2012年6月9日土曜日

このブログの存在意義について

以前からメモだとか、自分用だとか言ってますけど、改めてここでまとめようかと思います。



前に書いたことのある内容もあるので、さわりだけにしますね。

ブログを始めたのは中3の1月でした。

当時はHTMLの復習がてら文章を書く習慣を作ろうというのがねらいでした。

自らが情報発信の場になればいいなとも思ってましたが、結局そこまではいきませんでしたね。

高校に入り、しばらくして無料のブログサービスを使い始めます。

最高で月に20件書いたことがあるくらい熱心に更新してました。

内容がいかに薄くとも、とにかく何か今日思ったことを書こうとしていました。

小学生の時、学期末に書く科目の感想みたいな奴がなかなか書けなかったんですよ。

ただ、3年か4年かぐらいの時だけやたら長文を書けるようになりましてね。

あのときなぜ書けたのか思い起こそうとしていたというのもありました。

それが高校時代の話です。

その頃は自分のパソコンじゃなかったですけれども、

1時間ぐらいは何かやりながら書いたりしてました。

大学受験の時期になって更新は減りまして、生存報告的な意味合いが強くなります。

大学に入ってから更新を再開し、サービスの改悪を機に移転。

相変わらず近況報告がメインだったが、程なくしてツイッターが登場。

しばらく静観していたが、アカウントを登録してからはツイッターにあらゆるネタを吸われ、

ブログでの近況報告の必要性が極めて薄くなり、ツキイチ更新にまで頻度が減退。

近況でもなく、ツイッターに書けないことはなんぞや、

というと昨今書き連ねているような、なんちゃって学問だったんですね。

以前からたまには書いてたんですが、泥水を漉すようになんちゃって学問が残りました。

”なう”の必要性はなく、むしろ時間と共に流されるべき内容では無い上に、

字数制限や改行の規制された枠で収めることのできないものですから。


一度習慣づいたブログの更新が途絶えるというのは

個人的にちょっと許せないものですから、

書くネタが無くともツキイチ程度には継続して書いていこうという姿勢が

今まで続いてきたというところです。


無理して書いていると言えば確かにそうなのですが、

実際無理してでも書かなければならない時ってありますから、

スキルを鍛えるという観点からはまあ、良いんじゃないですかね。


内容はあくまでその時そのタイミングで思いついたことを書くわけですが、

ただ思い悩んでいるときと、それを一旦文字にまとめた後では

その案件に対する考え方が変わったりするんです。

人は相談することで、あるいは一方的に話すだけでも心理的に楽になると言われますが、

このブログは自分にとってのそれにかなり近いところにあるのだろうと思います。

一方で全く別の言い方をすれば、暗算するより紙で計算した方が論点を整理できる

というのもまた確かなことだと思います。


また、ブログの存在にかかわらず四六時中何かに気づこうと考えを巡らせている自分ですが、

記事を書くために概念を言語化しようとしているとき、全く別の理論がひらめくこともあります。


この間の記事ですが、女性のスカートをどうやって突破するかという話。

あれを考えてる最中にとても重要な考えを思いついたんです。

限られた文字数の中で意思を疎通させる、という件について深く探っていたときでした。

ある程度の前提の共有が必要だとか、数理的読解能力の依存度だとかを検証してたんですが、

考えていくうちに、この件は文章の長さに関わらない可能性が見えてきたんですね。

いくら文章を長くしたって意思の疎通にはある程度の限界があり、

その限界の決定には相性問題が発生するだろうという事なんですね。

いわゆる話が合うとか合わないとか、そういうところと密接に関連しますけれども、

つまり相容れない世界の住人同士では会話が成立しないという基本的な問題です。


異世界人との会話や、古代人の使っていた言語を読み解くのに最も重要な能力の一つが

暗号を解読する力だろうと思うわけですけれども、

世界観を共有していない人たちの会話ではこれに近い能力が必要となると思います。

どこかで解説しておいた方が良いかもしれませんけど、

会話を成立させるには、言葉を選ぶ という何気なくとも

意思疎通における最重要事項に対しての意識がある程度近い必要があると考えます。

突然ですけど、自分は言霊を信じるクチなんですね。

その立場から言うならば、同じ言葉に対して話して聞き手にとって違う言霊が宿っているとき、

もちろん両者の間で意思は通りませんよね。

ただ、これは一つの立場からの考え方です。

聞き手がどうかという運任せの視点でした。


もう一つ、話し手がどうする、という立場からの考え方があります。

聞き手が理解できるような言葉を、話し手が意思を持って選択するということですね。

その中でも特に、大きく分けて二つの場合を考えます。

聞き手の考えをある程度以上理解しているとき、

一方聞き手の解釈が全く見積もれないときの二つです。


そもそも聞き手が話し手の世界観を理解しきれていない場合の多くは

両者の馴染みが深くない場合に多く起こると考えられます。

同様に、話し手が聞き手に譲歩できないときも、その多くは相互理解が浅い事が多いでしょう。

ただし、聞き手のことをある程度理解していても、聞き手に伝わるように話すことができない、

という場合も往々にしてあり、日常生活において珍しいことではないでしょう。

IQが20違えば会話がかみ合わないとか言われますけど、

他にもたとえば、相手の出自を事前に知っていたとしても、

いざ1対1で面と向かって自分の印象を悪くしないように、

そして自分の今後の人生に関わる可能性がある相手と当たり障りのない話をするとなると、

まあお見合いのシチュエーションですけども、なかなか気が合う相手でないと

話が進まなかったりするんだと思います。


聞き手と完全な初対面な状態で会話を始めるとき、お互い探り合いから始まります。

当たり障りのない会話から相手の興味を察して、

程度の違いはあれ盛り上がる方向へと乗せていきます。

この行為自体が相手への理解を深めることであり、世界観を知ることになります。

事務連絡だけなら戦略的な場合を除いてその必要は無いですが、

雑談では、楽しく過ごそうと思うならば共有する世界観の確認が避けられないでしょう。

その中で話し手は相手の解読できる暗号を組み立てて自分の意図になるべく近い形で

相手に伝えるという作業が不可欠になります。

あまり考える必要も無いことですが、打ち解けるというのは相手とのやりとりの仕方に気づく

ということで、その会話の進め方が他の人との間でも上手くいくというわけではありません。

まあ、お互いコツを掴むまでギクシャクするわけですが。


と、いうわけで自分自身の考えを一旦整理して違う視点から理論を見つめ直したり、

記事として纏める作業自体で別のことを予期せず思いついたりするんですよ。

そういう意味でも考えを発展させる上で重要な役割を担っていたようにも思います。

ただ、大学に入ってからのブログって実は記事の質が結構変わってるんですよ。

前述したツイッターの影響もあるんですが、一番の原因は一人暮らしを始めたことと、

広義での友達がいなくなったことですね。

自分の考えに対して誰か他人の意見を聞いたり、あるいは他人の考えを取り入れたり

検討したりという事が無くなりましたから、ある意味では自分の考えに集中できるということ

ではあるんですが、外乱から切り離されると検討課題の絶対数が減りますから

なんとも煮詰まるとでもいいますか、考察材料が枯渇気味な状態になりました。

それでもなんとかネタを引っ張ってきて煮ていくわけですが、

ぶっちゃけ他人との間で見つけたネタの方がたぶん読んでる方もまだ面白いと思うんですね。


そこでまたいろいろ考えるんですけれども、なにも公開する必要ないんじゃないかと

そういうところにたどり着くわけですね。

個人がネット上に発言の場を持ちはじめる時期、ブログなどの定式化したサービスが始まる前の

ものだったと思いますが、ある漫画の一節を最近見かけたんです。

世界へ向けて誰でもが好きなことを喋れる時代になれば、みんなが自分の喋りたいことを

話し始めて誰も聞く人がいなくなってしまう、という内容でした。

確かにその通りで、ネット上には自分にとって有利なものは殆ど無く、

重複した情報が溢れ、無駄で無益な交流の場に成りはてた部分もあると思います。

実際自分自身でもここ最近はなるべく情報から遠い位置で生活しようと心がけていまして、

できるだけパソコンの電源を落とすように、あるいはツイッターのクライアントを起動させない

時間を多く持つようにしています。

一番の理由は心労からの解放なんですが、

やってみてわかるのは事実ほとんど不自由しないって事なんですね。

まあウェブ上に特定の知人を積極的に作らないよう努めたからできることでもあるんですが、

ウェブ上のトレンドって自分が生活していく上で知らなくても何の被害もなく、知っててもほとんど

利益も無いですから、思い切って自分からラインを切るのもなかなか良いと思います。

「ウェブ」というのは元々「蜘蛛の巣」のように八方に広がる様子からworld wide web、

WWWという言葉が生まれていますが、どうも今の世の中ではその蜘蛛の巣に捕らえられて

抜け出せていない状況が蔓延しているように思います。

多くの人がそれに気づいていないというか、そもそも居心地が良いと感じてる人は

いくら身動きがとれなくても問題ないんでしょうけど。


さて、ブログで記事を書くというのは立場的に情報を発信する側なわけですけれども、

ご多分に洩れず当ブログもあまり価値のあるものではないんですね。

喜んで読んでる人がどれくらいいるのか測りようがないのでどうしようもないんですが、

実はまた別の観点から電子メディアから脱却しようかと考えているんですね。


スマートフォンやタブレット端末の普及が著しいですが、いかにタッチパネルで直感的な

入力・記録ができるようになったとはいえ、

限られた情報量の整理において紙に勝ることはないと思います。

画面がどんなに広くなっても画面より外に情報を並べることはできないですし、

色を変えるにしてもペンを持ち替えるほど直感的な動作はできません。

インデントの調整や余白の入れ方、枠のスタイルなどなど、伊達に10年以上

勉学に従事してきたわけではありませんから、強調と分離のバリエーションには

割と自信があります(少なくとも自分にわかりやすいようには)。

まあ種類だけなら腐るほどあるので基本的に色を分けることをしないようにしてるんですが、

そもそもインデントの自由度を考えただけで情報の整頓の効率が大幅に上がります。

加えて書体の強弱、行間の調整でだいたいの事は良い状態で記録を残せると考えますが、

ほぼ紙スペシャルの技術なので電子媒体にはあまり効果がありません。

というか、跡を残さず追記修正をできるというのが電子媒体の最大のメリットだと思うのですが、

それをやっちゃうとスタイルが崩れて思うような状態で保てないのでちょっとイライラするんですね。


まあ、何が言いたいかというと情報の内容によって場所を選ぼうというところなんです。

この文脈からするとつまり閉鎖になってしまいはするんですが、

このブログはいわゆるふつーの日記的な記事で主に存続させようと思います。

ただ、それこそ存在意義が不明瞭になるのでかなり存亡の危機ではあるんですが。

良い印象を持たれようとは思ってないですが、たまに度が過ぎた意見を書いてたりするので

エセ哲学もそろそろ潮時かなとも思っています。

それに誰も反応しないと言えど、あくまでパブリックな場なので言葉を選ぶ必要があります。

わかるように書くのと語弊を避けるために時間のロスが酷いんですけどね・・・。



今の時代でネットの影響を完全に絶つなんてことは既にできない社会になってしまいましたが、

なるたけ脱俗するようにこの先しばらくは生きようかな、なんて思うわけです・・・。