位だと思わないで欲しい。
●見るべきアニメ
きんいろモザイク
銀の匙
プリズマ☆イリヤ
●見るに値するアニメ
サーバント×サービス
有頂天家族
ロウきゅーぶ!SS
私がモテないのはどう考えても
●余裕があるなら見ても損しない?アニメ
Free!
ブラッドラッド
C3部
げんしけん二代目
ダンガンロンパ
神様のいない日曜日
●何かが惜しいアニメ
恋愛ラボ
ローゼンメイデン
ガッチャマンクラウズ
君のいる町
ネプテューヌ
●続き物
ハイスクールD×D NEW
5分アニメは除外。
録画予約から拾ったので、これ以外は見てないか見るのをやめた作品。
いくつか個別にコメントを。
きんモザは1話こそ将来性の感じられない展開で、しかもアス比を変えて映画調に仕上げてたので一体どの層に向けたアニメなのかとさえ思ったほど。
漫画だと連載開始だけページを増やしてたりするので、あるいはそれを忠実に再現したのかもしれないが、正直言って後のストーリーの伏線になるでもなく、本編中でちょくちょく回想する程度の方がよかったかと思う。
ストーリーは文句の言いようがないほのぼの日常系。ギャグ感も適度。キャラもバランスよく個性が立っていて良し。
個人的に思うのは、アリスの髪の質感(明暗の色分け)が良かったり、COCO塾が監修した英語の台詞も等々細かいところも好感。
銀の匙は原作を読んでいないが、話としてかなり高度に構成されている感があり安心感がある。酪農ははっきり言って知らない事の方が多い分野だが、あれこれ詰め込みすぎずコミカルでコンパクトにまとめられていてとてもわかりやすい。
夕方やっても、むしろ一般向けアニメとしてそのまま放送すべき作品。普通の面白さがずば抜けていてそれ以上特筆すべき事はない。
プリズマ☆イリヤはギャグ感とネタ感を上手い具合に操縦できていて面白い。適切なBGMの使用とCG技術に頼りすぎないバランス感が良い。
喋るロリコンステッキという設定がかなり巧妙で、妖精とか小動物では描かざるを得ない表情や身振りをかなり省略して無機質感を出しつつも性格が濃い、というのをうまく利用できている。これはイリヤとの関係性によるイメージも強い。
あと門脇が個人的に好み。名塚さんはもっと喋るべき。
他は抜粋して。
恋愛ラボは発想というか題材は良いのだが、メインの5人でも登場人物としての魅力にバラツキがあって少々バランスの悪さを感じる。きんモザは立ち位置が割とはっきりしていて、それでも不公平感は感じないのだが、恋愛ラボはぶっちゃけ居なくても普通に話の進んじゃう気のするキャラが・・・という感じ。
ローゼンの評価が低いのは原作や旧作を見ておらず、いまいち方向性が見えていない点から。あと、OPがAnotherっぽいのと本編の色調が暗めなのでファンタジーというよりホラーみたいな雰囲気がする。
アニメの評価方法はいろいろあるでしょうが、自分としては「知らない人がいきなり見ても楽しめる」っていうのを重視してます。
ストーリーがわからなくても絵やキャラクターのやりとりだけで何となく楽しめるというのは、本当に初めて見た人だけではなく前話を見逃したり内容を忘れたりしてもついて行けるという事なので、いろんなアニメを見てる身としても気楽に楽しめます。
それから自分自身は映像の素人なのであんまり言うのもおこがましいですけど、画面の切り替えとか映像と音の調和、色の使い方とかも結構気にしてます。マジシャンなんかが視線の引きつけ方を気にしますけど、それと共通するところがあって、見ようとした瞬間に画面が変わったりすると正直言って楽しめないです。BGMや効果音では安易な使い回しをしてると雰囲気が出ないどころか気分が落ちる時もあります。あと色は個人的に興味があって気にしてるというのもあるでしょうが、それこそ髪の質感を始め、背景を描き込まずに単色やグラデーションでぼかす時とかは作風が結構出ちゃう気がします。
あとはキャラの存在感ですけど、女の子がかわいいとか以前に人として魅力的に描けているかは大事だと思います。男だらけのアニメでも気分の良い生き様だったりユーモアに溢れてたりするとそれだけで十分です。安易にキャラクターデザインだけに頼るとネプテューヌみたいになります。
メモ代わり程度に。
追記。
進撃の巨人とレールガンが抜けてました。
進撃の巨人は原作からすごいすごいと言われてたが、見てみると案の定と言うべきか、それほどすごくもなく。作画はかなり力を入れているようで、納期に間に合ってないとか噂も聞きましたけど、そこまで力入れても感動するわけでもなく。というのも、そもそものストーリーがかなり偏った作りをしているのと、個人的に作中で使われているメカや生物学の設定がぐちゃぐちゃな辺りが気になって仕方ない。余裕があるなら枠。
レールガンは続き物でもあり、大人気らしいとあるシリーズなので何の疑問もなく視聴リストに入ってたが、まず1話の雰囲気に違和感。映画でも始まるのかというほどハイテンションでの導入。ドヤ顔過ぎて置いて行かれた感さえあった。原作からのファンがどれくらいかは知らないが、世界観に自信を持ちすぎていて最早迷いがないよう。EDの雰囲気も脇目を振らずにという感じがする。
端的に言うと、その世界観があまり好きではないのだが。インデックスの時はあくまで魔法の話だったので特に無理を感じなかったのだが、科学と銘打った上でほぼ理屈抜きの実質魔法を使っている、にもかかわらずどういうわけか作中で原理を説明しようとしているところでひずみを感じる。例えば主人公の電気関係の能力で言えば、放電の描写の際に意味も無く空気中で絶縁が破れたり、どういうわけか電子操作の能力もあってコンピューターのセキュリティを突破したり。正直一番意味がわからないのはメルトダウナーさんの能力ですけど。何かが惜しい枠。
2013年8月8日木曜日
2013年8月3日土曜日
近所で花火やってました
近所でもないですけど。
家でのんびりしてたら、落雷でもない
ドンッ
ドンッという音がしたのでよもやと思ってとりあえずテレビをつけてみると、丁度テレ玉で戸田橋花火大会が中継されていた。
急いで三脚とカメラを用意し、地図で戸田橋の方向を確認すると近くの堤防へ向かいました。花火が上がる度、毎年写真を撮りに行く堤防へ。
3分ほどで撮影地に辿り着きますが、その堤防への短い坂を登りはじめると途端に違和感が。さいたま市から見て戸田は南の方角。坂は北へ向けて登る。なのに前方に花火が見える。
登りながら後ろを振り返ると、そこにも花火が。
一連の企画なのか別物なのかはわかりかねたが、なんかすごいらしいとだけは思った。
例によってではあるが、堤防の上は近所の人たちでそこそこ賑やかだった。
反射材や目立つ色の服を着るでもなく、着の身着のまま花火を見に来たような人たちばかりなので、人の間を自転車で通り抜けるには少し気を遣う。
人気の少ない場所を選んで三脚を立て、カメラを取り付けてマニュアルモードで撮影を始める。
花火は北に一つ、南に二つ上がっている。近所の人が噂するに、戸田の他、狭山、上尾、熊谷で花火が行われているとか。少なくとも見えているうちの二つは戸田と上尾である様子。
花火の撮影というのは独特の難しさがあって、勘を戻すのに少し時間がかかった。
感度を下げるのはもちろんのこと、意外と露出秒数がシビアだったりする。打ち上げ花火は点が広がっていくので、全体像が感光されるのに少々時間がかかる。打ち上げ花火の場合は経験上、3秒から5秒が適正。上向き放射状にぶわーってなる奴とかはまたそれぞれあると思います。
打ち上げ後、開く直前から開ききるまでを捉えるのが理想だが、あまり長すぎると火花がゆらゆらと落ちる像が残ってしまって全体としてのシャープさが落ちたり、次の花火やその足が被ったりする。被るのは場合によって臨場感の演出になったりするが、単発で収めたいならやはり望ましくない。
夜景の撮影っていうのはだいたい急いでカメラを取り回す事がないが、花火は特に今回はいろんな方向で打ち上がり、そうでなくても大きさの違う花火が微妙に違う位置から上がってくる。つまり三脚でがっちり固定してゆっくり調節する、というのがなかなかしにくいのである。
その最大の弊害は微調整の煩雑さではない。シャッター押下時のブレだ。安い三脚はしっかり締め付けないとよく揺れる。だからカメラに力がかからないよう、ボタンを押すと同時に反作用分の力を用意せねばならない。実際的には人差し指と親指でつまむようにカメラに力を伝える。
花火だけしか映り込まないなら初っ端の揺れはほとんど画像に反映されないのだが、街頭とかマンションの光のような不動のものがあると、カメラの揺れがモロにわかってしまう。
そしてまあ、なかなかどうして上手くいかない。
さて、そんな目で以下の写真を見て頂くと、素人撮影の初歩的な難しさが少しおわかりいただけるかと思う。
100枚以上撮った中で人様に見せても恥ずかしくない程度、あるいは色合いが綺麗だったり形が面白かったり、というものを抜粋した。
地味な話だが、暗闇に打ち上がる花火は枠の中央に持ってくるのが難しい。大きさ変わればズームも変わるし、少し風が吹けば少し寄る。いや、もうそんな話より雰囲気だけでも楽しんでいただければと思う。
2013年6月30日日曜日
考えよう。答はある。
話のわかる人と話をしたい。と最近思う。
前から思っていたけど、この間「朝まで生テレビ」を見ながら改めてそう思った。
政治家の仕事は別段議論することだけではないけど、朝生のようにヤジを飛ばしながら主張する機会を得ていく議論では的確な言葉の選びが大切だと感じる。政党の看板を背負っている立場なので、一言一句に注意を払って自分たちの主張を完全無欠に言い表さなければいけない。10人近い敵同士が限られた時間で言い争うのだから、無論言い間違いや曲解されかねない言い回しは揚げ足を掬われる。歩き始めたら意見そのまま前に進まなければならないというのは簡単なことではない。
個人名を覚えてない出演者もいるし、誤字とかも面倒なので政党名で代わりとする。
感心したのは維新。橋下代表は意見がはっきりしてその上よくしゃべるという印象のある人だが、維新の出演者も性格的には橋下氏に似て意見をしっかり言うし、突っ込まれてもそれなりの根拠があるような風だった。不意に発言する機会を得ても墓穴を掘らない正確さがあり、瞬発力のある人だと少しうらやましくも思った。
一方で自民。ネットでは社民の福島氏が大好物だとか言われてた正にそのままで、社民の意見にはよくかみつく人だ。こんな小学生がいたら「おまえあの子の事好きなんだろ?」とからかいたくなるほど。そのくせ、ちょっとしたことで追求されると口籠もったりして小物感を醸し出していた。知らないことは知らないと認めればその場はやり過ごせるのに、なんて思いもするが実際あの場にいるとそうもいかないのかもしれない。
その点、民主の長妻氏は冷静さが良い。他人の発言中にあまり口を挟まないし、落ち着いた物腰で懐の深さを感じさせる。知識や見識に富んでいるのは一目瞭然で、とにかく不用意なことをせず必要なことを効果的にやってくれる印象を持つ。番組中、自分のことを話題にしているのに頷きもせず淡々と聞き続ける姿は相手からするとやりづらささえ感じるかもしれないが、視聴者からすればそれくらい堅さを感じるのである。
些細な事だが、みどりの出演者。「そんなことはない」と反論したかったのだろう、しかし発言者が多くて発言権が得られないシーンがあった。そのとき嘲笑するような「ふっふっふ」という声をマイクが拾っていた。大人数で議論するとたまに(しばしば歳を召した方が)「そんな“馬鹿げた”ことはない」という意味で笑いながら反論する姿勢を示す事がある。反論された側としては「何がおかしい」と言いたくなるが、それは当然思うつぼであって挑発に乗ってはいけない。
ドラマなんかでも突然笑い出せば注目が集まり次の瞬間には発言権を与えられるけれど、それは議論の場で使うテクニックではない。乱暴に言えば、構ってほしくて悪さをする子供とやり口は変わらない。ただし他の論者も配慮をする必要があって、「時間を割いてまで言いたいことがあるならはっきり言え」と話を振ってみて、大したことを言えないならば自然と発言権が無くなっていくことを利用せねばならない。ただ、これには場の多くの者が協力する必要がある。
当人としては小さな政党なので普段は言いたいことを言えるし反論できる立場の人間もそう多くないのではないかと推察する。
他には共産。都議選で言い流れを感じたのか他党とは違ういつも通りの姿勢にも余裕を感じられたし、気のせいか発言力も感じられた。特筆することはないが、党としてどうこうに加えて個人としての意思も持っているようで好印象だった。
生活はなんというか、圧倒的小物感でその辺の自民の新人の方がしっかりしてるぞって感じすらしたほど。むしろ何しに来た。
みんなはどういう経歴の人か知らないけど、自民か民主かってほどに真っ当な議論のできる人で、なるほど政治家だ、という印象。みんなとか維新は正直言って都議選でもう少し議席をとれてよかったのではと思った。
社民。いつも通り。自分の言うことは何でも断定する福島氏。頑固さが前面に出ていて極論一歩手前みたいな言いぐさが、なんというかめんどくさい。通説でそうなっているのか、経験的にそう言えるのか全くくみ取れないのだが、最近ではテレビで姿を見ると「今日も元気で何より」と心の中で呟くようになった。
あまり政治に熱心な方ではないので、あくまで政党の批判をするつもりではない。番組を見ながら終始気にしていたのは議論する力。ディベートという言葉も浸透してきたが、関心があるのは言い負かすのではなく、オトシドコロを見つける力。今回の番組は意見を一致させる目的ではないが、大雑把に見ればその一部とも言える。
ちなみに言っておくと「うどんが食いたいかそばが食いたいか」というのは議論ではない。議論がしたいなら「うどんが旨いかそばが旨いか」とすべきである。前者は基本的に感情論であり、昨日そばを食ったから今日はうどんが良いという主張もまかり通る。後者は比べて定性的で、その内容は普通時と場合に依るものではなく持ち越しても話を続けることができる。
さてその議論力とでも言うべきか、場を合意させる意見を導く能力は常々磨きたいたいと思うものだ。そう思うのだが、実際はそう簡単に磨けるものではないらしい。論理に関する本を読んだり、あるいは手段である言語を扱う本を読んでみるのだが、実際のところ日常的に議論する場を持たないとその効果も薄いのである。
そこで問題なのは、議論をする相手がいないということだ。元々友人が少ないのが原因ではあるのだが、数少ない知り合いでも真っ向から意見を言ってくれる人はそういないのが現実。物事をまじめに考えるのは面倒という風潮があるのか、はたまた俺に一度絡まれたら厄介だと思われてるのかは知らないが、個人的には最終的な相互理解を目指す主義なので甘いところはぶっ潰すし褒めるところはなるたけ褒めるようにしている。大事なのは斜に構えるのではなく、互いに腹を割って話をすることだと思う。
ある時期はなんかよくわからないが何件か相談を受けるような時期があり、意見を述べるとフムフムと納得してくれることもあったのだが、最近はそれすらもなくて物事を考える機会がそもそも減ってしまった。それゆえ、何でも良いから積極的に議論をしようという事を言いたいのである。
ついでに言うなら、見ての通り記事のコメント欄も解放してある。匿名でも書けるようにしてあって、反論だけでなくご意見ご感想でも、誤字の指摘すらも受け付けているつもりだが、コメントなど随分ご無沙汰である。ただお断りしておきたいのは、論旨のはっきりしない意見や熟考されていないと見受けられるものにはそれなりの返事しかできないという事で、こればかりは実際の会話でもそうである。
まあ、ハッキングから今晩のおかずまで普通に相談でも意見を聞きたいだけでも気軽にばっちこいですよ。
見知らぬ人でも相手はするし、偏見無く会話ができて理屈の通る人であれば誰彼は問いませんから。
前から思っていたけど、この間「朝まで生テレビ」を見ながら改めてそう思った。
政治家の仕事は別段議論することだけではないけど、朝生のようにヤジを飛ばしながら主張する機会を得ていく議論では的確な言葉の選びが大切だと感じる。政党の看板を背負っている立場なので、一言一句に注意を払って自分たちの主張を完全無欠に言い表さなければいけない。10人近い敵同士が限られた時間で言い争うのだから、無論言い間違いや曲解されかねない言い回しは揚げ足を掬われる。歩き始めたら意見そのまま前に進まなければならないというのは簡単なことではない。
個人名を覚えてない出演者もいるし、誤字とかも面倒なので政党名で代わりとする。
感心したのは維新。橋下代表は意見がはっきりしてその上よくしゃべるという印象のある人だが、維新の出演者も性格的には橋下氏に似て意見をしっかり言うし、突っ込まれてもそれなりの根拠があるような風だった。不意に発言する機会を得ても墓穴を掘らない正確さがあり、瞬発力のある人だと少しうらやましくも思った。
一方で自民。ネットでは社民の福島氏が大好物だとか言われてた正にそのままで、社民の意見にはよくかみつく人だ。こんな小学生がいたら「おまえあの子の事好きなんだろ?」とからかいたくなるほど。そのくせ、ちょっとしたことで追求されると口籠もったりして小物感を醸し出していた。知らないことは知らないと認めればその場はやり過ごせるのに、なんて思いもするが実際あの場にいるとそうもいかないのかもしれない。
その点、民主の長妻氏は冷静さが良い。他人の発言中にあまり口を挟まないし、落ち着いた物腰で懐の深さを感じさせる。知識や見識に富んでいるのは一目瞭然で、とにかく不用意なことをせず必要なことを効果的にやってくれる印象を持つ。番組中、自分のことを話題にしているのに頷きもせず淡々と聞き続ける姿は相手からするとやりづらささえ感じるかもしれないが、視聴者からすればそれくらい堅さを感じるのである。
些細な事だが、みどりの出演者。「そんなことはない」と反論したかったのだろう、しかし発言者が多くて発言権が得られないシーンがあった。そのとき嘲笑するような「ふっふっふ」という声をマイクが拾っていた。大人数で議論するとたまに(しばしば歳を召した方が)「そんな“馬鹿げた”ことはない」という意味で笑いながら反論する姿勢を示す事がある。反論された側としては「何がおかしい」と言いたくなるが、それは当然思うつぼであって挑発に乗ってはいけない。
ドラマなんかでも突然笑い出せば注目が集まり次の瞬間には発言権を与えられるけれど、それは議論の場で使うテクニックではない。乱暴に言えば、構ってほしくて悪さをする子供とやり口は変わらない。ただし他の論者も配慮をする必要があって、「時間を割いてまで言いたいことがあるならはっきり言え」と話を振ってみて、大したことを言えないならば自然と発言権が無くなっていくことを利用せねばならない。ただ、これには場の多くの者が協力する必要がある。
当人としては小さな政党なので普段は言いたいことを言えるし反論できる立場の人間もそう多くないのではないかと推察する。
他には共産。都議選で言い流れを感じたのか他党とは違ういつも通りの姿勢にも余裕を感じられたし、気のせいか発言力も感じられた。特筆することはないが、党としてどうこうに加えて個人としての意思も持っているようで好印象だった。
生活はなんというか、圧倒的小物感でその辺の自民の新人の方がしっかりしてるぞって感じすらしたほど。むしろ何しに来た。
みんなはどういう経歴の人か知らないけど、自民か民主かってほどに真っ当な議論のできる人で、なるほど政治家だ、という印象。みんなとか維新は正直言って都議選でもう少し議席をとれてよかったのではと思った。
社民。いつも通り。自分の言うことは何でも断定する福島氏。頑固さが前面に出ていて極論一歩手前みたいな言いぐさが、なんというかめんどくさい。通説でそうなっているのか、経験的にそう言えるのか全くくみ取れないのだが、最近ではテレビで姿を見ると「今日も元気で何より」と心の中で呟くようになった。
あまり政治に熱心な方ではないので、あくまで政党の批判をするつもりではない。番組を見ながら終始気にしていたのは議論する力。ディベートという言葉も浸透してきたが、関心があるのは言い負かすのではなく、オトシドコロを見つける力。今回の番組は意見を一致させる目的ではないが、大雑把に見ればその一部とも言える。
ちなみに言っておくと「うどんが食いたいかそばが食いたいか」というのは議論ではない。議論がしたいなら「うどんが旨いかそばが旨いか」とすべきである。前者は基本的に感情論であり、昨日そばを食ったから今日はうどんが良いという主張もまかり通る。後者は比べて定性的で、その内容は普通時と場合に依るものではなく持ち越しても話を続けることができる。
さてその議論力とでも言うべきか、場を合意させる意見を導く能力は常々磨きたいたいと思うものだ。そう思うのだが、実際はそう簡単に磨けるものではないらしい。論理に関する本を読んだり、あるいは手段である言語を扱う本を読んでみるのだが、実際のところ日常的に議論する場を持たないとその効果も薄いのである。
そこで問題なのは、議論をする相手がいないということだ。元々友人が少ないのが原因ではあるのだが、数少ない知り合いでも真っ向から意見を言ってくれる人はそういないのが現実。物事をまじめに考えるのは面倒という風潮があるのか、はたまた俺に一度絡まれたら厄介だと思われてるのかは知らないが、個人的には最終的な相互理解を目指す主義なので甘いところはぶっ潰すし褒めるところはなるたけ褒めるようにしている。大事なのは斜に構えるのではなく、互いに腹を割って話をすることだと思う。
ある時期はなんかよくわからないが何件か相談を受けるような時期があり、意見を述べるとフムフムと納得してくれることもあったのだが、最近はそれすらもなくて物事を考える機会がそもそも減ってしまった。それゆえ、何でも良いから積極的に議論をしようという事を言いたいのである。
ついでに言うなら、見ての通り記事のコメント欄も解放してある。匿名でも書けるようにしてあって、反論だけでなくご意見ご感想でも、誤字の指摘すらも受け付けているつもりだが、コメントなど随分ご無沙汰である。ただお断りしておきたいのは、論旨のはっきりしない意見や熟考されていないと見受けられるものにはそれなりの返事しかできないという事で、こればかりは実際の会話でもそうである。
まあ、ハッキングから今晩のおかずまで普通に相談でも意見を聞きたいだけでも気軽にばっちこいですよ。
見知らぬ人でも相手はするし、偏見無く会話ができて理屈の通る人であれば誰彼は問いませんから。
2013年6月12日水曜日
惡の華とか、たまにはアニメの話題とか
惡の華。今アニメでやってますけど、なんかすごい作品だなーっていうのは見てる人の多くが思っているようで、なかなか評判も良いようです。
最初はなかなかアニメーションの手法に目が慣れないし、話もいまいち方向性がくみ取れなくて見るのをやめようかとすら思ったのですが、10話あたりになっておもしろさも絶好調です。
個人的に評価しているのは心理描写の緻密さです。人をつついたらどう反応するかっていうのがかなり正確に描けていると思います。映像としてではなく、物語としてです。
昨今のアニメの原作に占めるラノベの割合というのが増えてますけど、多くのラノベ原作作品はそこがいまいちきれいに表現しきれていない。というよりも、作り手がそこに重点を置いていないのではないかと思います。
少なからずラノベに否定的な立場なので公平な物言いができないですけど、ターゲットの読者層にウケが良い作風にするには細かい心理描写よりも、もっとダイナミックな、魔法だとか改革だとか戦争だとかみたいなものを面白く書ける方が大事なのかなと思います(言い過ぎ)。
心理描写と書いてますけど、実際はちょっと違って、心の葛藤を描くみたいなのではなく、人として自然な反応をしているということです。
ここ何年かアニメは腐るほど見てきましたが、ギャグものとかラブコメものでなくても人間の性格的性質を正確に表現できていると感じたものは数えるほどしかありません。おそらく、それくらい難しいもので、需要もないのだと思います。
架空の物語を作るとき、登場人物(あくまで人)の性格を手段や手順はどうであれ決めると思いますが、多くの場合その設定の段階で人間に対する作者の偏見が反映されるものだと思います。
これまで会ったことのある人、性格をよく知っている人、あるいは自分自身など。自分の想像できない世界を書く事は非常に困難ですからある程度は仕方ないと思うのですが。
自分の知っている「人間」という像の中で物事を動かそうとすると少なからずバイアスのかかった(偏りのある)ドラマにしかならない。つまり、別の人(像を共有しない人)から見れば実際的ではないと見られるわけです。
その点、惡の華はかなり正常な(話の内容は一般的に見て相当異常なものだが)人間の動き方をしている。普通は、自分だったら、とか、こうあってほしい、こうだったら面白い、みたいな低次元の話ではなく、登場人物の根底の性格が一貫していて、ヒトらしさがうまく表現できている。という評価を今のところしています。
確か、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」の前半でも似た事を考えてたものの、後半は驚くほど適当な感じになっちゃったものと記憶しています。
また、「アマガミ」、特に原作は異常なまでにヒトを上手く表現できています。アニメ版もそれなりに良いんですが、時間が限られてるし脚本の都合もあるのでしょう、ちょっと水で薄めた感じになっていたと思います。ぶっちゃけ、アニメ版の脚本か監督かが原作の意図を十分理解できていないものかと思ってます。
最初はなかなかアニメーションの手法に目が慣れないし、話もいまいち方向性がくみ取れなくて見るのをやめようかとすら思ったのですが、10話あたりになっておもしろさも絶好調です。
個人的に評価しているのは心理描写の緻密さです。人をつついたらどう反応するかっていうのがかなり正確に描けていると思います。映像としてではなく、物語としてです。
昨今のアニメの原作に占めるラノベの割合というのが増えてますけど、多くのラノベ原作作品はそこがいまいちきれいに表現しきれていない。というよりも、作り手がそこに重点を置いていないのではないかと思います。
少なからずラノベに否定的な立場なので公平な物言いができないですけど、ターゲットの読者層にウケが良い作風にするには細かい心理描写よりも、もっとダイナミックな、魔法だとか改革だとか戦争だとかみたいなものを面白く書ける方が大事なのかなと思います(言い過ぎ)。
心理描写と書いてますけど、実際はちょっと違って、心の葛藤を描くみたいなのではなく、人として自然な反応をしているということです。
ここ何年かアニメは腐るほど見てきましたが、ギャグものとかラブコメものでなくても人間の性格的性質を正確に表現できていると感じたものは数えるほどしかありません。おそらく、それくらい難しいもので、需要もないのだと思います。
架空の物語を作るとき、登場人物(あくまで人)の性格を手段や手順はどうであれ決めると思いますが、多くの場合その設定の段階で人間に対する作者の偏見が反映されるものだと思います。
これまで会ったことのある人、性格をよく知っている人、あるいは自分自身など。自分の想像できない世界を書く事は非常に困難ですからある程度は仕方ないと思うのですが。
自分の知っている「人間」という像の中で物事を動かそうとすると少なからずバイアスのかかった(偏りのある)ドラマにしかならない。つまり、別の人(像を共有しない人)から見れば実際的ではないと見られるわけです。
その点、惡の華はかなり正常な(話の内容は一般的に見て相当異常なものだが)人間の動き方をしている。普通は、自分だったら、とか、こうあってほしい、こうだったら面白い、みたいな低次元の話ではなく、登場人物の根底の性格が一貫していて、ヒトらしさがうまく表現できている。という評価を今のところしています。
確か、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」の前半でも似た事を考えてたものの、後半は驚くほど適当な感じになっちゃったものと記憶しています。
また、「アマガミ」、特に原作は異常なまでにヒトを上手く表現できています。アニメ版もそれなりに良いんですが、時間が限られてるし脚本の都合もあるのでしょう、ちょっと水で薄めた感じになっていたと思います。ぶっちゃけ、アニメ版の脚本か監督かが原作の意図を十分理解できていないものかと思ってます。
2013年5月15日水曜日
マインスイーパとか将棋とか
結局毎週なんて無理なんですよ。二日に一回書いてた時期はブログ書く事ぐらいしかやる事無かったし、日常的にそれなりの新しい刺激を受けてたからできてたのであって。それに当時は頻度が目的だったからそんなに負担じゃなかったしね。
やっぱツキイチペースが限度だと思うのですよ。
ちょっと今日はこのブログの本質に近い事について。
何かに対して一つの考え方を立ち上げるのがある種の趣味みたいな事になって随分経ちますが、とりわけ気合いを入れて独自に概念を組み立てて普通の人が思いも寄らないところをゴリゴリ掘り下げてたりすることもあります。
個人的に「塔を建てる」と言ってるんですが、何もない真っ平らな土地に一つの建造物を建てるように、事前に基礎となる理屈や思想を持ち込まない場合があるんですね。
大抵突拍子がなくて説明が面倒なのでほとんど記事にはしてないですが、自分の能力の本質的な部分だと自覚してます。
例えば囚人のジレンマのような、連絡の取れない二人が最大効率を求める行動をするにはどうすればいいかとか、対人交渉の際にボディランゲージ的なものが深層心理的にどう影響するかとか、学術的に研究されている分野であってもより実際的で特別な条件でどうだろうか、という言ってみれば面倒でいつ役に立つのかわからないような事を、未熟だろうが間違っていようが自分で独自のものを作ってきました。
囚人のジレンマなんかは相当有名な話ですが、二人の関係とか刑の大きさ、人数を調整したり、さらには囚人ではなくより現実的なシチュエーションを設定するなど、問題は永遠の広がりを見せます。
自分が当事者だったとしたら。というのがより実際的で、現実で似た状況に陥る事もあります。
そんな事は起こったときに起こった場所で考えれば良い、という考えもありだと思いますが、事前に想定しておく事で短時間に適切な判断をするようにできるわけです。将棋とかでいう定跡という奴です。前もって悪手を知っておけばいちいち時間をかけて考えなくても指していい手が絞られるというわけです。
考える、というのは定跡作りとしての役割もありますが、より一般的な効能を言うならば、思考能力を上げるという効果があります。世の中想定していない出来事の方が多いですから、起こったときに考える、としても論理的な考え方を鍛えていればより理屈に合った結論を導きやすくなります。また動きの決まった定跡としてではなく、将棋で言う戦法とか格言みたいな盤の一部に対するユニット化された理屈や大雑把な理念などを持っていたら、それだけで有利でいられるのです。
将棋ばっかでアレですけど、詰め将棋みたいな能力はもちろんダメ押しには強いですし、そうでなくても一瞬の隙から勝敗を決することもできます。
もちろん、形に見覚えのない全く新しい未知の問題への対処能力もつきます。「考える」という行為それ自体の定跡を作るという事です。
定跡の作り方の定跡を作るようなもので、思考の次元を一つ高める必要があり、ある意味では積分的な意味合いがあります。
一時期マインスイーパにはまってた時期があったんですが、上級くらいになると地雷の密度が高くなって一筋縄ではいかない場面が必ず出てくるんですね。そういった時には形としての定跡が役に立ちます。単純作業でかつ時間を計るゲームなのでこれがほぼ鍵を握るのですが、実際は定跡をいくつ揃えても確実には勝てません。
与えられた数字から確率を見積もって、最も確からしいところを踏んでいく必要があります。これは定跡となるパターンが少なく、形ではなく経験がものを言います。言い方を変えれば、形ではなく計算の型を知っている事がより効果的ということです。
世の中で出会う未知の問題のほとんどは、こういった手順の型を持っていれば解決しやすいものが多いので、とにかく考えた量(と質)が大切でもあります。むしろ、何事も起こったときに考えるタイプの人に大事な要素です。
自分は冷静な判断力があるように言われがちなのですが、その理由はだいたいこういう事をやっているから、という事です。長考しなくともそれなりに妥当な判断力を用意できるというのがカラクリ。一方でどうしても考える必要があるので、本能的な反射神経を使う判断速度からは随分遅れますけど。
一度塔が建ってしまえば回りがよく見えるようになったり、隣の建物と橋を渡してみたりと、どんどん広く高く考えが広がっていくわけです。
その塔を建てるのは一人でもできるんですが、一人でやると途中のミスに気づかなかったり、あるいはそもそもが傾いてたりする場合がよくあります。つまり高さを求めても、結果的にどこへ向かっているのか解らなかったり、あるいは検討すべき課題に気づかずにスカスカな状態で高層に達してしまうと根本から無意味なものにもなりかねません。
そこを二人でやれば違う視点から傾きがないかとか、複数の手順で確認したりでき、より公正な理論を組み立てられ、また手順が明確でない場合はアイデアが出やすいので組み立てるスピードも早くなります。
ただ船頭多くして船山に上るとはよくいったもので、こういうある意味で前衛的な概念をこねる場合は、統制が取れない大人数でやると直前の一言を反論するためだけの無駄な発言をしたり、話題が曲折して当初の指針を失ったりするので、小数精鋭でというのが鉄則とも言えます。
また例えば二人で塔を建てるにしても、両者の間の思考能力に差があると結局片方が一方的に状況を進めることになり、酷い場合には主張を理解できなかったり、説明だけで時間が過ぎたりと、争いは同じレベル同士のものでしか発生しないと言われるように、ドングリの背比べ目くそ鼻くそみたいな能力水準である事が望まれます。それこそ背伸びしてなんぼみたいなところですからね。
ところが一方で、本当に一人では難しいのかという疑問も上がります。複数人で考えるメリットを冷静に見つめると、ざっくり言うなら複数の視点から問題を見る事以外はそれほど重要ではないのです。
客観的に筋が通っていさえすればいいのであり、何度も反芻して考えればだいたい正しい向きになるものです。ただし、そのためには自分の考えには常に疑問を持って、かつて確立した自信を持っていた考えを否定する勇気を持つ必要があります。
他人から無下に否定されることもあり、何が正しいのかと混乱することもあります。そこで大事になるのが確率の計算です。確からしい可能性を数字ではなく概念として自分の中にストックしておく事で、「確かではないが」という前置きの元で引用する事ができるし、あるいは逆に他人の間違った考えを指摘する事ができるようになります。
お互いに同じ姿勢で問題に向き合えば、無意味なプライドとか身分を捨てて公平に議論ができるのですが、なかなかそういう人には出会えないものですね。はい。そこでまた新しい塔が建つわけですが。
自分より経験の浅い人間が完全な下位互換である場合は歳を取ればとるほど少なくなります。逆に経験を積んでいるからこそ固定観念にとらわれた硬い考えしか持っていなかったりもするわけですから、新しさを求め続ける柔軟性は持っていて損はないわけです。
ある程度歳を重ね、社会的に大人になってくると子どもだった頃に比べて、自分の主張が簡単に認められるようになるので、些細な事を学習したり賢くなりたいという意欲を失い、現状に満足しがちになります。言い方を変えれば、現状で十分だという意識から自分自身が否定される事が無いようプライドを持ち始めるのです。
物事を経験に当てはめて解決して済むようになると、考える習慣を失い、考える力自体が衰退するというスパイラルに陥ります。
と、いう蟻地獄にははまりたくないですね。というお話。
やっぱツキイチペースが限度だと思うのですよ。
ちょっと今日はこのブログの本質に近い事について。
何かに対して一つの考え方を立ち上げるのがある種の趣味みたいな事になって随分経ちますが、とりわけ気合いを入れて独自に概念を組み立てて普通の人が思いも寄らないところをゴリゴリ掘り下げてたりすることもあります。
個人的に「塔を建てる」と言ってるんですが、何もない真っ平らな土地に一つの建造物を建てるように、事前に基礎となる理屈や思想を持ち込まない場合があるんですね。
大抵突拍子がなくて説明が面倒なのでほとんど記事にはしてないですが、自分の能力の本質的な部分だと自覚してます。
例えば囚人のジレンマのような、連絡の取れない二人が最大効率を求める行動をするにはどうすればいいかとか、対人交渉の際にボディランゲージ的なものが深層心理的にどう影響するかとか、学術的に研究されている分野であってもより実際的で特別な条件でどうだろうか、という言ってみれば面倒でいつ役に立つのかわからないような事を、未熟だろうが間違っていようが自分で独自のものを作ってきました。
囚人のジレンマなんかは相当有名な話ですが、二人の関係とか刑の大きさ、人数を調整したり、さらには囚人ではなくより現実的なシチュエーションを設定するなど、問題は永遠の広がりを見せます。
自分が当事者だったとしたら。というのがより実際的で、現実で似た状況に陥る事もあります。
そんな事は起こったときに起こった場所で考えれば良い、という考えもありだと思いますが、事前に想定しておく事で短時間に適切な判断をするようにできるわけです。将棋とかでいう定跡という奴です。前もって悪手を知っておけばいちいち時間をかけて考えなくても指していい手が絞られるというわけです。
考える、というのは定跡作りとしての役割もありますが、より一般的な効能を言うならば、思考能力を上げるという効果があります。世の中想定していない出来事の方が多いですから、起こったときに考える、としても論理的な考え方を鍛えていればより理屈に合った結論を導きやすくなります。また動きの決まった定跡としてではなく、将棋で言う戦法とか格言みたいな盤の一部に対するユニット化された理屈や大雑把な理念などを持っていたら、それだけで有利でいられるのです。
将棋ばっかでアレですけど、詰め将棋みたいな能力はもちろんダメ押しには強いですし、そうでなくても一瞬の隙から勝敗を決することもできます。
もちろん、形に見覚えのない全く新しい未知の問題への対処能力もつきます。「考える」という行為それ自体の定跡を作るという事です。
定跡の作り方の定跡を作るようなもので、思考の次元を一つ高める必要があり、ある意味では積分的な意味合いがあります。
一時期マインスイーパにはまってた時期があったんですが、上級くらいになると地雷の密度が高くなって一筋縄ではいかない場面が必ず出てくるんですね。そういった時には形としての定跡が役に立ちます。単純作業でかつ時間を計るゲームなのでこれがほぼ鍵を握るのですが、実際は定跡をいくつ揃えても確実には勝てません。
与えられた数字から確率を見積もって、最も確からしいところを踏んでいく必要があります。これは定跡となるパターンが少なく、形ではなく経験がものを言います。言い方を変えれば、形ではなく計算の型を知っている事がより効果的ということです。
世の中で出会う未知の問題のほとんどは、こういった手順の型を持っていれば解決しやすいものが多いので、とにかく考えた量(と質)が大切でもあります。むしろ、何事も起こったときに考えるタイプの人に大事な要素です。
自分は冷静な判断力があるように言われがちなのですが、その理由はだいたいこういう事をやっているから、という事です。長考しなくともそれなりに妥当な判断力を用意できるというのがカラクリ。一方でどうしても考える必要があるので、本能的な反射神経を使う判断速度からは随分遅れますけど。
一度塔が建ってしまえば回りがよく見えるようになったり、隣の建物と橋を渡してみたりと、どんどん広く高く考えが広がっていくわけです。
その塔を建てるのは一人でもできるんですが、一人でやると途中のミスに気づかなかったり、あるいはそもそもが傾いてたりする場合がよくあります。つまり高さを求めても、結果的にどこへ向かっているのか解らなかったり、あるいは検討すべき課題に気づかずにスカスカな状態で高層に達してしまうと根本から無意味なものにもなりかねません。
そこを二人でやれば違う視点から傾きがないかとか、複数の手順で確認したりでき、より公正な理論を組み立てられ、また手順が明確でない場合はアイデアが出やすいので組み立てるスピードも早くなります。
ただ船頭多くして船山に上るとはよくいったもので、こういうある意味で前衛的な概念をこねる場合は、統制が取れない大人数でやると直前の一言を反論するためだけの無駄な発言をしたり、話題が曲折して当初の指針を失ったりするので、小数精鋭でというのが鉄則とも言えます。
また例えば二人で塔を建てるにしても、両者の間の思考能力に差があると結局片方が一方的に状況を進めることになり、酷い場合には主張を理解できなかったり、説明だけで時間が過ぎたりと、争いは同じレベル同士のものでしか発生しないと言われるように、ドングリの背比べ目くそ鼻くそみたいな能力水準である事が望まれます。それこそ背伸びしてなんぼみたいなところですからね。
ところが一方で、本当に一人では難しいのかという疑問も上がります。複数人で考えるメリットを冷静に見つめると、ざっくり言うなら複数の視点から問題を見る事以外はそれほど重要ではないのです。
客観的に筋が通っていさえすればいいのであり、何度も反芻して考えればだいたい正しい向きになるものです。ただし、そのためには自分の考えには常に疑問を持って、かつて確立した自信を持っていた考えを否定する勇気を持つ必要があります。
他人から無下に否定されることもあり、何が正しいのかと混乱することもあります。そこで大事になるのが確率の計算です。確からしい可能性を数字ではなく概念として自分の中にストックしておく事で、「確かではないが」という前置きの元で引用する事ができるし、あるいは逆に他人の間違った考えを指摘する事ができるようになります。
お互いに同じ姿勢で問題に向き合えば、無意味なプライドとか身分を捨てて公平に議論ができるのですが、なかなかそういう人には出会えないものですね。はい。そこでまた新しい塔が建つわけですが。
自分より経験の浅い人間が完全な下位互換である場合は歳を取ればとるほど少なくなります。逆に経験を積んでいるからこそ固定観念にとらわれた硬い考えしか持っていなかったりもするわけですから、新しさを求め続ける柔軟性は持っていて損はないわけです。
ある程度歳を重ね、社会的に大人になってくると子どもだった頃に比べて、自分の主張が簡単に認められるようになるので、些細な事を学習したり賢くなりたいという意欲を失い、現状に満足しがちになります。言い方を変えれば、現状で十分だという意識から自分自身が否定される事が無いようプライドを持ち始めるのです。
物事を経験に当てはめて解決して済むようになると、考える習慣を失い、考える力自体が衰退するというスパイラルに陥ります。
と、いう蟻地獄にははまりたくないですね。というお話。
2013年4月21日日曜日
二ヶ月くらい空きましたかね。すんません
またしばらく空白期間がありましたが、そろそろなんか記事を書かないとなーなんて思ったり思わなかったり。まあ、誰に謝ってるのかよくわかんないですけど。
ここ最近の記事はなんか不必要に重い内容だったりする傾向があるのでなかなかホイホイ書けないんですよね。
いろいろ事情があって今年は暇なんで頻度を上げていこうと思うんですけど、これまでの分量でいくとそれなりにきついので(ぶっちゃけ書けるぐらいの技量は欲しいけど)前日とか一週間分のツイッターからネタを拾って掘り下げるみたいな形で、とにかく文字を起こす作業を習慣づけたいと思ってます。
流石に二日に一回以上書いてた高校時代まではいきませんけど最低週1でいきたいかと。
ただね、いろいろ書きたいネタがあっても今まさに独学で専門知識を強化してる分野もあって、中途半端な認識で公開したくないなってのがちらほらありまして。
まあ、要は今まで通り気ままにやるけど記事の数は増やしたいよって事です。
言ったとおり時間がなにぶん余るものですから、ちょっと大学の図書館で専門書とか読みあさろうかとかいろいろ画策したりするんですけど、よくよく考えたら、考えなくてもこれまでもそこまで時間が逼迫していたわけではないんですよね。
実際問題やる気があるかどうかというところに落ち着くわけです。
基本的に万年ぼっちなので、時間が余るととりあえず引きこもってテレビ見たり録画した映画見たりしてるんですけど、何かやろうとしてもモチベーションが上がらない体質なんですよね。
他人と接してると真面目なイメージをもたれがちなんですけど、それはあくまで他人の目があるから真面目にやってるんであって、一人でいるときは何もしなくても誰にも迷惑がかからないので何もしてない事が多いんですね。
顕著なのが学業に関してなんですけど、例えば課題を期限までに提出しなくても元々誰にも迷惑はかからないわけですよ。課題をやったからって先生は実利を得るわけでもなく、催促する手間は増えるかもしれないけど、先生にとっては出す出さないが重要なのであって、自分にとってやるやらないで労働量には非常に大きな差が出てくるわけですね。
課題をやるのだって自分のためになるじゃないか、と思うかもしれません。レポートを書け、みたいなとかく経験を必要とするものなら確かにおっしゃるとおりなんですが、中学生がやるような問題集を解け、みたいな課題は必ずしもそうではないと思うのです。
本来結果として求められるのは「問題の解決能力を養う」事であって、問題集を解く事それ自体ではない。しかし、実際先生が求めるのは後者です。
違うのか?と思うかもしれませんが、簡単に言えば「解くふり」をしたって「問題集を解いた」という判断をされるわけですから、これらは似ても似つかぬわけです。逆も然りです。問題を解かずに問題と解答を見比べ、解いた痕跡を残さずに解法だけをマスターしたって次から問題が解けるようにすることはできます。
つまり、問題を解く事は問題を解けるようになる必要条件でも十分条件でもないのです。もちろん経験的に解けるようになるための一手である事は確かで、何もしない状態よりは遙かに効果的です。
例えば、数学の複雑な問題が出題されたとして解ききれずにやむなく模範解答を見たとする。よくあるのは赤字で写して取り組んだ姿勢をアピールして解いた状態に代える。多くはこれでパスできるわけだが、これは本当に解いた状態に相当するのか。
家庭学習においては基本的に自己解決しなくてはならず、能力を超える問題や思い込みによる不正解は結局理解できないままになる機会が多い。では、どのタイミングで諦めれば良いのか。集中できているときに思いつく全ての手を尽くしてもできないのならば良いのか。集中できないとき、眠いときに複雑な思考ができない状態ならば手を尽くす事すらできない。ほとんどの答案はまっさらになる。これは赤字で写経しても良いのか?
先生の裁量に依るところが大きいわけだが、生徒の能力からすれば解けてもおかしくない問題がまっさら、ということになると「解いていない」と判断されかねない。なら、どうすればいいのか。
集中ができない。集中を欠いた状態では手も足も出ない。自他共通の認識として「解いた状態」になる写す行為を選ぶか、「解いていない状態」つまり未提出を選ぶか。自分の場合、往々にして集中できない事が多かったので最終的にこの選択をするよう迫られるわけだ。
昔から誠実であるべきと考えているのか、自分には嘘をつきたくないみたいな心の病を患っていたので結局未提出のまま期限を過ぎる事になるんですが、共通認識として「やってない」だけではなくて「やる気がない」という事にもなるわけで、まあそれくらい普段から自分の事になるとやる気が出なくなるので、おしりに火が付くとやるタイプなんですけど、自分で自分を鞭で叩くみたいなモチベーションの上げ方は上手くいかない体質なんですね。
つまり何が言いたいかというとですね、必要に迫られないとあんまり動かない人なんで、一人暮らしで誰とも連絡をとらない生活を続けてると、一度やる気を失うと再起するのに時間かかったりするんでね。まあ、あんまり頻度とかあてにならないんですよね。
ここ最近の記事はなんか不必要に重い内容だったりする傾向があるのでなかなかホイホイ書けないんですよね。
いろいろ事情があって今年は暇なんで頻度を上げていこうと思うんですけど、これまでの分量でいくとそれなりにきついので(ぶっちゃけ書けるぐらいの技量は欲しいけど)前日とか一週間分のツイッターからネタを拾って掘り下げるみたいな形で、とにかく文字を起こす作業を習慣づけたいと思ってます。
流石に二日に一回以上書いてた高校時代まではいきませんけど最低週1でいきたいかと。
ただね、いろいろ書きたいネタがあっても今まさに独学で専門知識を強化してる分野もあって、中途半端な認識で公開したくないなってのがちらほらありまして。
まあ、要は今まで通り気ままにやるけど記事の数は増やしたいよって事です。
言ったとおり時間がなにぶん余るものですから、ちょっと大学の図書館で専門書とか読みあさろうかとかいろいろ画策したりするんですけど、よくよく考えたら、考えなくてもこれまでもそこまで時間が逼迫していたわけではないんですよね。
実際問題やる気があるかどうかというところに落ち着くわけです。
基本的に万年ぼっちなので、時間が余るととりあえず引きこもってテレビ見たり録画した映画見たりしてるんですけど、何かやろうとしてもモチベーションが上がらない体質なんですよね。
他人と接してると真面目なイメージをもたれがちなんですけど、それはあくまで他人の目があるから真面目にやってるんであって、一人でいるときは何もしなくても誰にも迷惑がかからないので何もしてない事が多いんですね。
顕著なのが学業に関してなんですけど、例えば課題を期限までに提出しなくても元々誰にも迷惑はかからないわけですよ。課題をやったからって先生は実利を得るわけでもなく、催促する手間は増えるかもしれないけど、先生にとっては出す出さないが重要なのであって、自分にとってやるやらないで労働量には非常に大きな差が出てくるわけですね。
課題をやるのだって自分のためになるじゃないか、と思うかもしれません。レポートを書け、みたいなとかく経験を必要とするものなら確かにおっしゃるとおりなんですが、中学生がやるような問題集を解け、みたいな課題は必ずしもそうではないと思うのです。
本来結果として求められるのは「問題の解決能力を養う」事であって、問題集を解く事それ自体ではない。しかし、実際先生が求めるのは後者です。
違うのか?と思うかもしれませんが、簡単に言えば「解くふり」をしたって「問題集を解いた」という判断をされるわけですから、これらは似ても似つかぬわけです。逆も然りです。問題を解かずに問題と解答を見比べ、解いた痕跡を残さずに解法だけをマスターしたって次から問題が解けるようにすることはできます。
つまり、問題を解く事は問題を解けるようになる必要条件でも十分条件でもないのです。もちろん経験的に解けるようになるための一手である事は確かで、何もしない状態よりは遙かに効果的です。
例えば、数学の複雑な問題が出題されたとして解ききれずにやむなく模範解答を見たとする。よくあるのは赤字で写して取り組んだ姿勢をアピールして解いた状態に代える。多くはこれでパスできるわけだが、これは本当に解いた状態に相当するのか。
家庭学習においては基本的に自己解決しなくてはならず、能力を超える問題や思い込みによる不正解は結局理解できないままになる機会が多い。では、どのタイミングで諦めれば良いのか。集中できているときに思いつく全ての手を尽くしてもできないのならば良いのか。集中できないとき、眠いときに複雑な思考ができない状態ならば手を尽くす事すらできない。ほとんどの答案はまっさらになる。これは赤字で写経しても良いのか?
先生の裁量に依るところが大きいわけだが、生徒の能力からすれば解けてもおかしくない問題がまっさら、ということになると「解いていない」と判断されかねない。なら、どうすればいいのか。
集中ができない。集中を欠いた状態では手も足も出ない。自他共通の認識として「解いた状態」になる写す行為を選ぶか、「解いていない状態」つまり未提出を選ぶか。自分の場合、往々にして集中できない事が多かったので最終的にこの選択をするよう迫られるわけだ。
昔から誠実であるべきと考えているのか、自分には嘘をつきたくないみたいな心の病を患っていたので結局未提出のまま期限を過ぎる事になるんですが、共通認識として「やってない」だけではなくて「やる気がない」という事にもなるわけで、まあそれくらい普段から自分の事になるとやる気が出なくなるので、おしりに火が付くとやるタイプなんですけど、自分で自分を鞭で叩くみたいなモチベーションの上げ方は上手くいかない体質なんですね。
つまり何が言いたいかというとですね、必要に迫られないとあんまり動かない人なんで、一人暮らしで誰とも連絡をとらない生活を続けてると、一度やる気を失うと再起するのに時間かかったりするんでね。まあ、あんまり頻度とかあてにならないんですよね。
2013年2月24日日曜日
人と論点が違う事がよくあるんです
あまりにもネタが思いつかないので、ツイッターで掠ったネタを拾うのも良いかなと思いまして。140字で収めた内容をブログ記事に展開すれば一本書けちゃいますよね。まあ要約された主張の内容を自分の中でも整頓できるし。みたいな。
昨日の夜、NHKの番組を観てたんですが、その番組では視聴者から寄せられたツイッターでの意見を時々画面下に表示してるんですね。もちろん不適切な意見もあるでしょうがから、担当者が選別して載せる載せないを判断してるんでしょう。
同じくNHKで放送された別の番組ですが、以前ツイッターのサーバーがダウンしたとき、継続して番組の内容に即した意見と思われる投稿が表示されているという事件がありました。当然ツイッター経由の意見は局側に届かないわけですが、たまたま発生した地震に関する投稿や事前には告知されていない出演者に関する投稿が見られたというものです。NHKはその後、事前に寄せられた意見を採用して表示していたと苦しい言い訳をしたとの事。
そんな事件があったので、余計に注意して、番組の内容よりもツイッターの投稿の採用について何か傾向を掴もうという気でその番組を観ていました。
これから述べるのはあくまで偏った私見ですので、鵜呑みにしないでくださいね。
まず文章の特徴を見定めようと思って視聴を始めました。前出の事件の際は自演説、つまりNHK側が自分で呟いて(あるいは実際には呟かずに)自分で掲載しているという疑いが囁かれました。自分はその当該番組を観ていなかったのでなんとも言えませんが、状況から考えるとそう考えるのが自然でしょう。騒ぎはNHKも知っているでしょうから、それを踏まえた上でどうなっているのかというのが見所でした。
番組では表示される意見に発言主のアカウント名が併記されます。実はそれも一つ注目ポイントであります。最近話題になったペ二オク詐欺では、入札者のアカウント名が辞書的に自動生成されたものばかりで手動で作成したアカウントとは到底思えないものばかりでした。流石にそこまで露骨なアカウント名ではないでしょうが、ネット心理に精通していない数人の担当者で作ってしまうとなんとなく傾向がでてくるのでは、という疑いも持って臨みます。
まず気になったのは句読点の使い方。気にして見始めると、しばらくは文中に読点、文末に句点をきちんと使っているものばかりに感じましたが、しばらくすると読点だけのものや句点だけのもの、どちらも使わない投稿も見られました。
ただ、もし全てに句読点が完全に打ってあったとしても、それは採用される基準である可能性もあって、必ずしも自作自演を示唆するものではありません。NHKは準国営のような立ち位置ですし、ある程度お堅いイメージもありますから不思議ではありません。結果的に句読点は特に問題でもないようです。
ちなみに、ツイッターでは印象や見栄えの問題もあって、句読点を使わずにスペースや改行を代替することもあります。自分はツイッターを喋るように使いたいので句点の代わりにスペースを使ってます。
次に気になったのは、文末の年齢と性別です。意見を述べた後、例えば「30代男性」など自分で併記しているものがありました。ツイッターはフェイスブックと違い、実名登録の義務はなく、年齢などの個人情報を登録する欄はありません。実社会での知り合いと繋がるために使っていても、やり方次第では全くの他人からは見れば匿名に近い状態で使う事も出来ます。自分の場合、実名はもちろん、所属する組織の詳細や交友関係が外部の人から知られないよう、単純な情報を流さないようにしています。特に後ろめたい事をしているつもりはないですが、自分自身そういったネット上での個人情報網を分析する能力に少し長けているので、一応気にしているのです。もちろん、投稿しなければなにも情報は漏れませんが。話を戻して、そんな準匿名のネットサービスで、随分ぼかしてるとはいえ、個人情報です。それともうひとつ、ファクシミリやメールフォームならばそれらを併記するのも珍しくないですが、雑多な意見が入り交じるつぶやきの中で、採用される事を前提にと考えても差し支えないでしょう、年齢性別を併記するのはどうも恥ずかしいものがあると思います。
ネット上ではオープンな(制限している人は部分的に)場ですから、番組を観てない人もその投稿が見える状態にあります。他の人には見えていないものにツッコミを入れるのですら何だか気恥ずかしいのに、どこか必死さが窺い知れる投稿は憚られます。もちろんそんな事は気にしないだとか、常々公表してて隠してない人もいるでしょう。みんながみんなではなかったので、疑いを助長しても、これまた決定打にはなりません。
前述の通り、アカウント名にも注目をしていたのですが、結局番組が終わるまでに見つけただけで6度は採用されたあるアカウントがありました。他にはそうそう複数回採用されるアカウントはなかったのですが、特定のアカウントだけ、なんだか不自然だなと思いました。
アカウント名の作り方には個性が出ます。ツイッターはローマ字や数字・記号などで登録し、平仮名や漢字などの日本語を使えない制限があります。ありきたりなものだと他の人に先に使われていたり、いまいち個性が光らないものです。独自のあだ名や好きなものをローマ字表記したり、誕生日や生まれた年の数字を文字列に加える人もいます。
もし普段使う予定のない、不自然でない程度の文字列でアカウントを作る事になったとき、安直な発想で数字を使ってしまうと01や321など、数がそれ自体で数字的な意味を持つ、つまり個人の何らかの独自性にちなんでいないと考えられる数を使いがちです。
度々出てくるアカウント名は、なんと末尾に生年月日を8桁で併記しているものだったのです。これはあまりにも個人を前面に押し出しすぎていて、自作自演を目的としたアカウントであるとは考えにくい。4桁で生年だけ、あるいは生月日だけ書く人は結構いるのですが、8桁書いてしまう人はほとんど個人情報を隠すつもりのない人だと言えます。職種の特定できる投稿や、個人が特定できる写真などを気兼ねなく公開できるクラスの人です。
そんな人がNHKの番組の時だけ饒舌になったり、あるいは生年月日まで公開してるのに私生活は慎ましく秘匿しているなんてことはどこかバランスの悪さを感じてしまいます。はっきりとは思い至らなくても、なんとなく抵抗感が出るもので自作自演のために用意したアカウントとは考えにくいでしょう。
実際問題、自分自身どういう姿勢なのかというと、自作自演自体は容認していいと考えています。問題なのは視聴者が疑念を持つ事、つまり偏った意見ばかり表示していると感じてしまう事です。もし自作自演であっても、世論をバランス良く反映していればツイッターを見ていない視聴者としては不平の出る余地はありません。もちろん、自作自演は明確な根拠が公になっていない事が前提です。番組視聴者の圧倒的多数はツイッターを見ながらではないでしょう。それ故、ネット上で大騒動にならない程度の問題であれば番組的には実質大したことではないのです。実際、番組の進行上不都合な投稿を表示しないなど、実際そういう経緯なのかどうかはわかりませんが、そんな不満をぶちまけるユーザーもいます。売国だ、などと過激に批判する人もいます。匿名社会ですから不思議ではありません。でも、そんな情報はほとんど世に出回らず、その場で火がくすぶる程度です。
みんなが平和でいられればそれ自体が悪である嘘をついても容認されるのか、という倫理的に重要な問題もありますが、テレビをはじめとしたメディアというのは程度の差はあれ自作自演の溢れる業界だと思います。バラエティ番組でスタジオから笑い声が起こったりしますが、実際にオーディエンスがいたとしてもその人達は番組の製作する上で適した人を招待しているわけで、元を正せば作為的な要素があるのです。しかし、その程度であれば誰が聞いても納得するし、けしからんと言い立てる人はそういないでしょう。問題は、視聴者からの意見を生情報としてそのまま伝えているかのような誤解を招きかねないやり方にあるのです。
ウェブサイト上でツイッターの投稿を表示する窓を設置する事ができますが、それは検索ワードやアカウント名を指定することしかできず、時系列に沿った全ての情報が表示されます。一般的なものであれば恣意的な選択をすることができないことになっているのです。番組内で投稿の表示方法がその窓を彷彿とさせるものであり、あたかも平等に、あるいは無作為に表示されているように見えてしまいます。ユーザーの操作とは関係なく一定時間が経過すると窓の中が自動でスクロールして次の投稿に移り変わる点や、出演者が読み上げるためにピックアップされているわけではないなどの特徴があるためです。
この誤解さえなければ、単純に番組だけを視聴している側からの違和感は解決されます。例えば、読み上げるために表示をするだとか、意見の傾向ごとにスタッフが並び替えてまとめて表示するなど。問題の解決策はいくらでもあるのです。画面内を調整する事を考えると、ツイッターのデザイン手法に似せるというのは“ツイッターです”感が出る最良の方法でしょうから制作側としても捨てがたいのでしょう。まあ、そんな下らないこだわりの優先順位はって話なんですけどね。
最初に自作自演を疑った議論をしましたが、結果的にしっぽを掴めるようなものはありませんでした。推測を押しつけて議論する他ないのです。善し悪しを議論する前から前提条件が整っていないためです。そのため、整然とした議論のできる論点を探す必要があります。この場合公平性と実直さを中心に議論する事で解決しています。手元にある情報より読み取れる事実だけから効果的な問題提起をできる論点を探し出す事が重要だと思います。後者の結論によって前者の問題点こそ解決できなくとも問題それ自体を回避する事ができます。
普段からそういう心がけで議論をしているのですが、他の人と話していると大まかな問題の方向性は共有していても具体的なポイントがずれている、その上相手が理解してくれないという事が多々あります。直感的に愚鈍な違和感に体当たりするだけでは思考力は養えません。押してダメなら引いてみな、ではありませんが問題を根こそぎ解決できる大きな枠を視野に入れた手法を見つけられなければ、いつまで経っても水掛け論を卒業できないのです。
昨日の夜、NHKの番組を観てたんですが、その番組では視聴者から寄せられたツイッターでの意見を時々画面下に表示してるんですね。もちろん不適切な意見もあるでしょうがから、担当者が選別して載せる載せないを判断してるんでしょう。
同じくNHKで放送された別の番組ですが、以前ツイッターのサーバーがダウンしたとき、継続して番組の内容に即した意見と思われる投稿が表示されているという事件がありました。当然ツイッター経由の意見は局側に届かないわけですが、たまたま発生した地震に関する投稿や事前には告知されていない出演者に関する投稿が見られたというものです。NHKはその後、事前に寄せられた意見を採用して表示していたと苦しい言い訳をしたとの事。
そんな事件があったので、余計に注意して、番組の内容よりもツイッターの投稿の採用について何か傾向を掴もうという気でその番組を観ていました。
これから述べるのはあくまで偏った私見ですので、鵜呑みにしないでくださいね。
まず文章の特徴を見定めようと思って視聴を始めました。前出の事件の際は自演説、つまりNHK側が自分で呟いて(あるいは実際には呟かずに)自分で掲載しているという疑いが囁かれました。自分はその当該番組を観ていなかったのでなんとも言えませんが、状況から考えるとそう考えるのが自然でしょう。騒ぎはNHKも知っているでしょうから、それを踏まえた上でどうなっているのかというのが見所でした。
番組では表示される意見に発言主のアカウント名が併記されます。実はそれも一つ注目ポイントであります。最近話題になったペ二オク詐欺では、入札者のアカウント名が辞書的に自動生成されたものばかりで手動で作成したアカウントとは到底思えないものばかりでした。流石にそこまで露骨なアカウント名ではないでしょうが、ネット心理に精通していない数人の担当者で作ってしまうとなんとなく傾向がでてくるのでは、という疑いも持って臨みます。
まず気になったのは句読点の使い方。気にして見始めると、しばらくは文中に読点、文末に句点をきちんと使っているものばかりに感じましたが、しばらくすると読点だけのものや句点だけのもの、どちらも使わない投稿も見られました。
ただ、もし全てに句読点が完全に打ってあったとしても、それは採用される基準である可能性もあって、必ずしも自作自演を示唆するものではありません。NHKは準国営のような立ち位置ですし、ある程度お堅いイメージもありますから不思議ではありません。結果的に句読点は特に問題でもないようです。
ちなみに、ツイッターでは印象や見栄えの問題もあって、句読点を使わずにスペースや改行を代替することもあります。自分はツイッターを喋るように使いたいので句点の代わりにスペースを使ってます。
次に気になったのは、文末の年齢と性別です。意見を述べた後、例えば「30代男性」など自分で併記しているものがありました。ツイッターはフェイスブックと違い、実名登録の義務はなく、年齢などの個人情報を登録する欄はありません。実社会での知り合いと繋がるために使っていても、やり方次第では全くの他人からは見れば匿名に近い状態で使う事も出来ます。自分の場合、実名はもちろん、所属する組織の詳細や交友関係が外部の人から知られないよう、単純な情報を流さないようにしています。特に後ろめたい事をしているつもりはないですが、自分自身そういったネット上での個人情報網を分析する能力に少し長けているので、一応気にしているのです。もちろん、投稿しなければなにも情報は漏れませんが。話を戻して、そんな準匿名のネットサービスで、随分ぼかしてるとはいえ、個人情報です。それともうひとつ、ファクシミリやメールフォームならばそれらを併記するのも珍しくないですが、雑多な意見が入り交じるつぶやきの中で、採用される事を前提にと考えても差し支えないでしょう、年齢性別を併記するのはどうも恥ずかしいものがあると思います。
ネット上ではオープンな(制限している人は部分的に)場ですから、番組を観てない人もその投稿が見える状態にあります。他の人には見えていないものにツッコミを入れるのですら何だか気恥ずかしいのに、どこか必死さが窺い知れる投稿は憚られます。もちろんそんな事は気にしないだとか、常々公表してて隠してない人もいるでしょう。みんながみんなではなかったので、疑いを助長しても、これまた決定打にはなりません。
前述の通り、アカウント名にも注目をしていたのですが、結局番組が終わるまでに見つけただけで6度は採用されたあるアカウントがありました。他にはそうそう複数回採用されるアカウントはなかったのですが、特定のアカウントだけ、なんだか不自然だなと思いました。
アカウント名の作り方には個性が出ます。ツイッターはローマ字や数字・記号などで登録し、平仮名や漢字などの日本語を使えない制限があります。ありきたりなものだと他の人に先に使われていたり、いまいち個性が光らないものです。独自のあだ名や好きなものをローマ字表記したり、誕生日や生まれた年の数字を文字列に加える人もいます。
もし普段使う予定のない、不自然でない程度の文字列でアカウントを作る事になったとき、安直な発想で数字を使ってしまうと01や321など、数がそれ自体で数字的な意味を持つ、つまり個人の何らかの独自性にちなんでいないと考えられる数を使いがちです。
度々出てくるアカウント名は、なんと末尾に生年月日を8桁で併記しているものだったのです。これはあまりにも個人を前面に押し出しすぎていて、自作自演を目的としたアカウントであるとは考えにくい。4桁で生年だけ、あるいは生月日だけ書く人は結構いるのですが、8桁書いてしまう人はほとんど個人情報を隠すつもりのない人だと言えます。職種の特定できる投稿や、個人が特定できる写真などを気兼ねなく公開できるクラスの人です。
そんな人がNHKの番組の時だけ饒舌になったり、あるいは生年月日まで公開してるのに私生活は慎ましく秘匿しているなんてことはどこかバランスの悪さを感じてしまいます。はっきりとは思い至らなくても、なんとなく抵抗感が出るもので自作自演のために用意したアカウントとは考えにくいでしょう。
実際問題、自分自身どういう姿勢なのかというと、自作自演自体は容認していいと考えています。問題なのは視聴者が疑念を持つ事、つまり偏った意見ばかり表示していると感じてしまう事です。もし自作自演であっても、世論をバランス良く反映していればツイッターを見ていない視聴者としては不平の出る余地はありません。もちろん、自作自演は明確な根拠が公になっていない事が前提です。番組視聴者の圧倒的多数はツイッターを見ながらではないでしょう。それ故、ネット上で大騒動にならない程度の問題であれば番組的には実質大したことではないのです。実際、番組の進行上不都合な投稿を表示しないなど、実際そういう経緯なのかどうかはわかりませんが、そんな不満をぶちまけるユーザーもいます。売国だ、などと過激に批判する人もいます。匿名社会ですから不思議ではありません。でも、そんな情報はほとんど世に出回らず、その場で火がくすぶる程度です。
みんなが平和でいられればそれ自体が悪である嘘をついても容認されるのか、という倫理的に重要な問題もありますが、テレビをはじめとしたメディアというのは程度の差はあれ自作自演の溢れる業界だと思います。バラエティ番組でスタジオから笑い声が起こったりしますが、実際にオーディエンスがいたとしてもその人達は番組の製作する上で適した人を招待しているわけで、元を正せば作為的な要素があるのです。しかし、その程度であれば誰が聞いても納得するし、けしからんと言い立てる人はそういないでしょう。問題は、視聴者からの意見を生情報としてそのまま伝えているかのような誤解を招きかねないやり方にあるのです。
ウェブサイト上でツイッターの投稿を表示する窓を設置する事ができますが、それは検索ワードやアカウント名を指定することしかできず、時系列に沿った全ての情報が表示されます。一般的なものであれば恣意的な選択をすることができないことになっているのです。番組内で投稿の表示方法がその窓を彷彿とさせるものであり、あたかも平等に、あるいは無作為に表示されているように見えてしまいます。ユーザーの操作とは関係なく一定時間が経過すると窓の中が自動でスクロールして次の投稿に移り変わる点や、出演者が読み上げるためにピックアップされているわけではないなどの特徴があるためです。
この誤解さえなければ、単純に番組だけを視聴している側からの違和感は解決されます。例えば、読み上げるために表示をするだとか、意見の傾向ごとにスタッフが並び替えてまとめて表示するなど。問題の解決策はいくらでもあるのです。画面内を調整する事を考えると、ツイッターのデザイン手法に似せるというのは“ツイッターです”感が出る最良の方法でしょうから制作側としても捨てがたいのでしょう。まあ、そんな下らないこだわりの優先順位はって話なんですけどね。
最初に自作自演を疑った議論をしましたが、結果的にしっぽを掴めるようなものはありませんでした。推測を押しつけて議論する他ないのです。善し悪しを議論する前から前提条件が整っていないためです。そのため、整然とした議論のできる論点を探す必要があります。この場合公平性と実直さを中心に議論する事で解決しています。手元にある情報より読み取れる事実だけから効果的な問題提起をできる論点を探し出す事が重要だと思います。後者の結論によって前者の問題点こそ解決できなくとも問題それ自体を回避する事ができます。
普段からそういう心がけで議論をしているのですが、他の人と話していると大まかな問題の方向性は共有していても具体的なポイントがずれている、その上相手が理解してくれないという事が多々あります。直感的に愚鈍な違和感に体当たりするだけでは思考力は養えません。押してダメなら引いてみな、ではありませんが問題を根こそぎ解決できる大きな枠を視野に入れた手法を見つけられなければ、いつまで経っても水掛け論を卒業できないのです。
2013年2月18日月曜日
合法的な金融博打のお話
春休みでございます。
長らくブログを更新しなかったのは、昨年末からぼちぼち始まってたアルバイトやら先週までのテストやらで、アホな事をひとしきり考えられる週末がなかったというのが直接の原因です。
大学がシーズンを終えて、ぼちぼち平日が暇になるので気ままにまた記事を書いていこうと思っておりますです。
さし当たって近況から。
昨年6月頃から投資に手を出し始めまして、実際本格的に取引を増やしたのは7月8月ですけども、かれこれ半年ちょっとぐらい経つわけですね。
今のところ外国為替取引専業でやっておるわけですが、最初はネット銀行付随のシステムに口座を開設したんですね。口座開設も維持も無料だし、同意するチェックをするだけで開設できますしね。とりあえず開設はしてみたものの、その時は為替に関する知識はほとんどなく、あるとすれば香港やイギリスから個人輸入をするための最低限なものでした。開設できた後は、なんとなく値動きしてるのをみて「おー」って言いながら証拠金も入金せず、しばらく放置していました。それが4月ぐらいでしたかね。
暇で暇で仕方なかった6月ぐらいになって、ネット上で為替のデモ取引ができるサービスがあるというのを知り、ゲーム感覚で始めてみたわけです。この時点では実際のFX口座を持ってる事なんてすっかり忘れてます。デモですから、もちろん損したって実害は出ないわけですが、なにしろ値動きに関する基礎的な知識から無いわけですので、買っていいのか売っていいのか、どの通貨ペアを取引していいのかもわからないわけですよ。
闇雲にいくつかポジションを持ってみて、初日はだいたい5%ぐらい資産が増えました。もちろん、わかって取引してるわけではないのでマグレです。なんやかんやと取引しながら、単語やコツを解説してるサイトなんかでちょこちょこ勉強し、為替に関する知識を増やしていきました。なんとなく相場というのが見えてきた頃、前述の口座を思い出すわけです。
都合のいい事に、昨春シーズンのバイトで得た報酬が使い道のないまま普通預金口座で眠っておりまして、とりあえず取引が出来る程度の証拠金は用意できるわけです。感覚は掴みつつあっても、まだまだわかっていないつもりだったので、とりあえずトラリピ気味に取引をして実益を出しつつ馴染もうという作戦に出ます。ただトラリピしてるのもあれなんでスワップポイントで微々たる利益を得ようと、豪ドルをメインに取引を始めました。
幸か不幸か、歴史的な円高の真っ只中であり、これ以上円高が進むと輸出系企業が非常に困るという状況であったわけで、中央銀行による為替介入なんかが行われていた時期でした。端的に言うなら、大きな流れでは円安にしか振れようがないタイミングだったわけですね。程なくしてユーロが94円台に突入したりして泣く泣く損切りしたりもしましたけど、今思えばあれくらいの損失を処理する経験も大事なんだと思います。
その後は特段大きなトレンドもなく、ちまちまと利食いしながら順調に資産を増やしていきます。
12月中旬時点で資産はおよそ150%になっていました。政権交代が確定して大きなトレンドが形成され、ボラティリティが上昇し、自信の取引も活発になります。年末年始は財政の崖問題が取り沙汰され、年越ししながらオバマ大統領の会見を待つもはっきりした答えが出ず、正月の午前4時までチャートと睨めっこしていた苦労は報われなかった、なんて事もありました。
年が明け、FX口座を他社に乗り換えようと思いつきます。銀行のおまけシステムなので、倒れるリスクは確かに小さいものの、スプレッドが大きくて少々不便だったというのが最大の理由でしたね。たまたま新しいシステムの宣伝を見かけ、キャンペーンをやってたりしたという短絡的な理由で会社を選び、口座開設。じわじわとポジションを崩しながら資金を移し、取引画面をカスタマイズしつつ取引形態に馴れ、1月末に移行を完了させました。移行期間中は資金が分散してたのであんまり実感が湧かなかったのですが、完了時点で資金が225%に増えていた事に気づきます。ざっくり半年ぐらいでの成績です。
ちなみに最初に入金して以来、資金は一切増減させていません。理由はいくつかありますが、成績として客観的に見られるようにしたいのが一番ですね。あとは財布と切り離して管理する事で損害は利益と相殺させてやりくりする意識をするとか、儲かっても浪費癖をつけないとか、そんなところですね。結局のところ、実益がいくら出ようともあくまでゲームでしかないという考えです。
さて、ここからが近況なんですが(前置き長い・・・)、ここへ来てこのタイミングで投資を始めようかと考えている人をちらほら見かけるようになってるんですね。証券会社の話によると、やはりこのトレンドを見てFX口座の開設数が急激に伸びているという事だそうです。ネット社会ではFX始めない奴はアホだとか、誰でも儲けられるタイミングだとかいう書き込みがあったりしますが、正直な話をすると、初心者が今始めるのはハッキリ遅すぎると思います。政権交代から今まで15%の円安になり、一つの目標だったリーマン前の水準94円を達成したわけで、次の目標値であり大きなレジスタンスラインであろう99円~100円への伸びしろは5%しか残ってないのです。
一方で円高方向へどれくらいの余裕があるかという話ですが、実はここまでの上昇トレンドは実需によるものというより、投機筋によって形成されてきたものだと言われています。つまり上がりきったと見られれば大量の利食いが入り、急速に下落する事だってあり得るというのです。私見では一服してしまえば90円、あるいは88円くらいのラインまで戻す可能性もあると考えます(※あんまり根拠ないですけど)。そんな相場の中で新規参入するというのは非常にリスキーな話で、古参に資金をむさぼられて良い思いをする事も無く短い投資人生を終える事にもなりかねません。証拠金取引ですから、数円の値動きで全資産が蒸発する事もあり得る話です。
FXで大負けした人の話によくあるのが、知り合いに儲かるよ~と進められて始めるというのがありますが、投資において誰でも儲かるというのはあり得ません。資産を失うリスクがあって初めて高い利益を得るチャンスが発生するわけですから。また、リスクについては口座開設時に同意させられる約款の通りであり、損失の全ては口座開設者であり約款に同意した本人が責任を負うわけです。とはいえ、勧めた人間にも一因はあるわけですから、もし俺に、FXってどうなの?なんて相談を持ちかけても、やった方が良いよ!なんて返事は期待しないでくださいね。決して後押しはしませんので。
FXに限らずですけど、天災とかリーマンみたいな特別な事態を除いて、基本的には相場を読むセンスというのが必要になると思います。ローソク足を見ながらサポートラインレジスタンスラインを先読みしたり、指標で動いた後にどれくらい流れが持続するか、あるいはどのタイミングで調整が入るか、瞬間は反応しても押し目を拾われる大きな流れだとか。初心者には見当も付かない細かな傾向がいろいろあるわけです。着実に利益を重ねるには、こうした地道で忍耐強い売買があってこそだと思います(勝手に思ってます)。
アベノミクスでもっとも力強く動いた時期はもう終わりです。これから継続的に利益を上げたいならば小技を身につけなければいけないのだと思います。あるいは、デイトレのような形ではなく配当を主な目的にして現物株を持つというのも十分ありでしょう。投資業界の大きな流れとして“リスクオン”の時期に入っています。手元に資金が余っているなら、デフレ脱却の一助に活用してみるのも良いのではないですかね・・・。
投資経験が半年しかない理系学生があんまり語るのも片腹痛い話ですが、自分から見てもあまり投資に向いていないような人は結構います。東京MXとかUstで平日の東証取引時間中に放送配信してるストックボイス・東京マーケットワイドを見て、地道に株を中心とした金融取引に関する知識を身につけてきた自分ですけど、どのくらいの時間値動きを見て、専門家の意見を聞くかっていうのは一つ重要な事と思います。終値ベースでのレポートも大事ですが、今現在の視点からこの後を読むというのは非常に難しいと改めて認識できますからね。
みたいなことを一度ブログに書いておこうと思ってました。投資ってのは儲かった人が勝ち組ですけど、相談するなら負けた人にの方が良いと思いますね。ゼロサムの世界で利益を勝ち取るのは並の事ではないです。はい。
長らくブログを更新しなかったのは、昨年末からぼちぼち始まってたアルバイトやら先週までのテストやらで、アホな事をひとしきり考えられる週末がなかったというのが直接の原因です。
大学がシーズンを終えて、ぼちぼち平日が暇になるので気ままにまた記事を書いていこうと思っておりますです。
さし当たって近況から。
昨年6月頃から投資に手を出し始めまして、実際本格的に取引を増やしたのは7月8月ですけども、かれこれ半年ちょっとぐらい経つわけですね。
今のところ外国為替取引専業でやっておるわけですが、最初はネット銀行付随のシステムに口座を開設したんですね。口座開設も維持も無料だし、同意するチェックをするだけで開設できますしね。とりあえず開設はしてみたものの、その時は為替に関する知識はほとんどなく、あるとすれば香港やイギリスから個人輸入をするための最低限なものでした。開設できた後は、なんとなく値動きしてるのをみて「おー」って言いながら証拠金も入金せず、しばらく放置していました。それが4月ぐらいでしたかね。
暇で暇で仕方なかった6月ぐらいになって、ネット上で為替のデモ取引ができるサービスがあるというのを知り、ゲーム感覚で始めてみたわけです。この時点では実際のFX口座を持ってる事なんてすっかり忘れてます。デモですから、もちろん損したって実害は出ないわけですが、なにしろ値動きに関する基礎的な知識から無いわけですので、買っていいのか売っていいのか、どの通貨ペアを取引していいのかもわからないわけですよ。
闇雲にいくつかポジションを持ってみて、初日はだいたい5%ぐらい資産が増えました。もちろん、わかって取引してるわけではないのでマグレです。なんやかんやと取引しながら、単語やコツを解説してるサイトなんかでちょこちょこ勉強し、為替に関する知識を増やしていきました。なんとなく相場というのが見えてきた頃、前述の口座を思い出すわけです。
都合のいい事に、昨春シーズンのバイトで得た報酬が使い道のないまま普通預金口座で眠っておりまして、とりあえず取引が出来る程度の証拠金は用意できるわけです。感覚は掴みつつあっても、まだまだわかっていないつもりだったので、とりあえずトラリピ気味に取引をして実益を出しつつ馴染もうという作戦に出ます。ただトラリピしてるのもあれなんでスワップポイントで微々たる利益を得ようと、豪ドルをメインに取引を始めました。
幸か不幸か、歴史的な円高の真っ只中であり、これ以上円高が進むと輸出系企業が非常に困るという状況であったわけで、中央銀行による為替介入なんかが行われていた時期でした。端的に言うなら、大きな流れでは円安にしか振れようがないタイミングだったわけですね。程なくしてユーロが94円台に突入したりして泣く泣く損切りしたりもしましたけど、今思えばあれくらいの損失を処理する経験も大事なんだと思います。
その後は特段大きなトレンドもなく、ちまちまと利食いしながら順調に資産を増やしていきます。
12月中旬時点で資産はおよそ150%になっていました。政権交代が確定して大きなトレンドが形成され、ボラティリティが上昇し、自信の取引も活発になります。年末年始は財政の崖問題が取り沙汰され、年越ししながらオバマ大統領の会見を待つもはっきりした答えが出ず、正月の午前4時までチャートと睨めっこしていた苦労は報われなかった、なんて事もありました。
年が明け、FX口座を他社に乗り換えようと思いつきます。銀行のおまけシステムなので、倒れるリスクは確かに小さいものの、スプレッドが大きくて少々不便だったというのが最大の理由でしたね。たまたま新しいシステムの宣伝を見かけ、キャンペーンをやってたりしたという短絡的な理由で会社を選び、口座開設。じわじわとポジションを崩しながら資金を移し、取引画面をカスタマイズしつつ取引形態に馴れ、1月末に移行を完了させました。移行期間中は資金が分散してたのであんまり実感が湧かなかったのですが、完了時点で資金が225%に増えていた事に気づきます。ざっくり半年ぐらいでの成績です。
ちなみに最初に入金して以来、資金は一切増減させていません。理由はいくつかありますが、成績として客観的に見られるようにしたいのが一番ですね。あとは財布と切り離して管理する事で損害は利益と相殺させてやりくりする意識をするとか、儲かっても浪費癖をつけないとか、そんなところですね。結局のところ、実益がいくら出ようともあくまでゲームでしかないという考えです。
さて、ここからが近況なんですが(前置き長い・・・)、ここへ来てこのタイミングで投資を始めようかと考えている人をちらほら見かけるようになってるんですね。証券会社の話によると、やはりこのトレンドを見てFX口座の開設数が急激に伸びているという事だそうです。ネット社会ではFX始めない奴はアホだとか、誰でも儲けられるタイミングだとかいう書き込みがあったりしますが、正直な話をすると、初心者が今始めるのはハッキリ遅すぎると思います。政権交代から今まで15%の円安になり、一つの目標だったリーマン前の水準94円を達成したわけで、次の目標値であり大きなレジスタンスラインであろう99円~100円への伸びしろは5%しか残ってないのです。
一方で円高方向へどれくらいの余裕があるかという話ですが、実はここまでの上昇トレンドは実需によるものというより、投機筋によって形成されてきたものだと言われています。つまり上がりきったと見られれば大量の利食いが入り、急速に下落する事だってあり得るというのです。私見では一服してしまえば90円、あるいは88円くらいのラインまで戻す可能性もあると考えます(※あんまり根拠ないですけど)。そんな相場の中で新規参入するというのは非常にリスキーな話で、古参に資金をむさぼられて良い思いをする事も無く短い投資人生を終える事にもなりかねません。証拠金取引ですから、数円の値動きで全資産が蒸発する事もあり得る話です。
FXで大負けした人の話によくあるのが、知り合いに儲かるよ~と進められて始めるというのがありますが、投資において誰でも儲かるというのはあり得ません。資産を失うリスクがあって初めて高い利益を得るチャンスが発生するわけですから。また、リスクについては口座開設時に同意させられる約款の通りであり、損失の全ては口座開設者であり約款に同意した本人が責任を負うわけです。とはいえ、勧めた人間にも一因はあるわけですから、もし俺に、FXってどうなの?なんて相談を持ちかけても、やった方が良いよ!なんて返事は期待しないでくださいね。決して後押しはしませんので。
FXに限らずですけど、天災とかリーマンみたいな特別な事態を除いて、基本的には相場を読むセンスというのが必要になると思います。ローソク足を見ながらサポートラインレジスタンスラインを先読みしたり、指標で動いた後にどれくらい流れが持続するか、あるいはどのタイミングで調整が入るか、瞬間は反応しても押し目を拾われる大きな流れだとか。初心者には見当も付かない細かな傾向がいろいろあるわけです。着実に利益を重ねるには、こうした地道で忍耐強い売買があってこそだと思います(勝手に思ってます)。
アベノミクスでもっとも力強く動いた時期はもう終わりです。これから継続的に利益を上げたいならば小技を身につけなければいけないのだと思います。あるいは、デイトレのような形ではなく配当を主な目的にして現物株を持つというのも十分ありでしょう。投資業界の大きな流れとして“リスクオン”の時期に入っています。手元に資金が余っているなら、デフレ脱却の一助に活用してみるのも良いのではないですかね・・・。
投資経験が半年しかない理系学生があんまり語るのも片腹痛い話ですが、自分から見てもあまり投資に向いていないような人は結構います。東京MXとかUstで平日の東証取引時間中に放送配信してるストックボイス・東京マーケットワイドを見て、地道に株を中心とした金融取引に関する知識を身につけてきた自分ですけど、どのくらいの時間値動きを見て、専門家の意見を聞くかっていうのは一つ重要な事と思います。終値ベースでのレポートも大事ですが、今現在の視点からこの後を読むというのは非常に難しいと改めて認識できますからね。
みたいなことを一度ブログに書いておこうと思ってました。投資ってのは儲かった人が勝ち組ですけど、相談するなら負けた人にの方が良いと思いますね。ゼロサムの世界で利益を勝ち取るのは並の事ではないです。はい。
2012年12月28日金曜日
理屈の話
ツキイチで書いてるつもりだったけど、一ヶ月って割と長いし、書こうと奮起できない時期が続くといつの間にか忘れてたりもするんでね、みたいなよく意味のわからない言い訳をしつつ今年を締めくくる記事を書くのですよ。
理屈のお話です。
理屈の苦手な人って案外多いものですよね。まあ、自分で理屈が得意かどうかってのはなかなか絶対的には計れませんけど。
理系の人は理屈っぽくて、文系の人はそうじゃない、みたいな風に世間一般では思われがちですけど、経験上そうでもないと思うのです。自分が理系だからか周囲には理系の人間が若干多いですけど、理系の学問を専門としてるにも関わらず理屈が苦手な人は割合にすれば思いの外多い気がします。
理系の人は一般に数学なんかが得意な傾向にありますけど、中を開けてみると、実際に数理力が高い人と、公式を覚えるのが得意とか解き方を覚えるのが得意な人と、ざっくり二パターンあると思います。もちろんどちらか一方だけでは数学の問題を解くことはできませんが。それら二つを比較したとき地頭力といいますか、未知の課題を解決するためには当然前者の力が重要になるわけです。
アバウトに言うと、カミソリみたいな思考力を持つはじめまして理系タイプと、経験と記憶力で困難に打ち勝つおひさしぶりです理系タイプに分けられるということです。理系としてどちらが優れているというのは問題でないのですが、理屈に強いのは前者ですよね、というところ。
中高レベルの数学の先生でも経験上それぞれのタイプがいます。数学は当然よくできるのに、学問外では筋の通らない話し方をする、なんて人も。ですから、学業の成績とはある程度の関係しかなくて、学力が一定以上のレベルになると必ずしも論理力が追随するわけではないという事です。
既にこの辺の言い回しからして難しい言い方をしているようですがご了承を。
さて、おひさしぶりです理系タイプやどちらさまでしたか文系タイプの皆さんと話を、もとい議論をしているとよくあることなのですが、用意された理屈に穴を見つけることがあります。別段揚げ足を掬ってやろうという魂胆ではなく、情報共有の課程で見つかるものですが。時に矛盾点であったり、あるいは検討が不十分なところであったり、優先順位をうまく設定できないために事態が進展しなかったり。
そういった理屈の脆弱性を見つけられたとき、自分は上から目線でものを言われるのがすごく腹立たしいので、逆に自分が見つけたときはなるべく本人にそれとなく解決してもらうように仕向けてます。問題はここからなんですよ。
おひさしぶりタイプの中には隠れはじめましてタイプみたいな人もいて、自分で問題解決できる十分な思考力を持った人もいて、見えなかった能力を垣間見たりもする一方、ほんとにほんとの真性おひさしぶりタイプの人にエッジの効いた指摘をすると問いかけの主旨すら理解されなかったりするわけです。
理屈という名の鈍器。そう個人的には呼んでますけど、シャープな切り返しが通用しない場合に固くて鈍い理屈で殴り続けるんですね。いうなれば土台の亀裂を明るみに出すような行為です。非破壊の打音検査をするふりをしながら、実は壊れそうなところを徹底して全力で叩き破壊するレベルで悪質なものですが。
そんな中、一番やっかいなのはお茶を濁して鈍器をかわそうとする人ですね。めんどくさがりでずる賢く生きようとする人に見られますが、鈍器を用意し始めると突然語気を弱めたり、その場しのぎの予防線を張ったり、あるいは議題自体を一方的に遠ざけようとしたりと、態度を急変させるのです。これをやられると当然質疑がうまくいかなくなるので、指摘する側としては自分の理解力が足りないのか、あるいは相手の理屈に問題点があったのかはっきりしないまま終えてしまう事になります。
殴られるのがわかってて正座してるのも確かに恐ろしいもので、自分よりも優れた論理力を持つ人と話す時は自分自身及び腰な考え方をしてしまいます。それでもやはり自分の劣った思考力を正面から受け止め自覚する姿勢は必要だと思います。
論旨がはっきりしないようですが、半分は愚痴でもう半分は自分に対する戒めのような、思いついたことをそのまま書き記したくらいの記事です。
読者へのメッセージがあるとすれば、誰かお互いのためにも尋常に論戦を交わそうよ、というところであるのですが。
理屈のお話です。
理屈の苦手な人って案外多いものですよね。まあ、自分で理屈が得意かどうかってのはなかなか絶対的には計れませんけど。
理系の人は理屈っぽくて、文系の人はそうじゃない、みたいな風に世間一般では思われがちですけど、経験上そうでもないと思うのです。自分が理系だからか周囲には理系の人間が若干多いですけど、理系の学問を専門としてるにも関わらず理屈が苦手な人は割合にすれば思いの外多い気がします。
理系の人は一般に数学なんかが得意な傾向にありますけど、中を開けてみると、実際に数理力が高い人と、公式を覚えるのが得意とか解き方を覚えるのが得意な人と、ざっくり二パターンあると思います。もちろんどちらか一方だけでは数学の問題を解くことはできませんが。それら二つを比較したとき地頭力といいますか、未知の課題を解決するためには当然前者の力が重要になるわけです。
アバウトに言うと、カミソリみたいな思考力を持つはじめまして理系タイプと、経験と記憶力で困難に打ち勝つおひさしぶりです理系タイプに分けられるということです。理系としてどちらが優れているというのは問題でないのですが、理屈に強いのは前者ですよね、というところ。
中高レベルの数学の先生でも経験上それぞれのタイプがいます。数学は当然よくできるのに、学問外では筋の通らない話し方をする、なんて人も。ですから、学業の成績とはある程度の関係しかなくて、学力が一定以上のレベルになると必ずしも論理力が追随するわけではないという事です。
既にこの辺の言い回しからして難しい言い方をしているようですがご了承を。
さて、おひさしぶりです理系タイプやどちらさまでしたか文系タイプの皆さんと話を、もとい議論をしているとよくあることなのですが、用意された理屈に穴を見つけることがあります。別段揚げ足を掬ってやろうという魂胆ではなく、情報共有の課程で見つかるものですが。時に矛盾点であったり、あるいは検討が不十分なところであったり、優先順位をうまく設定できないために事態が進展しなかったり。
そういった理屈の脆弱性を見つけられたとき、自分は上から目線でものを言われるのがすごく腹立たしいので、逆に自分が見つけたときはなるべく本人にそれとなく解決してもらうように仕向けてます。問題はここからなんですよ。
おひさしぶりタイプの中には隠れはじめましてタイプみたいな人もいて、自分で問題解決できる十分な思考力を持った人もいて、見えなかった能力を垣間見たりもする一方、ほんとにほんとの真性おひさしぶりタイプの人にエッジの効いた指摘をすると問いかけの主旨すら理解されなかったりするわけです。
理屈という名の鈍器。そう個人的には呼んでますけど、シャープな切り返しが通用しない場合に固くて鈍い理屈で殴り続けるんですね。いうなれば土台の亀裂を明るみに出すような行為です。非破壊の打音検査をするふりをしながら、実は壊れそうなところを徹底して全力で叩き破壊するレベルで悪質なものですが。
そんな中、一番やっかいなのはお茶を濁して鈍器をかわそうとする人ですね。めんどくさがりでずる賢く生きようとする人に見られますが、鈍器を用意し始めると突然語気を弱めたり、その場しのぎの予防線を張ったり、あるいは議題自体を一方的に遠ざけようとしたりと、態度を急変させるのです。これをやられると当然質疑がうまくいかなくなるので、指摘する側としては自分の理解力が足りないのか、あるいは相手の理屈に問題点があったのかはっきりしないまま終えてしまう事になります。
殴られるのがわかってて正座してるのも確かに恐ろしいもので、自分よりも優れた論理力を持つ人と話す時は自分自身及び腰な考え方をしてしまいます。それでもやはり自分の劣った思考力を正面から受け止め自覚する姿勢は必要だと思います。
論旨がはっきりしないようですが、半分は愚痴でもう半分は自分に対する戒めのような、思いついたことをそのまま書き記したくらいの記事です。
読者へのメッセージがあるとすれば、誰かお互いのためにも尋常に論戦を交わそうよ、というところであるのですが。
2012年10月14日日曜日
思考のゲル化
特別なきっかけも無く慢性的に気分が落ち込んでいるときは、もしかするとその一因として景気が悪い事があるかもしれないそうな。
また、人は景気の良いときは白を好み、悪いときは黒を好む性質もあるとか。
衣服などで明るい色を取り入れると気分を変える事もできるとかできないとか。しかしそれは火種となり得てもただそれだけで高揚をもたらし続ける事は無いでしょうから、また難しいところではあります。
関連して、作り笑いでも表情筋を動かせば健康に良いとか、あるいは気分を上向きにする効果があるそうです。
二進も三進もいかないときはとりあえず側から入るのも手段としては悪くないのでしょう。それでもやはり何か根源が芳しくないのであれば、そこは抜本塞源的な働きかけを欠かしてはいけないのでしょう。
以前の投稿で人は幸せになる事ができるのかとういう事について論じた事がありましたが、今でもやはりその命題に対する的確な理屈を設ける事ができずにいます。
その題に対する専らの切り込み口は、考える事が幸福に繋がるかどうかという点でした。
自分にとっての考える、というのはその大半が小さな反逆であるように思います。
自分で左右の手を組むとき、普段は右手の親指が上になるように指を交わしているのですが、一時は意識して左の親指が上になるよう組んでみた時期がありました。
人の体というのは一見左右対称なようで、対称なのは大雑把な外観だけ。誰しも利き手や利き目が存在するのは周知の事実であるように、人のあらゆる部位には偏りがあります。体の中心線上、顔の真ん中に座っている鼻でさえ、多くの人は左右どちらかに骨が傾いているとか。
手の組み方を変えて気づくのは、指の股が普段組む組み方で馴染むようになっているという事。これはきっと体の形自体が変わってしまったという事ばかりではなく、普段と違う事に両手が上手く対応できないのだろうと思います。
例えば舞踊にしてもそうですが、理屈でわかっていても一発で上手くいかせるというのは無謀な話。多くは体で覚える、という作業が必要になります。意識しなくともどこかで型を作っていたり、コツを掴んでいたりしています。
手を逆に組んでもぐにゅぐにゅと形を模索すると、なんとか股がうまく噛み合う形というのは見つける事が出来ます。しかしそうしても普段組んでいるのとは気分が違う。かなり意識的であるからだと思う。
一月か二月か、意識的に指を組んでいましたが、いつしかそんな事も忘れて“普段組み”に戻ってしまっていました。
水は低いところを探して落ちていきます。人とて同じく、一旦落ち着く場所を見つけてしまえばそこに安住するようになります。自分から高い場所に上るのは一苦労。上って良い事があるならまだしも、そうでもないなら窪みにいる方が楽なのです。
もちろん手の組み方なんて一例に過ぎず。あるいは左手でボールを投げようと思った事があるだろうか。
実際にボールを投げなくとも、モーションだけで十分です。右手でボールを投げる動作をすると上手くいくのに、それを鏡写しに真似しようとしてもどうもぎこちない。右、左と交互に動いてコツを掴もうとしても体は右で感じるような自然な感覚にはなれないのです。
長い間この問題について考えてきた結果、得られた結論は肉付きの違いでした。
紐付けした球を円形に運動させるときに生まれる遠心力。直線に加速させる時とは違った方向に力が必要となります。同じようにボールに速度エネルギーを与えるとき、右手では直線方向の加速度ばかりでなく、向心加速度を上手く利用します。
実は左手は、右手のようにボールを投げるときに必要となる力をあまり経験した事がないのです。右手の真似をしようとすると関節が外れそうな方向に力が働く、というのが適切な表現かはわからないが、引っ張る力に筋肉で対抗しようとするのではなく、上手く働いてくれる筋肉が無いために、その力の出所を骨格に任せてしまうのです。
右と左の違いは思ったよりも遙かに奥が深い。
右手が利き手だから少なくとも手に関していえば、左よりも右の方が圧倒的に器用かというと、そうでもないらしい。ペンを持つにしてもプルタブを起こすにしても、何か新しい事を覚えるときに主役を任されるのは右手が多い。左手が補助的な役割に回るのは必然だろう。
主役ばかりに目を奪われるのは仕方の無い事だが、左右を入れ替えてみて驚くのは実は右手の不器用さであったりする。左手でペンを持ち、紙に文字を書こうとする。すると右手は忽ちに行き場を失い、何をして良いのかわからなくなるのです。左手が普段何をしているのかなんて気にもとめないでしょうが、実は何気ない左手の立場があってこそうまく右手が機能できる場というのは驚くほど多いのです。
ボールを左手で投げるとき、右腕はどこで何をすれば良いのかさっぱりわからず、普段の左腕の動きを観察するために右手でボールを投げる動作をしてみなければならない。という具合になる。
ペンを持つときだってそう。単に紙を押さえてくれさえすれば良いのだが、実際初めてやろうとするとなかなかどうして上手くいかない。手が支えるのは実は紙だけではなく、体の姿勢を決める役割もある。思えばさして難しい事ではないようで、やってみる前にいくら思いを巡らせても気づいたかどうかは定かでない。
しかしどうだろう、鉛筆の持ち方を学ぶときに言われた事を思い起こせば新鮮さを感じる方がむしろおかしいのかもしれない。左手で紙を押さえないと字を書けないだろう、と確かに何度か言われた。その頃から既に、脇役の居場所は膝の上ではなかった。
そうこうして左に主演をさせてみてもやはり“普段”の右の方が楽なもので、左が少々器用になろうとも右にトラブルがあったときのバックアップが厚くなったくらいで特段日常生活が良くなるわけではない。英語がある程度堪能になったって日本語の方が便利なもの。やはりというべきか、安住の地はそう易々と離れられるものではない。
ファーストフードで注文を済ませると、会計をおこなう前に別の商品を勧められることがある。自分はこの手の販促活動に乗っかって注文を追加した事は一度も無いのだが、あれはきっと売り上げを向上させる貴重な一手なのだと思う。
スーパーマーケットのレジで並んでいると、手の届くところにガムやら電池やらが並べてある。コンビニではいざという時に無いと困る生活必需品は下の段に。駅前の書店の入口近くには外からでも見える棚に時刻表が収められる。
衝動買いと、その逆とを上手い具合に突くよう作戦を立てるのは、きっと成長する経営に欠かせないものなのだと思う。
居酒屋で注文を聞き、繰り返す前に尋ねられてもいないお勧めメニューを紹介する。ある客は、そう迷う事なくそれも、と返事をするとしよう。海鮮ものだと、鮮度や旬の問題だとか、店側にとっては一定ではない仕入れ値の具合なんかも勘案して勧める。
客としてはそのメニューが目を見張るほど珍しかったり特徴的でもない限り、あるいは後悔するような味でない限り、店を出る頃には勧められたメニューだった事なんてどうでも良い事になっているだろう。客としては別段損をしたという意識はないし、店側は売りやすいメニューで売り上げを伸ばせるのだから、これはとても素敵な事だと思う。
だが一方で、これで良いのだろうかという立場に立ってしまえばどうだろう。
これは商売に一種の妨害をしてやろうという単純で幼い発想ではない。自分の利益を中心として、絶対的な価値判断の基準として考えるというもの。店員に勧められる前にその商品の存在を知っていれば果たして注文しただろうか。オススメとして存在した場合と、そうでなかった場合を考えたときに同じ結論が導かれただろうか。
レジに並んでいるときに見つけたガムが美味しそうだと直感的に感じたとする。そこでカゴに入れてしまえば楽しみを一つ得る事が出来るだろう。しかしもし、それを見つけなかったときはどうだったろうか。結果的にそのガムを買わない事で後悔することはまず無いし、この場合は楽しみを“失った”のではなく“得られなかった”というだけでしかないのです。
もし“得られなかった”ら気持ちとして“得た”場合には劣るかもしれないが、その差は果たしてどれくらいのものだろう。商品の価格に相応するだけの価値があるだろうか。
“無かった場合”を考えるというのは非常に難しいもので、特に気持ちの問題となると困難を極めます。
調子が狂うとき、特によく言われるのはかわいい女の子と普通に話せないというシチュエーションですが、もし仮に相手がかわいい女の子ではなかった場合、一体何を話しただろうかという事を事前に知っていれば意識的に“普通に”会話をする事ができるかもしれない。という非常に単純明快でかつ難解な問題と大筋では同じ事を言っています。
深いところまできてしまうと、人によって何を善しとするかが違うために消費動向も一概に言い纏める事はできなくなってしまうのですが。
咄嗟に出されるオススメというのは売る側にとって常に都合のいいように出てくるものの、消費者にとって良い提案であるとは限らない。予め存在を知っていても注文しなかっただろうという場合はその場で考えるのが面倒なのでとりあえず断る。別の陳列順序であれば購買意欲をそそられただろうと思うものは立ち止まって少し悩んでみる。書店で見つけた面白そうな本は、その書店の努力によって見つけられたものかもしれないし、そうでなくとも書店側が斡旋した出会いだと思えば、帰ってからインターネットで注文しようという気持ちにはとてもならない。今の自分はそういった考えを持っています。こういった姿勢に関して、完全に意見の一致する人はそういないでしょう。
これらは考えに考えた末に辿り着いた考え方で、これからも絶えず変化していくでしょう。中には一周して結論的に以前と同じ行動を選ぶ事もあるくらいです。
こうした反逆を楽しみ、より優れた考えを勝ち取っているようにも見える一方で、単純に居酒屋で勧められたメニューを受け入れる方が遙かに楽なのは確かです。
あまり深く考えない方が、言うなれば馬鹿であった方が、もっと言うなら頭の中がお花畑な方が圧倒的に幸福に近い立ち位置であるのではないかという乱暴な仮説がどこまで適しているかを“考え”続けてきたわけです。
煮詰まる。という言葉には二つ意味があって、一つは議論や熟考の末に方向性や内容が絞られてきてそろそろ結論が得られそうだという状態。もう一つは議論が進まなかったり適切な案が出せずに立ち往生する状態を言います。後者は原義的には間違いだそうですが。
どうにも今日日は頭が硬くなっているというか、斬新で興味深いものを生み出す発想力が衰えてきているように感じます。あらゆる物事にだいたいの妥当な結論を出せたという事かもしれませんけれども、それはそれで退屈な事です。
そこで一度凝り固まった理屈を切り崩し、ゼロベースから思考を再構築すれば何か新たな発見があるかもしれない。という事を思いついたのはつい先日の話。
何かに熱中するなりして難しい考え方から距離を置き、いわゆる時間を無駄にするような生活の仕方でも何でも良いのでとにかくシンプルで馬鹿な生活をすれば、これまでとは違う物の見方ができるのではないかと思ったのです。
しかしこうした物の考え方は自分にとって一つのアイデンティティであり、言いようによってはプライドでもあるわけですから、そう簡単に自励的な変化は期待できないのではあるのですが。
また、人は景気の良いときは白を好み、悪いときは黒を好む性質もあるとか。
衣服などで明るい色を取り入れると気分を変える事もできるとかできないとか。しかしそれは火種となり得てもただそれだけで高揚をもたらし続ける事は無いでしょうから、また難しいところではあります。
関連して、作り笑いでも表情筋を動かせば健康に良いとか、あるいは気分を上向きにする効果があるそうです。
二進も三進もいかないときはとりあえず側から入るのも手段としては悪くないのでしょう。それでもやはり何か根源が芳しくないのであれば、そこは抜本塞源的な働きかけを欠かしてはいけないのでしょう。
以前の投稿で人は幸せになる事ができるのかとういう事について論じた事がありましたが、今でもやはりその命題に対する的確な理屈を設ける事ができずにいます。
その題に対する専らの切り込み口は、考える事が幸福に繋がるかどうかという点でした。
自分にとっての考える、というのはその大半が小さな反逆であるように思います。
自分で左右の手を組むとき、普段は右手の親指が上になるように指を交わしているのですが、一時は意識して左の親指が上になるよう組んでみた時期がありました。
人の体というのは一見左右対称なようで、対称なのは大雑把な外観だけ。誰しも利き手や利き目が存在するのは周知の事実であるように、人のあらゆる部位には偏りがあります。体の中心線上、顔の真ん中に座っている鼻でさえ、多くの人は左右どちらかに骨が傾いているとか。
手の組み方を変えて気づくのは、指の股が普段組む組み方で馴染むようになっているという事。これはきっと体の形自体が変わってしまったという事ばかりではなく、普段と違う事に両手が上手く対応できないのだろうと思います。
例えば舞踊にしてもそうですが、理屈でわかっていても一発で上手くいかせるというのは無謀な話。多くは体で覚える、という作業が必要になります。意識しなくともどこかで型を作っていたり、コツを掴んでいたりしています。
手を逆に組んでもぐにゅぐにゅと形を模索すると、なんとか股がうまく噛み合う形というのは見つける事が出来ます。しかしそうしても普段組んでいるのとは気分が違う。かなり意識的であるからだと思う。
一月か二月か、意識的に指を組んでいましたが、いつしかそんな事も忘れて“普段組み”に戻ってしまっていました。
水は低いところを探して落ちていきます。人とて同じく、一旦落ち着く場所を見つけてしまえばそこに安住するようになります。自分から高い場所に上るのは一苦労。上って良い事があるならまだしも、そうでもないなら窪みにいる方が楽なのです。
もちろん手の組み方なんて一例に過ぎず。あるいは左手でボールを投げようと思った事があるだろうか。
実際にボールを投げなくとも、モーションだけで十分です。右手でボールを投げる動作をすると上手くいくのに、それを鏡写しに真似しようとしてもどうもぎこちない。右、左と交互に動いてコツを掴もうとしても体は右で感じるような自然な感覚にはなれないのです。
長い間この問題について考えてきた結果、得られた結論は肉付きの違いでした。
紐付けした球を円形に運動させるときに生まれる遠心力。直線に加速させる時とは違った方向に力が必要となります。同じようにボールに速度エネルギーを与えるとき、右手では直線方向の加速度ばかりでなく、向心加速度を上手く利用します。
実は左手は、右手のようにボールを投げるときに必要となる力をあまり経験した事がないのです。右手の真似をしようとすると関節が外れそうな方向に力が働く、というのが適切な表現かはわからないが、引っ張る力に筋肉で対抗しようとするのではなく、上手く働いてくれる筋肉が無いために、その力の出所を骨格に任せてしまうのです。
右と左の違いは思ったよりも遙かに奥が深い。
右手が利き手だから少なくとも手に関していえば、左よりも右の方が圧倒的に器用かというと、そうでもないらしい。ペンを持つにしてもプルタブを起こすにしても、何か新しい事を覚えるときに主役を任されるのは右手が多い。左手が補助的な役割に回るのは必然だろう。
主役ばかりに目を奪われるのは仕方の無い事だが、左右を入れ替えてみて驚くのは実は右手の不器用さであったりする。左手でペンを持ち、紙に文字を書こうとする。すると右手は忽ちに行き場を失い、何をして良いのかわからなくなるのです。左手が普段何をしているのかなんて気にもとめないでしょうが、実は何気ない左手の立場があってこそうまく右手が機能できる場というのは驚くほど多いのです。
ボールを左手で投げるとき、右腕はどこで何をすれば良いのかさっぱりわからず、普段の左腕の動きを観察するために右手でボールを投げる動作をしてみなければならない。という具合になる。
ペンを持つときだってそう。単に紙を押さえてくれさえすれば良いのだが、実際初めてやろうとするとなかなかどうして上手くいかない。手が支えるのは実は紙だけではなく、体の姿勢を決める役割もある。思えばさして難しい事ではないようで、やってみる前にいくら思いを巡らせても気づいたかどうかは定かでない。
しかしどうだろう、鉛筆の持ち方を学ぶときに言われた事を思い起こせば新鮮さを感じる方がむしろおかしいのかもしれない。左手で紙を押さえないと字を書けないだろう、と確かに何度か言われた。その頃から既に、脇役の居場所は膝の上ではなかった。
そうこうして左に主演をさせてみてもやはり“普段”の右の方が楽なもので、左が少々器用になろうとも右にトラブルがあったときのバックアップが厚くなったくらいで特段日常生活が良くなるわけではない。英語がある程度堪能になったって日本語の方が便利なもの。やはりというべきか、安住の地はそう易々と離れられるものではない。
ファーストフードで注文を済ませると、会計をおこなう前に別の商品を勧められることがある。自分はこの手の販促活動に乗っかって注文を追加した事は一度も無いのだが、あれはきっと売り上げを向上させる貴重な一手なのだと思う。
スーパーマーケットのレジで並んでいると、手の届くところにガムやら電池やらが並べてある。コンビニではいざという時に無いと困る生活必需品は下の段に。駅前の書店の入口近くには外からでも見える棚に時刻表が収められる。
衝動買いと、その逆とを上手い具合に突くよう作戦を立てるのは、きっと成長する経営に欠かせないものなのだと思う。
居酒屋で注文を聞き、繰り返す前に尋ねられてもいないお勧めメニューを紹介する。ある客は、そう迷う事なくそれも、と返事をするとしよう。海鮮ものだと、鮮度や旬の問題だとか、店側にとっては一定ではない仕入れ値の具合なんかも勘案して勧める。
客としてはそのメニューが目を見張るほど珍しかったり特徴的でもない限り、あるいは後悔するような味でない限り、店を出る頃には勧められたメニューだった事なんてどうでも良い事になっているだろう。客としては別段損をしたという意識はないし、店側は売りやすいメニューで売り上げを伸ばせるのだから、これはとても素敵な事だと思う。
だが一方で、これで良いのだろうかという立場に立ってしまえばどうだろう。
これは商売に一種の妨害をしてやろうという単純で幼い発想ではない。自分の利益を中心として、絶対的な価値判断の基準として考えるというもの。店員に勧められる前にその商品の存在を知っていれば果たして注文しただろうか。オススメとして存在した場合と、そうでなかった場合を考えたときに同じ結論が導かれただろうか。
レジに並んでいるときに見つけたガムが美味しそうだと直感的に感じたとする。そこでカゴに入れてしまえば楽しみを一つ得る事が出来るだろう。しかしもし、それを見つけなかったときはどうだったろうか。結果的にそのガムを買わない事で後悔することはまず無いし、この場合は楽しみを“失った”のではなく“得られなかった”というだけでしかないのです。
もし“得られなかった”ら気持ちとして“得た”場合には劣るかもしれないが、その差は果たしてどれくらいのものだろう。商品の価格に相応するだけの価値があるだろうか。
“無かった場合”を考えるというのは非常に難しいもので、特に気持ちの問題となると困難を極めます。
調子が狂うとき、特によく言われるのはかわいい女の子と普通に話せないというシチュエーションですが、もし仮に相手がかわいい女の子ではなかった場合、一体何を話しただろうかという事を事前に知っていれば意識的に“普通に”会話をする事ができるかもしれない。という非常に単純明快でかつ難解な問題と大筋では同じ事を言っています。
深いところまできてしまうと、人によって何を善しとするかが違うために消費動向も一概に言い纏める事はできなくなってしまうのですが。
咄嗟に出されるオススメというのは売る側にとって常に都合のいいように出てくるものの、消費者にとって良い提案であるとは限らない。予め存在を知っていても注文しなかっただろうという場合はその場で考えるのが面倒なのでとりあえず断る。別の陳列順序であれば購買意欲をそそられただろうと思うものは立ち止まって少し悩んでみる。書店で見つけた面白そうな本は、その書店の努力によって見つけられたものかもしれないし、そうでなくとも書店側が斡旋した出会いだと思えば、帰ってからインターネットで注文しようという気持ちにはとてもならない。今の自分はそういった考えを持っています。こういった姿勢に関して、完全に意見の一致する人はそういないでしょう。
これらは考えに考えた末に辿り着いた考え方で、これからも絶えず変化していくでしょう。中には一周して結論的に以前と同じ行動を選ぶ事もあるくらいです。
こうした反逆を楽しみ、より優れた考えを勝ち取っているようにも見える一方で、単純に居酒屋で勧められたメニューを受け入れる方が遙かに楽なのは確かです。
あまり深く考えない方が、言うなれば馬鹿であった方が、もっと言うなら頭の中がお花畑な方が圧倒的に幸福に近い立ち位置であるのではないかという乱暴な仮説がどこまで適しているかを“考え”続けてきたわけです。
煮詰まる。という言葉には二つ意味があって、一つは議論や熟考の末に方向性や内容が絞られてきてそろそろ結論が得られそうだという状態。もう一つは議論が進まなかったり適切な案が出せずに立ち往生する状態を言います。後者は原義的には間違いだそうですが。
どうにも今日日は頭が硬くなっているというか、斬新で興味深いものを生み出す発想力が衰えてきているように感じます。あらゆる物事にだいたいの妥当な結論を出せたという事かもしれませんけれども、それはそれで退屈な事です。
そこで一度凝り固まった理屈を切り崩し、ゼロベースから思考を再構築すれば何か新たな発見があるかもしれない。という事を思いついたのはつい先日の話。
何かに熱中するなりして難しい考え方から距離を置き、いわゆる時間を無駄にするような生活の仕方でも何でも良いのでとにかくシンプルで馬鹿な生活をすれば、これまでとは違う物の見方ができるのではないかと思ったのです。
しかしこうした物の考え方は自分にとって一つのアイデンティティであり、言いようによってはプライドでもあるわけですから、そう簡単に自励的な変化は期待できないのではあるのですが。
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