だらだら続くよ自己分析シリーズ。。。
一時期パワースポットブームがマスコミで騒がれていたのをさっき風呂で思い出したので、ちょっとそれに関して述べてみようかと思いますね。
度々言うようだけど、パワースポットに対してもの申したいんじゃなくて、パワースポットを例にとって自分の思考手法を解析しようという企画なので、そこんとこ勘違いしないでよね。
パワースポットというのは、なんだかよくわからないけど神聖なオーラが溢れ出てる場所で、そこに行けばなんだかパワーをもらえる、みたいなそんなスポットのことですよね。たぶん。
ちょっぴり問題になってたのは、そのスポットだけ拝んでホイサッサと帰ってしまう客がいるということでした。たとえば神社の境内にあるご神木だけ拝んで本殿を無視して帰る、みたいな。
パワースポットを信じるかどうかというのは恐らく大きく意見が分かれるところだろうと思います。
科学的な立場からものを言う人にしてみれば、パワーだなんて聞いただけでアホらしい存在に対して物理的な説明を求めるところから始まるかもしれません。パワーストーンなんかでも同じ事が言えますけど、俗に言う「気」だとか「力」というのは物理的に解析できるエネルギーで論じる事ができるものではないでしょう。その点、あくまで「科学的根拠はない」ものとして扱うしかないのです。
しかし一方で、実際にその「力」を信じている人がいる事も報道によると事実なようです。科学的な立場のみから何かものを言うならば、そういった人に対しては根拠の明示を求めるか信仰をやめるように勧告するしかないでしょう。無論、多くの人はそんな議論に興味は無いでしょうが。
自分の場合は、「パワースポットから信仰する人に対して何らかのエネルギーやそれに準ずる何かが与えられる事は無いだろう」という立場にはいますが、むやみにそれを否定したり見下したりする立場ではありません。
あくまで多角的に問題を捕らえたいので、科学的な見地を拭い去って再び議論を始めます。
科学的な立場からの論点は「パワースポットの存在自体に関してやその機能に関して」でしたが、次の論点は「非科学的と言えるパワースポットを信仰させるのは何か」に移ります。
分野で分けるならば宗教的というのが近いかもしれませんが、「信仰する人がいるのは事実」という点を掘り下げます。
まず、信仰する事で何が起こるのかを考えます。最初にメリットとして考えられるのは「パワーが得られるというプラシーボ的効果」です。おみくじで大吉を引いたときのように、自分が頑張れるように後押しをしてくれる効果はあると思います。自分にパワーが充填されていると思い込めば、少々の事であっても通常時より優位な状態で問題を解決する事ができると信じる事ができるでしょう。また、誰かに「大丈夫」と声をかけてもらえればある程度自分に自信が持てる人がいると思いますが、そういった人が誰にも声をかけてもらえないとき、自分自身の中に「大丈夫」といえる根拠をパワーの存在から生み出す事ができる点で、精神的な安定をもたらす効果が認められるだろうと考えられます。
一方、そういった扱いをするのであればわざわざ遠出をしてまでパワーを享受しに行く必要は無いと言うこともできます。確かに何か適当なものを信仰するだけならば旅費を出したり、時間を割いたりする必要は無いわけです。
いわゆる「パワー」というのは、信仰を高める事でその効果も大きくなるものだと思います。個人個人の心理的な依存度の問題です。信仰を高める一つの方法に、信仰対象を遠い存在にする、つまり崇高な存在にするというものがあります。絶対化です。
某新興宗教の手法で言うならば、崇高な存在である教祖が教徒の思想を否定する、例えば何気ない所作に対して「もっと物を優しく扱いなさい」とか一言言ったとします。万物に精霊が宿っていて来世で云々みたいな事を言ったとすると、教徒は「教祖は自分よりも優れた考えを持っている」と考えるわけです。これはあくまでその宗教という数直線で測ったものでしかないのですが、依存が深まれば恐らくそう考えるのでしょう(宗教は勉強してないから割と適当な事言ってる)。
教徒からすれば信心が足りないとか、教祖について行けば“より良く”なれるという思いが深まり、教祖や信仰対象との距離がより正確に、そして遠く感じるようになります。
これと同様で、パワースポットに対して「簡単に接触できる存在ではない」と思い込み、「時間やお金を消費してまで行く価値のあるもの」と化す事で信仰心を高める事ができると考えます。家の前の電信柱に塩をまいたら幸せになれます、なんて言っても殆どの人は気休めにすらならないでしょう。
しかし、あくまで表層的な信仰を利用したブームなのであまりにも崇高すぎる、つまり相当量の時間と金が必要であるとなると火種となる信心さえ生み出す事ができなくなります。
重要なポイントは、時間さえあれば誰でも簡単に御利益が得られる、という程度の存在である事だと思います。
また、移動などに要した労力が結果的に見てあたかも信仰心によるものであったかのようにいつの間にかすり替わりが起こる点も見逃せないと思います。自分を疑わない利益観念によるものですが、例えば振り込め詐欺でも同様の事が起こっていると考えられます。
客観的な第三者が見ればどう考えたって振り込め詐欺であるのに、振り込んだ本人はそれを認めようとしないという事例が多いようです。例えば息子が会社の金を紛失したと連絡があったとき、微塵も疑わずにお金を渡したとします。渡した後になって振り込め詐欺ですよ、と言われてもそれを認めてしまえばその瞬間に自分は大金を損失した事になります。しかし、それを認めない限りは仮想的に「騙されていない」状態であり続ける事が出来、息子の窮地を救ったという心地でいることができます。また、認めない事で振り込む当時の自分の判断を正当化する事が出来るので、ある意味で自分の行動を否定しようとする人から守る事が出来るのです。
パワースポットの話に戻りますが、丸一日使ってヘトヘトになってまで行ったのにまさか効果が無いわけがないだろう、という思いがある限りどうしても“ある”方に賭けたくなるものでしょう(半信半疑である場合に限る)。逆に言うと、ある方に賭けられない人間は丸一日かけてパワーを享受しに行く事自体がナンセンスであります。
以上の事から、結論的には「信じる者は救われる」という事になるのですが、それを踏まえての自分の立場としては「信じる事が全くの無意味では無いですよ」という感じになりますね。後半は信念を生み出すメカニズムに関する記述なので、蛇足ではありますが・・・。
自然科学、(エセ)心理学と来たら次は経済学の視点からになります。
経済は完全に専門分野外なので問題提起程度に留めておきますが、もしかしたらその答えはパワースポットが存在し始めた理由の核心に迫るものになるかもしれません。
要は誰の利益になるのか、というのが主題です。宗教的なしきたりを知らなくても、あるいは宗教分野を横断してでも簡単にパワーを得られるようなシステムを編み出したのは何故なのか。
消費者の心理を利用した黒幕がいるとすれば、その扇動による経済効果はどの程度になるのか。
みたいな事をありったけの知識をつぎ込んで考えるわけですね。
多角的に、というのが一つ心がけている事で、従来になかった視点というのを日々模索しています。何らかの新しい見地が見つかれば、その視点から見た尺度で何かより良く改善できるかもしれない、あるいは更に新しい視点の存在を見いだす事が出来るかもしれない、というのがモットーです。
自分は、自分の知らない視点を持った人と議論する事を望むし、あるいはそういった人と議論をする事でお互いが持っていなかった全く新しい考え方を見いだす事を望んでいます。
切磋琢磨と言いますが、率直に言って自分が相手に切り込む事があっても、自分が感心するような反論を受ける事は殆どありません。普通の意見を返してもらったところで思考の燃料にはならないのです。
ただ、奇をてらいすぎて何の意味も成さない意見を出す人がいるのも事実です。3秒で反証が思いつく意見を言ってもらっても仕方が無い。それこそ絶対化してしまうようで逆に会話を続けづらくなるのです。一方的に啓蒙するような立場ではないので、単に嫌な奴にしか成り得ないですから。
こういう話を貶し合える目くそ鼻くそな関係の人がいればなぁ、なんて思います。
2012年8月9日木曜日
2012年8月1日水曜日
だいたいまんげつ
いつも思うんですけど、餃子の満州の「3割うまい」の3割って何なんですかね。
検索すればヒットするかもしれないですが、なんとなく知ってはいけないような気もしつつ、いつも気になります。
中央じゃないじゃんって言わないで。手持ちだから。
この前の投稿と比べて頂ければちょっとわかりやすいかもしれませんけども、なぜ満月の撮影を難しいと思うかと言いますとね、簡単に言えば表面に影ができない分立体感が出ないんですよ。
裸眼で眺めればクレーターの影なんて殆どの人には見えませんから立体感も糞もないんですけど、これぐらいまでズームするとそれが見えちゃうわけですよ。
満月は真ん丸感で言えばMaxな状態な訳ですけど、あくまでも丸なんですよ。僕が撮りたいのは球なんです。
球の写真を撮るときってね必ず影がでるんです。まあ写真に限らずですけども、立体感を得るためには影の存在って結構大きいんですよ。
絵を描いてもそうですが、影の付け方で表情が変わってきますよね。それもこれも光の当たり具合が鍵になるんですよ。
満月の時って太陽と地球と月がだいたいまっすぐに位置するときになるわけなので、影なんてできなくて当然なわけで、いわゆる海と呼ばれる黒いシミがあるだけののっぺりした顔になっちゃうわけですよ。
なんて事を思ったりするんですね。
他にも、満月はいつでも満月だけど、欠けてるときはいつ見たって違う欠け方をしてる、みたいなこじつけもできますよね。
満月を嫌いなんじゃなくてね、欠けてる月が好きなだけなんですよ。
検索すればヒットするかもしれないですが、なんとなく知ってはいけないような気もしつつ、いつも気になります。
| 2048*1536 f/4.4 1/200 ISO-80 949mm |
中央じゃないじゃんって言わないで。手持ちだから。
この前の投稿と比べて頂ければちょっとわかりやすいかもしれませんけども、なぜ満月の撮影を難しいと思うかと言いますとね、簡単に言えば表面に影ができない分立体感が出ないんですよ。
裸眼で眺めればクレーターの影なんて殆どの人には見えませんから立体感も糞もないんですけど、これぐらいまでズームするとそれが見えちゃうわけですよ。
満月は真ん丸感で言えばMaxな状態な訳ですけど、あくまでも丸なんですよ。僕が撮りたいのは球なんです。
球の写真を撮るときってね必ず影がでるんです。まあ写真に限らずですけども、立体感を得るためには影の存在って結構大きいんですよ。
絵を描いてもそうですが、影の付け方で表情が変わってきますよね。それもこれも光の当たり具合が鍵になるんですよ。
満月の時って太陽と地球と月がだいたいまっすぐに位置するときになるわけなので、影なんてできなくて当然なわけで、いわゆる海と呼ばれる黒いシミがあるだけののっぺりした顔になっちゃうわけですよ。
なんて事を思ったりするんですね。
他にも、満月はいつでも満月だけど、欠けてるときはいつ見たって違う欠け方をしてる、みたいなこじつけもできますよね。
満月を嫌いなんじゃなくてね、欠けてる月が好きなだけなんですよ。
2012年7月31日火曜日
今年も夏休みがきました 自己分析と首尾一貫の話
去年は夏休みの工作をやってたんですね。
というか、あれ作ってからもう1年近く経ってるんですね。段ボール本棚。
あの本棚は、段ボールの箱を見て思い立ったその日に作り始めて、接着剤の都合で翌日に完成したんでしたかね。一気に作ったというわけではなかったと思います。
今年は何しようかね、なんて事を今決めたって結局やらないパターンが多いですし、性格的なものでしょうけど、宣言しちゃうと実現しないっていうジンクスがあるので、なかなか単発的な計画は立たないのですが。
とりあえず直近の課題として自己分析なるものを進めていかなくちゃいけないかなと思うんですね。
心理学の分野で自己分析はうまくいかないというのが相場ですが、どうやら就職にあたってはこの自己分析とやらが鍵を握るらしいぞ、というのを知りまして。
自己分析と一言に言っても、目的によって必要となる情報は様々ですよね。
今回は自分の魅力を他人にわかるように分析しなきゃいけないんですね。
実は、自分にわかるように自分を分析するっていうのは結構やってるんですよ。
小学生くらいの時は、文書で自己紹介をするのに自分で長所短所を書くじゃないですか。足が速いとか頭が悪いとかけんかが強いとか。
まあ、文字に起こすわけじゃないですけど程度としてはそれくらいの自己分析ですね。はい。
自分にわかるようにやるのと他人にわかるようにやるのでは雲泥の差なんですよね。いや別にどっちが泥とか雲とかじゃないですけど、目的によって価値が全く変わってくるわけですよ。
知らない人に自分の価値を知ってもらうには、もちろん他人向けの自己分析が必要だし、自分の価値をより高めるのであれば自分向けの自己分析をしないと効率が悪いです。
他人向けっていうのが難しくてですね、聞くところによると、どうやら謙虚な日本人は自己PRを控えめに作っちゃうらしいんですね。やってみるとまあその通りにうまくいくものではないんですが。
長い間ブログを書き続けてわかったことでもあるんですけど、自分の癖として、話し相手の顔色をうかがいながら話を進めるときが一番議論の進行が早くなるみたいなんですよ。
というのも、どうも相手がどこまで理解してるかを基準に次の言葉を選ぶ癖があるようで、疑問に感じているとわかったらその疑義を潰し、興味がありそうな事は蛇足にならない程度に余計な事までしゃべるんですよね。
逆に言うと、相手が話を聞いてないとわかったらその時点で全てが終了してしまうんですね。
そしてこうやってブログを書くときでさえ、万人にとって疑いの余地のないよう、自分の意思を曲解されないようにしようとしちゃうので、文字を書くのになかなか時間がかかるんです。
読んだ人が何を思うかと考えたとき、自分の望まぬ方向に勘違いする可能性があるときはそれを正すために何らかの修正や加筆を試みたり、あるいはそもそも言及しない事で本筋を明確にしたりと、悩まないようにするために結構悩んでるみたいです。
基本的に会話の順序ってのは相手に依るんですよ。
何を知っているのか、どんな言い方をすれば理解しやすいのかは人によって違いますからね。
余計な話もしておきましょうか。
昨今改善してきたのは姿勢の明確化。自分の意思が今どの方向に向いているのかを自分で正確に把握しておくという事。
自分がどうしたいのか、ぼんやりではなく、はっきりと決めるのです。自分が何をどうしたいのかはっきりしないうちに物事を進めていると、ふと振り返ったときに過去の自分と言っている事に矛盾があったりします。
自分では気づかなくても、余所から見ているとコイツ何やってんだろうって思われてる事も往々にしてあり得る話。
それは他者からの信頼にも影響するでしょう。始めは味方だったのにいつの間にか敵になっている、と思われたらそれ以降は味方だと思ってもらえないでしょうから。
姿勢の明確化は詰まるところ、物事に対して首尾一貫した対応を保証することにつなげます。
そうする事で、初っ端に十分な意見交換さえしておけば後は任せる、ということもしやすくなるわけです。結果はどうであれ、過程において方向性を議論する必要性が少なくなりますから。
武士に二言はない、と言いますが、自分の場合は少し違うかもしれません。この姿勢を最後まで保つ事ができるだろうか、結果的に何らかの不利益を生じないだろうかと先に全部考えちゃうんですね。
例えば、できない約束を軽々しくしちゃう人っていますけど、自分は基本的に最初に相手を信頼させる事はしないようにしています。
約束ではなく、なるべくどうするとか、できれば、あるいはできないかもしれないけど、というこの先起こりうる可能性を相手と共有する事で不履行によって信頼感を失う事を防いでいます。
見方を変えればズルいとも言えるし、責任から逃げてると思う人も少なくないでしょう。
しかし一方で、こうして「できないかもしれない」案件の依頼を受けたとき、基本的に全力を尽くします。自分がその依頼を成し遂げるかどうかで相手の利益が決まるときは、自分にとって少々不利益であってもやってあげようと思うようにしています。
良く言えば情けは人のためならず、悪く言えば恩着せがましいとでも言えるでしょうか。
まあ、ギブアンドテイクの助け合い精神が根幹にあると思えば良いんでしょうかね。
ただ、最近は一部の心ない人たちが、その人たちの利益ばっかりで自分が一方的に損してる事があると気づいたんですね。ギブアンドギブですよ。全く。
そういう人だと気づいたらなるべく依頼は受けるときに断るようにしています。まあ、基本的に最初に相手の利益と自分の不利益を天秤にかけて断るんですけど、それがどれくらい失礼な事をしてるつもりなのかわかってるのかわかってないのか・・・。
これも一種の姿勢の明確化だと思います。上では短期的な話をしてきましたが、人間関係では長期的な姿勢を考えるのが大事なんじゃないですかね。
利害の一致しない人と一緒にいても仕方ないというか、そもそも自分にとって迷惑であるということを意識して対応する事で、そのうち相手も気づいてくれるんじゃないかと思いますのでね。
ただ1つ言っておかなくちゃいけないのは、相手が致命的な損害を受けるようであれば自分が一方的な損をしようとも問題の解決に尽力するということ。
自分が3の損をすることで相手が100の損を免れるならば形振りは構わないという事です。
まあそれでもやはり、これまで自分に100の損をさせてきた人に手をさしのべる事はありませんが。
みたいな事をこれからいくつか書いていこうかな、なんて思います。夏休みだしね。
というか、あれ作ってからもう1年近く経ってるんですね。段ボール本棚。
あの本棚は、段ボールの箱を見て思い立ったその日に作り始めて、接着剤の都合で翌日に完成したんでしたかね。一気に作ったというわけではなかったと思います。
今年は何しようかね、なんて事を今決めたって結局やらないパターンが多いですし、性格的なものでしょうけど、宣言しちゃうと実現しないっていうジンクスがあるので、なかなか単発的な計画は立たないのですが。
とりあえず直近の課題として自己分析なるものを進めていかなくちゃいけないかなと思うんですね。
心理学の分野で自己分析はうまくいかないというのが相場ですが、どうやら就職にあたってはこの自己分析とやらが鍵を握るらしいぞ、というのを知りまして。
自己分析と一言に言っても、目的によって必要となる情報は様々ですよね。
今回は自分の魅力を他人にわかるように分析しなきゃいけないんですね。
実は、自分にわかるように自分を分析するっていうのは結構やってるんですよ。
小学生くらいの時は、文書で自己紹介をするのに自分で長所短所を書くじゃないですか。足が速いとか頭が悪いとかけんかが強いとか。
まあ、文字に起こすわけじゃないですけど程度としてはそれくらいの自己分析ですね。はい。
自分にわかるようにやるのと他人にわかるようにやるのでは雲泥の差なんですよね。いや別にどっちが泥とか雲とかじゃないですけど、目的によって価値が全く変わってくるわけですよ。
知らない人に自分の価値を知ってもらうには、もちろん他人向けの自己分析が必要だし、自分の価値をより高めるのであれば自分向けの自己分析をしないと効率が悪いです。
他人向けっていうのが難しくてですね、聞くところによると、どうやら謙虚な日本人は自己PRを控えめに作っちゃうらしいんですね。やってみるとまあその通りにうまくいくものではないんですが。
長い間ブログを書き続けてわかったことでもあるんですけど、自分の癖として、話し相手の顔色をうかがいながら話を進めるときが一番議論の進行が早くなるみたいなんですよ。
というのも、どうも相手がどこまで理解してるかを基準に次の言葉を選ぶ癖があるようで、疑問に感じているとわかったらその疑義を潰し、興味がありそうな事は蛇足にならない程度に余計な事までしゃべるんですよね。
逆に言うと、相手が話を聞いてないとわかったらその時点で全てが終了してしまうんですね。
そしてこうやってブログを書くときでさえ、万人にとって疑いの余地のないよう、自分の意思を曲解されないようにしようとしちゃうので、文字を書くのになかなか時間がかかるんです。
読んだ人が何を思うかと考えたとき、自分の望まぬ方向に勘違いする可能性があるときはそれを正すために何らかの修正や加筆を試みたり、あるいはそもそも言及しない事で本筋を明確にしたりと、悩まないようにするために結構悩んでるみたいです。
基本的に会話の順序ってのは相手に依るんですよ。
何を知っているのか、どんな言い方をすれば理解しやすいのかは人によって違いますからね。
余計な話もしておきましょうか。
昨今改善してきたのは姿勢の明確化。自分の意思が今どの方向に向いているのかを自分で正確に把握しておくという事。
自分がどうしたいのか、ぼんやりではなく、はっきりと決めるのです。自分が何をどうしたいのかはっきりしないうちに物事を進めていると、ふと振り返ったときに過去の自分と言っている事に矛盾があったりします。
自分では気づかなくても、余所から見ているとコイツ何やってんだろうって思われてる事も往々にしてあり得る話。
それは他者からの信頼にも影響するでしょう。始めは味方だったのにいつの間にか敵になっている、と思われたらそれ以降は味方だと思ってもらえないでしょうから。
姿勢の明確化は詰まるところ、物事に対して首尾一貫した対応を保証することにつなげます。
そうする事で、初っ端に十分な意見交換さえしておけば後は任せる、ということもしやすくなるわけです。結果はどうであれ、過程において方向性を議論する必要性が少なくなりますから。
武士に二言はない、と言いますが、自分の場合は少し違うかもしれません。この姿勢を最後まで保つ事ができるだろうか、結果的に何らかの不利益を生じないだろうかと先に全部考えちゃうんですね。
例えば、できない約束を軽々しくしちゃう人っていますけど、自分は基本的に最初に相手を信頼させる事はしないようにしています。
約束ではなく、なるべくどうするとか、できれば、あるいはできないかもしれないけど、というこの先起こりうる可能性を相手と共有する事で不履行によって信頼感を失う事を防いでいます。
見方を変えればズルいとも言えるし、責任から逃げてると思う人も少なくないでしょう。
しかし一方で、こうして「できないかもしれない」案件の依頼を受けたとき、基本的に全力を尽くします。自分がその依頼を成し遂げるかどうかで相手の利益が決まるときは、自分にとって少々不利益であってもやってあげようと思うようにしています。
良く言えば情けは人のためならず、悪く言えば恩着せがましいとでも言えるでしょうか。
まあ、ギブアンドテイクの助け合い精神が根幹にあると思えば良いんでしょうかね。
ただ、最近は一部の心ない人たちが、その人たちの利益ばっかりで自分が一方的に損してる事があると気づいたんですね。ギブアンドギブですよ。全く。
そういう人だと気づいたらなるべく依頼は受けるときに断るようにしています。まあ、基本的に最初に相手の利益と自分の不利益を天秤にかけて断るんですけど、それがどれくらい失礼な事をしてるつもりなのかわかってるのかわかってないのか・・・。
これも一種の姿勢の明確化だと思います。上では短期的な話をしてきましたが、人間関係では長期的な姿勢を考えるのが大事なんじゃないですかね。
利害の一致しない人と一緒にいても仕方ないというか、そもそも自分にとって迷惑であるということを意識して対応する事で、そのうち相手も気づいてくれるんじゃないかと思いますのでね。
ただ1つ言っておかなくちゃいけないのは、相手が致命的な損害を受けるようであれば自分が一方的な損をしようとも問題の解決に尽力するということ。
自分が3の損をすることで相手が100の損を免れるならば形振りは構わないという事です。
まあそれでもやはり、これまで自分に100の損をさせてきた人に手をさしのべる事はありませんが。
みたいな事をこれからいくつか書いていこうかな、なんて思います。夏休みだしね。
2012年7月30日月曜日
cicada
2012年7月27日金曜日
お久しぶりに月を撮った
2012年6月9日土曜日
このブログの存在意義について
以前からメモだとか、自分用だとか言ってますけど、改めてここでまとめようかと思います。
前に書いたことのある内容もあるので、さわりだけにしますね。
ブログを始めたのは中3の1月でした。
当時はHTMLの復習がてら文章を書く習慣を作ろうというのがねらいでした。
自らが情報発信の場になればいいなとも思ってましたが、結局そこまではいきませんでしたね。
高校に入り、しばらくして無料のブログサービスを使い始めます。
最高で月に20件書いたことがあるくらい熱心に更新してました。
内容がいかに薄くとも、とにかく何か今日思ったことを書こうとしていました。
小学生の時、学期末に書く科目の感想みたいな奴がなかなか書けなかったんですよ。
ただ、3年か4年かぐらいの時だけやたら長文を書けるようになりましてね。
あのときなぜ書けたのか思い起こそうとしていたというのもありました。
それが高校時代の話です。
その頃は自分のパソコンじゃなかったですけれども、
1時間ぐらいは何かやりながら書いたりしてました。
大学受験の時期になって更新は減りまして、生存報告的な意味合いが強くなります。
大学に入ってから更新を再開し、サービスの改悪を機に移転。
相変わらず近況報告がメインだったが、程なくしてツイッターが登場。
しばらく静観していたが、アカウントを登録してからはツイッターにあらゆるネタを吸われ、
ブログでの近況報告の必要性が極めて薄くなり、ツキイチ更新にまで頻度が減退。
近況でもなく、ツイッターに書けないことはなんぞや、
というと昨今書き連ねているような、なんちゃって学問だったんですね。
以前からたまには書いてたんですが、泥水を漉すようになんちゃって学問が残りました。
”なう”の必要性はなく、むしろ時間と共に流されるべき内容では無い上に、
字数制限や改行の規制された枠で収めることのできないものですから。
一度習慣づいたブログの更新が途絶えるというのは
個人的にちょっと許せないものですから、
書くネタが無くともツキイチ程度には継続して書いていこうという姿勢が
今まで続いてきたというところです。
無理して書いていると言えば確かにそうなのですが、
実際無理してでも書かなければならない時ってありますから、
スキルを鍛えるという観点からはまあ、良いんじゃないですかね。
内容はあくまでその時そのタイミングで思いついたことを書くわけですが、
ただ思い悩んでいるときと、それを一旦文字にまとめた後では
その案件に対する考え方が変わったりするんです。
人は相談することで、あるいは一方的に話すだけでも心理的に楽になると言われますが、
このブログは自分にとってのそれにかなり近いところにあるのだろうと思います。
一方で全く別の言い方をすれば、暗算するより紙で計算した方が論点を整理できる
というのもまた確かなことだと思います。
また、ブログの存在にかかわらず四六時中何かに気づこうと考えを巡らせている自分ですが、
記事を書くために概念を言語化しようとしているとき、全く別の理論がひらめくこともあります。
この間の記事ですが、女性のスカートをどうやって突破するかという話。
あれを考えてる最中にとても重要な考えを思いついたんです。
限られた文字数の中で意思を疎通させる、という件について深く探っていたときでした。
ある程度の前提の共有が必要だとか、数理的読解能力の依存度だとかを検証してたんですが、
考えていくうちに、この件は文章の長さに関わらない可能性が見えてきたんですね。
いくら文章を長くしたって意思の疎通にはある程度の限界があり、
その限界の決定には相性問題が発生するだろうという事なんですね。
いわゆる話が合うとか合わないとか、そういうところと密接に関連しますけれども、
つまり相容れない世界の住人同士では会話が成立しないという基本的な問題です。
異世界人との会話や、古代人の使っていた言語を読み解くのに最も重要な能力の一つが
暗号を解読する力だろうと思うわけですけれども、
世界観を共有していない人たちの会話ではこれに近い能力が必要となると思います。
どこかで解説しておいた方が良いかもしれませんけど、
会話を成立させるには、言葉を選ぶ という何気なくとも
意思疎通における最重要事項に対しての意識がある程度近い必要があると考えます。
突然ですけど、自分は言霊を信じるクチなんですね。
その立場から言うならば、同じ言葉に対して話して聞き手にとって違う言霊が宿っているとき、
もちろん両者の間で意思は通りませんよね。
ただ、これは一つの立場からの考え方です。
聞き手がどうかという運任せの視点でした。
もう一つ、話し手がどうする、という立場からの考え方があります。
聞き手が理解できるような言葉を、話し手が意思を持って選択するということですね。
その中でも特に、大きく分けて二つの場合を考えます。
聞き手の考えをある程度以上理解しているとき、
一方聞き手の解釈が全く見積もれないときの二つです。
そもそも聞き手が話し手の世界観を理解しきれていない場合の多くは
両者の馴染みが深くない場合に多く起こると考えられます。
同様に、話し手が聞き手に譲歩できないときも、その多くは相互理解が浅い事が多いでしょう。
ただし、聞き手のことをある程度理解していても、聞き手に伝わるように話すことができない、
という場合も往々にしてあり、日常生活において珍しいことではないでしょう。
IQが20違えば会話がかみ合わないとか言われますけど、
他にもたとえば、相手の出自を事前に知っていたとしても、
いざ1対1で面と向かって自分の印象を悪くしないように、
そして自分の今後の人生に関わる可能性がある相手と当たり障りのない話をするとなると、
まあお見合いのシチュエーションですけども、なかなか気が合う相手でないと
話が進まなかったりするんだと思います。
聞き手と完全な初対面な状態で会話を始めるとき、お互い探り合いから始まります。
当たり障りのない会話から相手の興味を察して、
程度の違いはあれ盛り上がる方向へと乗せていきます。
この行為自体が相手への理解を深めることであり、世界観を知ることになります。
事務連絡だけなら戦略的な場合を除いてその必要は無いですが、
雑談では、楽しく過ごそうと思うならば共有する世界観の確認が避けられないでしょう。
その中で話し手は相手の解読できる暗号を組み立てて自分の意図になるべく近い形で
相手に伝えるという作業が不可欠になります。
あまり考える必要も無いことですが、打ち解けるというのは相手とのやりとりの仕方に気づく
ということで、その会話の進め方が他の人との間でも上手くいくというわけではありません。
まあ、お互いコツを掴むまでギクシャクするわけですが。
と、いうわけで自分自身の考えを一旦整理して違う視点から理論を見つめ直したり、
記事として纏める作業自体で別のことを予期せず思いついたりするんですよ。
そういう意味でも考えを発展させる上で重要な役割を担っていたようにも思います。
ただ、大学に入ってからのブログって実は記事の質が結構変わってるんですよ。
前述したツイッターの影響もあるんですが、一番の原因は一人暮らしを始めたことと、
広義での友達がいなくなったことですね。
自分の考えに対して誰か他人の意見を聞いたり、あるいは他人の考えを取り入れたり
検討したりという事が無くなりましたから、ある意味では自分の考えに集中できるということ
ではあるんですが、外乱から切り離されると検討課題の絶対数が減りますから
なんとも煮詰まるとでもいいますか、考察材料が枯渇気味な状態になりました。
それでもなんとかネタを引っ張ってきて煮ていくわけですが、
ぶっちゃけ他人との間で見つけたネタの方がたぶん読んでる方もまだ面白いと思うんですね。
そこでまたいろいろ考えるんですけれども、なにも公開する必要ないんじゃないかと
そういうところにたどり着くわけですね。
個人がネット上に発言の場を持ちはじめる時期、ブログなどの定式化したサービスが始まる前の
ものだったと思いますが、ある漫画の一節を最近見かけたんです。
世界へ向けて誰でもが好きなことを喋れる時代になれば、みんなが自分の喋りたいことを
話し始めて誰も聞く人がいなくなってしまう、という内容でした。
確かにその通りで、ネット上には自分にとって有利なものは殆ど無く、
重複した情報が溢れ、無駄で無益な交流の場に成りはてた部分もあると思います。
実際自分自身でもここ最近はなるべく情報から遠い位置で生活しようと心がけていまして、
できるだけパソコンの電源を落とすように、あるいはツイッターのクライアントを起動させない
時間を多く持つようにしています。
一番の理由は心労からの解放なんですが、
やってみてわかるのは事実ほとんど不自由しないって事なんですね。
まあウェブ上に特定の知人を積極的に作らないよう努めたからできることでもあるんですが、
ウェブ上のトレンドって自分が生活していく上で知らなくても何の被害もなく、知っててもほとんど
利益も無いですから、思い切って自分からラインを切るのもなかなか良いと思います。
「ウェブ」というのは元々「蜘蛛の巣」のように八方に広がる様子からworld wide web、
WWWという言葉が生まれていますが、どうも今の世の中ではその蜘蛛の巣に捕らえられて
抜け出せていない状況が蔓延しているように思います。
多くの人がそれに気づいていないというか、そもそも居心地が良いと感じてる人は
いくら身動きがとれなくても問題ないんでしょうけど。
さて、ブログで記事を書くというのは立場的に情報を発信する側なわけですけれども、
ご多分に洩れず当ブログもあまり価値のあるものではないんですね。
喜んで読んでる人がどれくらいいるのか測りようがないのでどうしようもないんですが、
実はまた別の観点から電子メディアから脱却しようかと考えているんですね。
スマートフォンやタブレット端末の普及が著しいですが、いかにタッチパネルで直感的な
入力・記録ができるようになったとはいえ、
限られた情報量の整理において紙に勝ることはないと思います。
画面がどんなに広くなっても画面より外に情報を並べることはできないですし、
色を変えるにしてもペンを持ち替えるほど直感的な動作はできません。
インデントの調整や余白の入れ方、枠のスタイルなどなど、伊達に10年以上
勉学に従事してきたわけではありませんから、強調と分離のバリエーションには
割と自信があります(少なくとも自分にわかりやすいようには)。
まあ種類だけなら腐るほどあるので基本的に色を分けることをしないようにしてるんですが、
そもそもインデントの自由度を考えただけで情報の整頓の効率が大幅に上がります。
加えて書体の強弱、行間の調整でだいたいの事は良い状態で記録を残せると考えますが、
ほぼ紙スペシャルの技術なので電子媒体にはあまり効果がありません。
というか、跡を残さず追記修正をできるというのが電子媒体の最大のメリットだと思うのですが、
それをやっちゃうとスタイルが崩れて思うような状態で保てないのでちょっとイライラするんですね。
まあ、何が言いたいかというと情報の内容によって場所を選ぼうというところなんです。
この文脈からするとつまり閉鎖になってしまいはするんですが、
このブログはいわゆるふつーの日記的な記事で主に存続させようと思います。
ただ、それこそ存在意義が不明瞭になるのでかなり存亡の危機ではあるんですが。
良い印象を持たれようとは思ってないですが、たまに度が過ぎた意見を書いてたりするので
エセ哲学もそろそろ潮時かなとも思っています。
それに誰も反応しないと言えど、あくまでパブリックな場なので言葉を選ぶ必要があります。
わかるように書くのと語弊を避けるために時間のロスが酷いんですけどね・・・。
今の時代でネットの影響を完全に絶つなんてことは既にできない社会になってしまいましたが、
なるたけ脱俗するようにこの先しばらくは生きようかな、なんて思うわけです・・・。
前に書いたことのある内容もあるので、さわりだけにしますね。
ブログを始めたのは中3の1月でした。
当時はHTMLの復習がてら文章を書く習慣を作ろうというのがねらいでした。
自らが情報発信の場になればいいなとも思ってましたが、結局そこまではいきませんでしたね。
高校に入り、しばらくして無料のブログサービスを使い始めます。
最高で月に20件書いたことがあるくらい熱心に更新してました。
内容がいかに薄くとも、とにかく何か今日思ったことを書こうとしていました。
小学生の時、学期末に書く科目の感想みたいな奴がなかなか書けなかったんですよ。
ただ、3年か4年かぐらいの時だけやたら長文を書けるようになりましてね。
あのときなぜ書けたのか思い起こそうとしていたというのもありました。
それが高校時代の話です。
その頃は自分のパソコンじゃなかったですけれども、
1時間ぐらいは何かやりながら書いたりしてました。
大学受験の時期になって更新は減りまして、生存報告的な意味合いが強くなります。
大学に入ってから更新を再開し、サービスの改悪を機に移転。
相変わらず近況報告がメインだったが、程なくしてツイッターが登場。
しばらく静観していたが、アカウントを登録してからはツイッターにあらゆるネタを吸われ、
ブログでの近況報告の必要性が極めて薄くなり、ツキイチ更新にまで頻度が減退。
近況でもなく、ツイッターに書けないことはなんぞや、
というと昨今書き連ねているような、なんちゃって学問だったんですね。
以前からたまには書いてたんですが、泥水を漉すようになんちゃって学問が残りました。
”なう”の必要性はなく、むしろ時間と共に流されるべき内容では無い上に、
字数制限や改行の規制された枠で収めることのできないものですから。
一度習慣づいたブログの更新が途絶えるというのは
個人的にちょっと許せないものですから、
書くネタが無くともツキイチ程度には継続して書いていこうという姿勢が
今まで続いてきたというところです。
無理して書いていると言えば確かにそうなのですが、
実際無理してでも書かなければならない時ってありますから、
スキルを鍛えるという観点からはまあ、良いんじゃないですかね。
内容はあくまでその時そのタイミングで思いついたことを書くわけですが、
ただ思い悩んでいるときと、それを一旦文字にまとめた後では
その案件に対する考え方が変わったりするんです。
人は相談することで、あるいは一方的に話すだけでも心理的に楽になると言われますが、
このブログは自分にとってのそれにかなり近いところにあるのだろうと思います。
一方で全く別の言い方をすれば、暗算するより紙で計算した方が論点を整理できる
というのもまた確かなことだと思います。
また、ブログの存在にかかわらず四六時中何かに気づこうと考えを巡らせている自分ですが、
記事を書くために概念を言語化しようとしているとき、全く別の理論がひらめくこともあります。
この間の記事ですが、女性のスカートをどうやって突破するかという話。
あれを考えてる最中にとても重要な考えを思いついたんです。
限られた文字数の中で意思を疎通させる、という件について深く探っていたときでした。
ある程度の前提の共有が必要だとか、数理的読解能力の依存度だとかを検証してたんですが、
考えていくうちに、この件は文章の長さに関わらない可能性が見えてきたんですね。
いくら文章を長くしたって意思の疎通にはある程度の限界があり、
その限界の決定には相性問題が発生するだろうという事なんですね。
いわゆる話が合うとか合わないとか、そういうところと密接に関連しますけれども、
つまり相容れない世界の住人同士では会話が成立しないという基本的な問題です。
異世界人との会話や、古代人の使っていた言語を読み解くのに最も重要な能力の一つが
暗号を解読する力だろうと思うわけですけれども、
世界観を共有していない人たちの会話ではこれに近い能力が必要となると思います。
どこかで解説しておいた方が良いかもしれませんけど、
会話を成立させるには、言葉を選ぶ という何気なくとも
意思疎通における最重要事項に対しての意識がある程度近い必要があると考えます。
突然ですけど、自分は言霊を信じるクチなんですね。
その立場から言うならば、同じ言葉に対して話して聞き手にとって違う言霊が宿っているとき、
もちろん両者の間で意思は通りませんよね。
ただ、これは一つの立場からの考え方です。
聞き手がどうかという運任せの視点でした。
もう一つ、話し手がどうする、という立場からの考え方があります。
聞き手が理解できるような言葉を、話し手が意思を持って選択するということですね。
その中でも特に、大きく分けて二つの場合を考えます。
聞き手の考えをある程度以上理解しているとき、
一方聞き手の解釈が全く見積もれないときの二つです。
そもそも聞き手が話し手の世界観を理解しきれていない場合の多くは
両者の馴染みが深くない場合に多く起こると考えられます。
同様に、話し手が聞き手に譲歩できないときも、その多くは相互理解が浅い事が多いでしょう。
ただし、聞き手のことをある程度理解していても、聞き手に伝わるように話すことができない、
という場合も往々にしてあり、日常生活において珍しいことではないでしょう。
IQが20違えば会話がかみ合わないとか言われますけど、
他にもたとえば、相手の出自を事前に知っていたとしても、
いざ1対1で面と向かって自分の印象を悪くしないように、
そして自分の今後の人生に関わる可能性がある相手と当たり障りのない話をするとなると、
まあお見合いのシチュエーションですけども、なかなか気が合う相手でないと
話が進まなかったりするんだと思います。
聞き手と完全な初対面な状態で会話を始めるとき、お互い探り合いから始まります。
当たり障りのない会話から相手の興味を察して、
程度の違いはあれ盛り上がる方向へと乗せていきます。
この行為自体が相手への理解を深めることであり、世界観を知ることになります。
事務連絡だけなら戦略的な場合を除いてその必要は無いですが、
雑談では、楽しく過ごそうと思うならば共有する世界観の確認が避けられないでしょう。
その中で話し手は相手の解読できる暗号を組み立てて自分の意図になるべく近い形で
相手に伝えるという作業が不可欠になります。
あまり考える必要も無いことですが、打ち解けるというのは相手とのやりとりの仕方に気づく
ということで、その会話の進め方が他の人との間でも上手くいくというわけではありません。
まあ、お互いコツを掴むまでギクシャクするわけですが。
と、いうわけで自分自身の考えを一旦整理して違う視点から理論を見つめ直したり、
記事として纏める作業自体で別のことを予期せず思いついたりするんですよ。
そういう意味でも考えを発展させる上で重要な役割を担っていたようにも思います。
ただ、大学に入ってからのブログって実は記事の質が結構変わってるんですよ。
前述したツイッターの影響もあるんですが、一番の原因は一人暮らしを始めたことと、
広義での友達がいなくなったことですね。
自分の考えに対して誰か他人の意見を聞いたり、あるいは他人の考えを取り入れたり
検討したりという事が無くなりましたから、ある意味では自分の考えに集中できるということ
ではあるんですが、外乱から切り離されると検討課題の絶対数が減りますから
なんとも煮詰まるとでもいいますか、考察材料が枯渇気味な状態になりました。
それでもなんとかネタを引っ張ってきて煮ていくわけですが、
ぶっちゃけ他人との間で見つけたネタの方がたぶん読んでる方もまだ面白いと思うんですね。
そこでまたいろいろ考えるんですけれども、なにも公開する必要ないんじゃないかと
そういうところにたどり着くわけですね。
個人がネット上に発言の場を持ちはじめる時期、ブログなどの定式化したサービスが始まる前の
ものだったと思いますが、ある漫画の一節を最近見かけたんです。
世界へ向けて誰でもが好きなことを喋れる時代になれば、みんなが自分の喋りたいことを
話し始めて誰も聞く人がいなくなってしまう、という内容でした。
確かにその通りで、ネット上には自分にとって有利なものは殆ど無く、
重複した情報が溢れ、無駄で無益な交流の場に成りはてた部分もあると思います。
実際自分自身でもここ最近はなるべく情報から遠い位置で生活しようと心がけていまして、
できるだけパソコンの電源を落とすように、あるいはツイッターのクライアントを起動させない
時間を多く持つようにしています。
一番の理由は心労からの解放なんですが、
やってみてわかるのは事実ほとんど不自由しないって事なんですね。
まあウェブ上に特定の知人を積極的に作らないよう努めたからできることでもあるんですが、
ウェブ上のトレンドって自分が生活していく上で知らなくても何の被害もなく、知っててもほとんど
利益も無いですから、思い切って自分からラインを切るのもなかなか良いと思います。
「ウェブ」というのは元々「蜘蛛の巣」のように八方に広がる様子からworld wide web、
WWWという言葉が生まれていますが、どうも今の世の中ではその蜘蛛の巣に捕らえられて
抜け出せていない状況が蔓延しているように思います。
多くの人がそれに気づいていないというか、そもそも居心地が良いと感じてる人は
いくら身動きがとれなくても問題ないんでしょうけど。
さて、ブログで記事を書くというのは立場的に情報を発信する側なわけですけれども、
ご多分に洩れず当ブログもあまり価値のあるものではないんですね。
喜んで読んでる人がどれくらいいるのか測りようがないのでどうしようもないんですが、
実はまた別の観点から電子メディアから脱却しようかと考えているんですね。
スマートフォンやタブレット端末の普及が著しいですが、いかにタッチパネルで直感的な
入力・記録ができるようになったとはいえ、
限られた情報量の整理において紙に勝ることはないと思います。
画面がどんなに広くなっても画面より外に情報を並べることはできないですし、
色を変えるにしてもペンを持ち替えるほど直感的な動作はできません。
インデントの調整や余白の入れ方、枠のスタイルなどなど、伊達に10年以上
勉学に従事してきたわけではありませんから、強調と分離のバリエーションには
割と自信があります(少なくとも自分にわかりやすいようには)。
まあ種類だけなら腐るほどあるので基本的に色を分けることをしないようにしてるんですが、
そもそもインデントの自由度を考えただけで情報の整頓の効率が大幅に上がります。
加えて書体の強弱、行間の調整でだいたいの事は良い状態で記録を残せると考えますが、
ほぼ紙スペシャルの技術なので電子媒体にはあまり効果がありません。
というか、跡を残さず追記修正をできるというのが電子媒体の最大のメリットだと思うのですが、
それをやっちゃうとスタイルが崩れて思うような状態で保てないのでちょっとイライラするんですね。
まあ、何が言いたいかというと情報の内容によって場所を選ぼうというところなんです。
この文脈からするとつまり閉鎖になってしまいはするんですが、
このブログはいわゆるふつーの日記的な記事で主に存続させようと思います。
ただ、それこそ存在意義が不明瞭になるのでかなり存亡の危機ではあるんですが。
良い印象を持たれようとは思ってないですが、たまに度が過ぎた意見を書いてたりするので
エセ哲学もそろそろ潮時かなとも思っています。
それに誰も反応しないと言えど、あくまでパブリックな場なので言葉を選ぶ必要があります。
わかるように書くのと語弊を避けるために時間のロスが酷いんですけどね・・・。
今の時代でネットの影響を完全に絶つなんてことは既にできない社会になってしまいましたが、
なるたけ脱俗するようにこの先しばらくは生きようかな、なんて思うわけです・・・。
2012年5月21日月曜日
日蝕
普段あまり使わない字ですけど、
食べるよりも蝕むと書いた方が確かに言い得て妙、という感じがします。
メディアが煽りに煽ったおかげで、普段空なんて見ないみいちゃんはあちゃん達も、
今朝はグラス片手に、もとい日蝕グラス片手に太陽の観測をしてたみたいです。
日蝕の度に思うのはですね。なんかみんな太陽ばっかりに気が向いてて、
意外と、というか太陽と並列して重要であるべき月が
全く脚光を浴びていないのというのは腑に落ちないんですね。
まあ実際見えるのは太陽の光だけなんですけどね。
さて、戯れ言もほどほどに写真を貼っていきますよ。
キャプションは【時刻、シャッタースピード、35mm換算焦点距離】です。
絞りはほとんど8で固定だったはずです。ISO感度は80で固定。
当然ですけど全部マニュアル撮影です。
ズーム優先で撮影画質は予め3Mぐらいに落としてあります。
色に関してはフィルタ4枚重ねでND256相当を稼いでるので勘弁してください。
まあまあ、撮影に関しては概ね満足なわけですけれども、
高倍率時の手ぶれなのかピンぼけなのか雲なのかよくわからないにじみ方をしてるのが何枚か。
三脚を使わずに全部手持ちで撮影したので、あんまり本気出してるとは言えませんが。
あんまりメディアの特集は見てなかったんですが、
デジカメに日蝕グラスを被せて撮る人結構いたんですかね?
そんなこと思いつきもしなかったので、さっさとNDフィルターのまとめ買いしちゃいましたけど。
興を冷ますようで悪いですけど、実際金環日蝕って見てもあんまり感動しないんですよね。
ただ珍しいものを見たってだけで、特に金環だと完全には暗くなりませんから、
あまり感動の絶頂が無いというか、どこで盛り上がれば良いのかタイミングもとりづらいですし。
対照的な月蝕もいいんですけど、実際空を見てて個人的に興奮するのは
空が夕日に染まる頃、月と宵の明星が見えたときなんですね。
金星と太陽で三角の位置関係を想像しただけでスケールがでかいんですけど、
その時に月が出ていれば、その満ち欠けから地球と太陽との位置関係が想像できますよね。
4つの星が気の遠くなるような距離を保ちながら普遍的に動いてると思うと興奮するんですよ。
他の天体でも構わないんですけど、独特の位置に姿を見せる金星が想像しやすくて良いですね。
さて、次はその金星が太陽を横切るらしいですけど、
今の撮影環境でこれを記録するのはたぶん相当厳しいですね。
満足のいく撮影をするには黒点が記録できるクラスの準備が望まれるところです。
金環日食より珍しい!って既に記事が出てますが、
これこそ正に見てどうするんだってイベントなんですよね・・・。
普段から天文学とは遠いところに住んでる人間としてはあまり熱心にはなれないものです・・・。
食べるよりも蝕むと書いた方が確かに言い得て妙、という感じがします。
メディアが煽りに煽ったおかげで、普段空なんて見ないみいちゃんはあちゃん達も、
今朝はグラス片手に、もとい日蝕グラス片手に太陽の観測をしてたみたいです。
日蝕の度に思うのはですね。なんかみんな太陽ばっかりに気が向いてて、
意外と、というか太陽と並列して重要であるべき月が
全く脚光を浴びていないのというのは腑に落ちないんですね。
まあ実際見えるのは太陽の光だけなんですけどね。
さて、戯れ言もほどほどに写真を貼っていきますよ。
キャプションは【時刻、シャッタースピード、35mm換算焦点距離】です。
絞りはほとんど8で固定だったはずです。ISO感度は80で固定。
| 一枚目の撮影 7:05 1/1300 787 |
| 倍率を変えながら・・・ 7:06 1/1300 201 |
| 雲が薄かったのでなんとか 7:10 1/1300 286 |
| フィルタ4枚重ねは厳しい・・・ 7:16 1/1300 764 |
| 雲が切れた 7:16 1/1300 113 |
| 辺りはまだ明るい 7:20 1/1300 29 |
| 進んできたのがわかる 7:24 1/1300 286 |
| もうすぐ月が収まる 7:27 1/1300 764 |
| 細くなってきた 7:30 1/320 414 |
| もうちょっと 7:32 1/1300 949 |
| 乗った 7:32 1/1300 949 |
| 雲で光が膨張したか? 7:33 1/1300 949 |
| 露出長めでも撮れば良かったと後悔 7:33 1/1300 38 |
| ほぼ真ん中 相変わらず反射がひどい・・・ 7:33 1/1300 949 |
| まるっ 7:33 1/1300 457 |
| 雲が輝く 7:36 1/1300 949 |
| 月が出ていきそう 7:36 1/1300 949 |
| 雲が流れてきた・・・ 7:36 1/250 949 |
| アッカリーン 7:37 1/40 392 |
| 切れた 7:37 1/125 949 |
| さようなら 7:37 1/160 486 |
| 観測終了 7:37 1/500 486 |
当然ですけど全部マニュアル撮影です。
ズーム優先で撮影画質は予め3Mぐらいに落としてあります。
色に関してはフィルタ4枚重ねでND256相当を稼いでるので勘弁してください。
まあまあ、撮影に関しては概ね満足なわけですけれども、
高倍率時の手ぶれなのかピンぼけなのか雲なのかよくわからないにじみ方をしてるのが何枚か。
三脚を使わずに全部手持ちで撮影したので、あんまり本気出してるとは言えませんが。
あんまりメディアの特集は見てなかったんですが、
デジカメに日蝕グラスを被せて撮る人結構いたんですかね?
そんなこと思いつきもしなかったので、さっさとNDフィルターのまとめ買いしちゃいましたけど。
興を冷ますようで悪いですけど、実際金環日蝕って見てもあんまり感動しないんですよね。
ただ珍しいものを見たってだけで、特に金環だと完全には暗くなりませんから、
あまり感動の絶頂が無いというか、どこで盛り上がれば良いのかタイミングもとりづらいですし。
対照的な月蝕もいいんですけど、実際空を見てて個人的に興奮するのは
空が夕日に染まる頃、月と宵の明星が見えたときなんですね。
金星と太陽で三角の位置関係を想像しただけでスケールがでかいんですけど、
その時に月が出ていれば、その満ち欠けから地球と太陽との位置関係が想像できますよね。
4つの星が気の遠くなるような距離を保ちながら普遍的に動いてると思うと興奮するんですよ。
他の天体でも構わないんですけど、独特の位置に姿を見せる金星が想像しやすくて良いですね。
さて、次はその金星が太陽を横切るらしいですけど、
今の撮影環境でこれを記録するのはたぶん相当厳しいですね。
満足のいく撮影をするには黒点が記録できるクラスの準備が望まれるところです。
金環日食より珍しい!って既に記事が出てますが、
これこそ正に見てどうするんだってイベントなんですよね・・・。
普段から天文学とは遠いところに住んでる人間としてはあまり熱心にはなれないものです・・・。
2012年5月16日水曜日
手段を模索する話 ~あなたの目の前に女性がいます~ 【だいたい完全版】
タイトルはですね、後で自分が投稿を振り返るときに
何の記事だかわからないことが度々あったのでね、最近なるべく内容を示すようにやってます。
さて、久しぶりに頻繁な更新ですけども、きっとストレスが溜まってるんでしょうね。
ついでにブログのレイアウトを若干変更してます。
主に記事幅の修正なんですけど、他も少しずついじったりいじらなかったり。
あんまり読者視点で記事を読み返さないものなので、使いにくかったら御免なさいね。と。
本題に参りましょう。
ここでは場合分けの話をします。
勢いで書く題材だったのに、変な前置きをしたせいですごく後悔してるんですが、
割とまじめに考えるの記事のつもりなのでそのままいきますね。
目の前の女性のスカートの中を見る必要がある。
そのとき何をするか。
見たいとか見たくないとか、倫理がどうとかそういう議論もできますが、
あくまで今回は手段についてを重視します。
早い話、変わった会社の就職試験みたいな形式だと考えればいいですね。
ただ、今回は考える時間が十分ありますし、選抜試験でもないのでゆっくり考えてください。
これから自分の考えた手段について書いていきますが、もちろん模範解答はないですし、
この件に関して優秀な解答というのは無いものとしましょう。
途中でしたけど、一通り書き上げました。
2週間ぐらいかけて書いたので一貫しないかもしれませんが。
強制はしませんけど、自分なりに考えを持ってから開いた方が良いかもしれません。
2012年5月5日土曜日
2012年5月2日水曜日
まじめそうな顔してるのにねー
って高校の時、物理の先生に言われたのが強く印象に残っています。
宿題をいつまでも出さなかったある日の事でした。
こうこう、と打ち込んで硬鋼が筆頭候補になる理系あるあるネタはそろそろ封印しようと思います。
その先生はどちらかというと、自分と同じ側の人間だったように思います。
時たま口癖のようにこう言っていました。
“先生はなぁ、人間はresistantだと思ぅとるんよ”
電気回路におけるR記号の説明の時だったかと思います。
正直、物理学とは何の関係もないわけなんですが。
自分にとってこの意見は完全に同意することはできないものの、
大筋では同じ考えを持っていました。
人は何かに逆らおうとして生きていく。
付け加えて、確かそんな事を言っていたと思います。
勉強しろと言われれば、いやだとそれを突っぱねる。それが人として自然な生き方だ。
みたいなそんな言い方だったと思います。
おそらく、性善説性悪説みたいなレベルでの話でしょう。
それを聞いた当時から自分の持つ意見とは違うと思っていましたが、
間違った考えだとは今でも思いません。
大抵そういう定理のようなものを自分で抱いている人は、
それを裏付ける何かを持ち合わせているものでしょう。
一旦円環のように考えを構成すると自己の中で矛盾を持たないものですから、
その世界観を知ろうともせず闇雲に否定しても、何の進展もありませんしね。
対して自分の意見はこうでした。
大雑把に、そして右か左かと言うほど乱暴に考えるならば氏と同じでしょう。
流れに逆らおうとする人がいる。
似たようなことを言っているというのはわかるでしょうが、
人によって何が違うと感じるかは様々かもしれません。
さて、普通の人が聞けばそりゃそうだと思うわけですが、
この件については以前の記事で書きました。
言葉に直せば当然の事なんだけど、本人の中では妙な合理性がある、という話。
最近過去の記事にバックホームしてばっかで申し訳ないですけど、
それっくらい読者のこと無視して話を進めてるのでごめんなさいね。
探すのが面倒でリンクも張らない引用もしないクラスのクズですが。はい。
それで、この一文の持つ意味は何かと一応解説しておきます。
例えばトレンドなんかが流れに例えられますが、
多くの人が身を任せる風潮や常識に対して猜疑心を抱いたり、
あるいは誰も持たなかった視点で本質に切り込んだりと、
そういう人がいる。ただそれだけを述べています。
この一文では流れの大小、あるいは人の割合、立場について一切触れていません。
万人に通じるように言葉で縛っているわけではないというのが一つの特徴でしょう。
ニュアンスの中で均衡を保っている、本当に誰に話しても意味を成さない文句です。
しかし、実はこういった曖昧な言葉が、ただ本人にのみ呪文のような効果を発揮するのです。
意識せずとも関わっている人が多いんじゃないかと勝手に思ってますけれども。
自己暗示です。
そろそろ言わなくてもわかってくれると信じてますけど、ここで言う
“ 流れに逆らおうとする人 ”っていうのはつまり自分のことなんです。
知らぬうちに自分の存在を認めるための教訓のように扱っているのです。
時として大きな流れの中に自分がいることを見つけたとしても、
流されることが決して良いわけではないというのを自分自身に聞かせるため。
少なくともある一時におけるかつての自分がそう確信を持った事を伝えるため。
予め土地に杙を深く打ち込んでおき、周りでどんな水流が起ころうとも
自分を見失わないための係船柱のような役割を果たします。
いざというときには誰かに後押しされているかのような自信を生み出す、
実は結構頼りになる思想なんですが、思えばそれ自体自分で作り出したものですから、
自分の背中を自分で押す、一種の永久機関のようなものと言えるかもしれません。
ちなみに、この“流れ”に関する考えはあるゲームがきっかけでした。
そのゲームは今でもたまにやりたくなりますけど、
ある背骨のしっかりとした信念を貫く二人の主人公が、
様々な葛藤と戦いながら物語を進めていくゲームでした。
もしかするとその頃からかもしれませんが、
物事に対する視点の置き方の重要性をしっかりと意識するようになりました。
この深い話はまた次の機会にしたいと思いますが、
自分の中には、自分の棲む水槽を外から俯瞰する大胆な視点があります。
この辺は未だに不確定な部分があるので
一つの論を確立するには時間がかかるかもしれませんが、
そのうち紹介できればと思います。
宿題をいつまでも出さなかったある日の事でした。
こうこう、と打ち込んで硬鋼が筆頭候補になる理系あるあるネタはそろそろ封印しようと思います。
その先生はどちらかというと、自分と同じ側の人間だったように思います。
時たま口癖のようにこう言っていました。
“先生はなぁ、人間はresistantだと思ぅとるんよ”
電気回路におけるR記号の説明の時だったかと思います。
正直、物理学とは何の関係もないわけなんですが。
自分にとってこの意見は完全に同意することはできないものの、
大筋では同じ考えを持っていました。
人は何かに逆らおうとして生きていく。
付け加えて、確かそんな事を言っていたと思います。
勉強しろと言われれば、いやだとそれを突っぱねる。それが人として自然な生き方だ。
みたいなそんな言い方だったと思います。
おそらく、性善説性悪説みたいなレベルでの話でしょう。
それを聞いた当時から自分の持つ意見とは違うと思っていましたが、
間違った考えだとは今でも思いません。
大抵そういう定理のようなものを自分で抱いている人は、
それを裏付ける何かを持ち合わせているものでしょう。
一旦円環のように考えを構成すると自己の中で矛盾を持たないものですから、
その世界観を知ろうともせず闇雲に否定しても、何の進展もありませんしね。
対して自分の意見はこうでした。
大雑把に、そして右か左かと言うほど乱暴に考えるならば氏と同じでしょう。
流れに逆らおうとする人がいる。
似たようなことを言っているというのはわかるでしょうが、
人によって何が違うと感じるかは様々かもしれません。
さて、普通の人が聞けばそりゃそうだと思うわけですが、
この件については以前の記事で書きました。
言葉に直せば当然の事なんだけど、本人の中では妙な合理性がある、という話。
最近過去の記事にバックホームしてばっかで申し訳ないですけど、
それっくらい読者のこと無視して話を進めてるのでごめんなさいね。
探すのが面倒でリンクも張らない引用もしないクラスのクズですが。はい。
それで、この一文の持つ意味は何かと一応解説しておきます。
例えばトレンドなんかが流れに例えられますが、
多くの人が身を任せる風潮や常識に対して猜疑心を抱いたり、
あるいは誰も持たなかった視点で本質に切り込んだりと、
そういう人がいる。ただそれだけを述べています。
この一文では流れの大小、あるいは人の割合、立場について一切触れていません。
万人に通じるように言葉で縛っているわけではないというのが一つの特徴でしょう。
ニュアンスの中で均衡を保っている、本当に誰に話しても意味を成さない文句です。
しかし、実はこういった曖昧な言葉が、ただ本人にのみ呪文のような効果を発揮するのです。
意識せずとも関わっている人が多いんじゃないかと勝手に思ってますけれども。
自己暗示です。
そろそろ言わなくてもわかってくれると信じてますけど、ここで言う
“ 流れに逆らおうとする人 ”っていうのはつまり自分のことなんです。
知らぬうちに自分の存在を認めるための教訓のように扱っているのです。
時として大きな流れの中に自分がいることを見つけたとしても、
流されることが決して良いわけではないというのを自分自身に聞かせるため。
少なくともある一時におけるかつての自分がそう確信を持った事を伝えるため。
予め土地に杙を深く打ち込んでおき、周りでどんな水流が起ころうとも
自分を見失わないための係船柱のような役割を果たします。
いざというときには誰かに後押しされているかのような自信を生み出す、
実は結構頼りになる思想なんですが、思えばそれ自体自分で作り出したものですから、
自分の背中を自分で押す、一種の永久機関のようなものと言えるかもしれません。
ちなみに、この“流れ”に関する考えはあるゲームがきっかけでした。
そのゲームは今でもたまにやりたくなりますけど、
ある背骨のしっかりとした信念を貫く二人の主人公が、
様々な葛藤と戦いながら物語を進めていくゲームでした。
もしかするとその頃からかもしれませんが、
物事に対する視点の置き方の重要性をしっかりと意識するようになりました。
この深い話はまた次の機会にしたいと思いますが、
自分の中には、自分の棲む水槽を外から俯瞰する大胆な視点があります。
この辺は未だに不確定な部分があるので
一つの論を確立するには時間がかかるかもしれませんが、
そのうち紹介できればと思います。
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