2012年12月28日金曜日

理屈の話

ツキイチで書いてるつもりだったけど、一ヶ月って割と長いし、書こうと奮起できない時期が続くといつの間にか忘れてたりもするんでね、みたいなよく意味のわからない言い訳をしつつ今年を締めくくる記事を書くのですよ。



理屈のお話です。

理屈の苦手な人って案外多いものですよね。まあ、自分で理屈が得意かどうかってのはなかなか絶対的には計れませんけど。

理系の人は理屈っぽくて、文系の人はそうじゃない、みたいな風に世間一般では思われがちですけど、経験上そうでもないと思うのです。自分が理系だからか周囲には理系の人間が若干多いですけど、理系の学問を専門としてるにも関わらず理屈が苦手な人は割合にすれば思いの外多い気がします。

理系の人は一般に数学なんかが得意な傾向にありますけど、中を開けてみると、実際に数理力が高い人と、公式を覚えるのが得意とか解き方を覚えるのが得意な人と、ざっくり二パターンあると思います。もちろんどちらか一方だけでは数学の問題を解くことはできませんが。それら二つを比較したとき地頭力といいますか、未知の課題を解決するためには当然前者の力が重要になるわけです。

アバウトに言うと、カミソリみたいな思考力を持つはじめまして理系タイプと、経験と記憶力で困難に打ち勝つおひさしぶりです理系タイプに分けられるということです。理系としてどちらが優れているというのは問題でないのですが、理屈に強いのは前者ですよね、というところ。

中高レベルの数学の先生でも経験上それぞれのタイプがいます。数学は当然よくできるのに、学問外では筋の通らない話し方をする、なんて人も。ですから、学業の成績とはある程度の関係しかなくて、学力が一定以上のレベルになると必ずしも論理力が追随するわけではないという事です。

既にこの辺の言い回しからして難しい言い方をしているようですがご了承を。


さて、おひさしぶりです理系タイプやどちらさまでしたか文系タイプの皆さんと話を、もとい議論をしているとよくあることなのですが、用意された理屈に穴を見つけることがあります。別段揚げ足を掬ってやろうという魂胆ではなく、情報共有の課程で見つかるものですが。時に矛盾点であったり、あるいは検討が不十分なところであったり、優先順位をうまく設定できないために事態が進展しなかったり。

そういった理屈の脆弱性を見つけられたとき、自分は上から目線でものを言われるのがすごく腹立たしいので、逆に自分が見つけたときはなるべく本人にそれとなく解決してもらうように仕向けてます。問題はここからなんですよ。

おひさしぶりタイプの中には隠れはじめましてタイプみたいな人もいて、自分で問題解決できる十分な思考力を持った人もいて、見えなかった能力を垣間見たりもする一方、ほんとにほんとの真性おひさしぶりタイプの人にエッジの効いた指摘をすると問いかけの主旨すら理解されなかったりするわけです。

理屈という名の鈍器。そう個人的には呼んでますけど、シャープな切り返しが通用しない場合に固くて鈍い理屈で殴り続けるんですね。いうなれば土台の亀裂を明るみに出すような行為です。非破壊の打音検査をするふりをしながら、実は壊れそうなところを徹底して全力で叩き破壊するレベルで悪質なものですが。

そんな中、一番やっかいなのはお茶を濁して鈍器をかわそうとする人ですね。めんどくさがりでずる賢く生きようとする人に見られますが、鈍器を用意し始めると突然語気を弱めたり、その場しのぎの予防線を張ったり、あるいは議題自体を一方的に遠ざけようとしたりと、態度を急変させるのです。これをやられると当然質疑がうまくいかなくなるので、指摘する側としては自分の理解力が足りないのか、あるいは相手の理屈に問題点があったのかはっきりしないまま終えてしまう事になります。

殴られるのがわかってて正座してるのも確かに恐ろしいもので、自分よりも優れた論理力を持つ人と話す時は自分自身及び腰な考え方をしてしまいます。それでもやはり自分の劣った思考力を正面から受け止め自覚する姿勢は必要だと思います。


論旨がはっきりしないようですが、半分は愚痴でもう半分は自分に対する戒めのような、思いついたことをそのまま書き記したくらいの記事です。
読者へのメッセージがあるとすれば、誰かお互いのためにも尋常に論戦を交わそうよ、というところであるのですが。

2012年10月14日日曜日

思考のゲル化

特別なきっかけも無く慢性的に気分が落ち込んでいるときは、もしかするとその一因として景気が悪い事があるかもしれないそうな。

また、人は景気の良いときは白を好み、悪いときは黒を好む性質もあるとか。

衣服などで明るい色を取り入れると気分を変える事もできるとかできないとか。しかしそれは火種となり得てもただそれだけで高揚をもたらし続ける事は無いでしょうから、また難しいところではあります。

関連して、作り笑いでも表情筋を動かせば健康に良いとか、あるいは気分を上向きにする効果があるそうです。

二進も三進もいかないときはとりあえず側から入るのも手段としては悪くないのでしょう。それでもやはり何か根源が芳しくないのであれば、そこは抜本塞源的な働きかけを欠かしてはいけないのでしょう。


以前の投稿で人は幸せになる事ができるのかとういう事について論じた事がありましたが、今でもやはりその命題に対する的確な理屈を設ける事ができずにいます。

その題に対する専らの切り込み口は、考える事が幸福に繋がるかどうかという点でした。


自分にとっての考える、というのはその大半が小さな反逆であるように思います。

自分で左右の手を組むとき、普段は右手の親指が上になるように指を交わしているのですが、一時は意識して左の親指が上になるよう組んでみた時期がありました。

人の体というのは一見左右対称なようで、対称なのは大雑把な外観だけ。誰しも利き手や利き目が存在するのは周知の事実であるように、人のあらゆる部位には偏りがあります。体の中心線上、顔の真ん中に座っている鼻でさえ、多くの人は左右どちらかに骨が傾いているとか。

手の組み方を変えて気づくのは、指の股が普段組む組み方で馴染むようになっているという事。これはきっと体の形自体が変わってしまったという事ばかりではなく、普段と違う事に両手が上手く対応できないのだろうと思います。

例えば舞踊にしてもそうですが、理屈でわかっていても一発で上手くいかせるというのは無謀な話。多くは体で覚える、という作業が必要になります。意識しなくともどこかで型を作っていたり、コツを掴んでいたりしています。

手を逆に組んでもぐにゅぐにゅと形を模索すると、なんとか股がうまく噛み合う形というのは見つける事が出来ます。しかしそうしても普段組んでいるのとは気分が違う。かなり意識的であるからだと思う。

一月か二月か、意識的に指を組んでいましたが、いつしかそんな事も忘れて“普段組み”に戻ってしまっていました。


水は低いところを探して落ちていきます。人とて同じく、一旦落ち着く場所を見つけてしまえばそこに安住するようになります。自分から高い場所に上るのは一苦労。上って良い事があるならまだしも、そうでもないなら窪みにいる方が楽なのです。

もちろん手の組み方なんて一例に過ぎず。あるいは左手でボールを投げようと思った事があるだろうか。

実際にボールを投げなくとも、モーションだけで十分です。右手でボールを投げる動作をすると上手くいくのに、それを鏡写しに真似しようとしてもどうもぎこちない。右、左と交互に動いてコツを掴もうとしても体は右で感じるような自然な感覚にはなれないのです。

長い間この問題について考えてきた結果、得られた結論は肉付きの違いでした。

紐付けした球を円形に運動させるときに生まれる遠心力。直線に加速させる時とは違った方向に力が必要となります。同じようにボールに速度エネルギーを与えるとき、右手では直線方向の加速度ばかりでなく、向心加速度を上手く利用します。

実は左手は、右手のようにボールを投げるときに必要となる力をあまり経験した事がないのです。右手の真似をしようとすると関節が外れそうな方向に力が働く、というのが適切な表現かはわからないが、引っ張る力に筋肉で対抗しようとするのではなく、上手く働いてくれる筋肉が無いために、その力の出所を骨格に任せてしまうのです。


右と左の違いは思ったよりも遙かに奥が深い。

右手が利き手だから少なくとも手に関していえば、左よりも右の方が圧倒的に器用かというと、そうでもないらしい。ペンを持つにしてもプルタブを起こすにしても、何か新しい事を覚えるときに主役を任されるのは右手が多い。左手が補助的な役割に回るのは必然だろう。

主役ばかりに目を奪われるのは仕方の無い事だが、左右を入れ替えてみて驚くのは実は右手の不器用さであったりする。左手でペンを持ち、紙に文字を書こうとする。すると右手は忽ちに行き場を失い、何をして良いのかわからなくなるのです。左手が普段何をしているのかなんて気にもとめないでしょうが、実は何気ない左手の立場があってこそうまく右手が機能できる場というのは驚くほど多いのです。

ボールを左手で投げるとき、右腕はどこで何をすれば良いのかさっぱりわからず、普段の左腕の動きを観察するために右手でボールを投げる動作をしてみなければならない。という具合になる。

ペンを持つときだってそう。単に紙を押さえてくれさえすれば良いのだが、実際初めてやろうとするとなかなかどうして上手くいかない。手が支えるのは実は紙だけではなく、体の姿勢を決める役割もある。思えばさして難しい事ではないようで、やってみる前にいくら思いを巡らせても気づいたかどうかは定かでない。

しかしどうだろう、鉛筆の持ち方を学ぶときに言われた事を思い起こせば新鮮さを感じる方がむしろおかしいのかもしれない。左手で紙を押さえないと字を書けないだろう、と確かに何度か言われた。その頃から既に、脇役の居場所は膝の上ではなかった。

そうこうして左に主演をさせてみてもやはり“普段”の右の方が楽なもので、左が少々器用になろうとも右にトラブルがあったときのバックアップが厚くなったくらいで特段日常生活が良くなるわけではない。英語がある程度堪能になったって日本語の方が便利なもの。やはりというべきか、安住の地はそう易々と離れられるものではない。



ファーストフードで注文を済ませると、会計をおこなう前に別の商品を勧められることがある。自分はこの手の販促活動に乗っかって注文を追加した事は一度も無いのだが、あれはきっと売り上げを向上させる貴重な一手なのだと思う。

スーパーマーケットのレジで並んでいると、手の届くところにガムやら電池やらが並べてある。コンビニではいざという時に無いと困る生活必需品は下の段に。駅前の書店の入口近くには外からでも見える棚に時刻表が収められる。

衝動買いと、その逆とを上手い具合に突くよう作戦を立てるのは、きっと成長する経営に欠かせないものなのだと思う。

居酒屋で注文を聞き、繰り返す前に尋ねられてもいないお勧めメニューを紹介する。ある客は、そう迷う事なくそれも、と返事をするとしよう。海鮮ものだと、鮮度や旬の問題だとか、店側にとっては一定ではない仕入れ値の具合なんかも勘案して勧める。

客としてはそのメニューが目を見張るほど珍しかったり特徴的でもない限り、あるいは後悔するような味でない限り、店を出る頃には勧められたメニューだった事なんてどうでも良い事になっているだろう。客としては別段損をしたという意識はないし、店側は売りやすいメニューで売り上げを伸ばせるのだから、これはとても素敵な事だと思う。

だが一方で、これで良いのだろうかという立場に立ってしまえばどうだろう。

これは商売に一種の妨害をしてやろうという単純で幼い発想ではない。自分の利益を中心として、絶対的な価値判断の基準として考えるというもの。店員に勧められる前にその商品の存在を知っていれば果たして注文しただろうか。オススメとして存在した場合と、そうでなかった場合を考えたときに同じ結論が導かれただろうか。

レジに並んでいるときに見つけたガムが美味しそうだと直感的に感じたとする。そこでカゴに入れてしまえば楽しみを一つ得る事が出来るだろう。しかしもし、それを見つけなかったときはどうだったろうか。結果的にそのガムを買わない事で後悔することはまず無いし、この場合は楽しみを“失った”のではなく“得られなかった”というだけでしかないのです。

もし“得られなかった”ら気持ちとして“得た”場合には劣るかもしれないが、その差は果たしてどれくらいのものだろう。商品の価格に相応するだけの価値があるだろうか。

“無かった場合”を考えるというのは非常に難しいもので、特に気持ちの問題となると困難を極めます。

調子が狂うとき、特によく言われるのはかわいい女の子と普通に話せないというシチュエーションですが、もし仮に相手がかわいい女の子ではなかった場合、一体何を話しただろうかという事を事前に知っていれば意識的に“普通に”会話をする事ができるかもしれない。という非常に単純明快でかつ難解な問題と大筋では同じ事を言っています。

深いところまできてしまうと、人によって何を善しとするかが違うために消費動向も一概に言い纏める事はできなくなってしまうのですが。

咄嗟に出されるオススメというのは売る側にとって常に都合のいいように出てくるものの、消費者にとって良い提案であるとは限らない。予め存在を知っていても注文しなかっただろうという場合はその場で考えるのが面倒なのでとりあえず断る。別の陳列順序であれば購買意欲をそそられただろうと思うものは立ち止まって少し悩んでみる。書店で見つけた面白そうな本は、その書店の努力によって見つけられたものかもしれないし、そうでなくとも書店側が斡旋した出会いだと思えば、帰ってからインターネットで注文しようという気持ちにはとてもならない。今の自分はそういった考えを持っています。こういった姿勢に関して、完全に意見の一致する人はそういないでしょう。

これらは考えに考えた末に辿り着いた考え方で、これからも絶えず変化していくでしょう。中には一周して結論的に以前と同じ行動を選ぶ事もあるくらいです。

こうした反逆を楽しみ、より優れた考えを勝ち取っているようにも見える一方で、単純に居酒屋で勧められたメニューを受け入れる方が遙かに楽なのは確かです。

あまり深く考えない方が、言うなれば馬鹿であった方が、もっと言うなら頭の中がお花畑な方が圧倒的に幸福に近い立ち位置であるのではないかという乱暴な仮説がどこまで適しているかを“考え”続けてきたわけです。




煮詰まる。という言葉には二つ意味があって、一つは議論や熟考の末に方向性や内容が絞られてきてそろそろ結論が得られそうだという状態。もう一つは議論が進まなかったり適切な案が出せずに立ち往生する状態を言います。後者は原義的には間違いだそうですが。

どうにも今日日は頭が硬くなっているというか、斬新で興味深いものを生み出す発想力が衰えてきているように感じます。あらゆる物事にだいたいの妥当な結論を出せたという事かもしれませんけれども、それはそれで退屈な事です。

そこで一度凝り固まった理屈を切り崩し、ゼロベースから思考を再構築すれば何か新たな発見があるかもしれない。という事を思いついたのはつい先日の話。

何かに熱中するなりして難しい考え方から距離を置き、いわゆる時間を無駄にするような生活の仕方でも何でも良いのでとにかくシンプルで馬鹿な生活をすれば、これまでとは違う物の見方ができるのではないかと思ったのです。

しかしこうした物の考え方は自分にとって一つのアイデンティティであり、言いようによってはプライドでもあるわけですから、そう簡単に自励的な変化は期待できないのではあるのですが。

2012年8月9日木曜日

例えばパワースポットという存在に対して

だらだら続くよ自己分析シリーズ。。。

一時期パワースポットブームがマスコミで騒がれていたのをさっき風呂で思い出したので、ちょっとそれに関して述べてみようかと思いますね。


度々言うようだけど、パワースポットに対してもの申したいんじゃなくて、パワースポットを例にとって自分の思考手法を解析しようという企画なので、そこんとこ勘違いしないでよね。


パワースポットというのは、なんだかよくわからないけど神聖なオーラが溢れ出てる場所で、そこに行けばなんだかパワーをもらえる、みたいなそんなスポットのことですよね。たぶん。

ちょっぴり問題になってたのは、そのスポットだけ拝んでホイサッサと帰ってしまう客がいるということでした。たとえば神社の境内にあるご神木だけ拝んで本殿を無視して帰る、みたいな。


パワースポットを信じるかどうかというのは恐らく大きく意見が分かれるところだろうと思います。

科学的な立場からものを言う人にしてみれば、パワーだなんて聞いただけでアホらしい存在に対して物理的な説明を求めるところから始まるかもしれません。パワーストーンなんかでも同じ事が言えますけど、俗に言う「気」だとか「力」というのは物理的に解析できるエネルギーで論じる事ができるものではないでしょう。その点、あくまで「科学的根拠はない」ものとして扱うしかないのです。

しかし一方で、実際にその「力」を信じている人がいる事も報道によると事実なようです。科学的な立場のみから何かものを言うならば、そういった人に対しては根拠の明示を求めるか信仰をやめるように勧告するしかないでしょう。無論、多くの人はそんな議論に興味は無いでしょうが。

自分の場合は、「パワースポットから信仰する人に対して何らかのエネルギーやそれに準ずる何かが与えられる事は無いだろう」という立場にはいますが、むやみにそれを否定したり見下したりする立場ではありません。

あくまで多角的に問題を捕らえたいので、科学的な見地を拭い去って再び議論を始めます。


科学的な立場からの論点は「パワースポットの存在自体に関してやその機能に関して」でしたが、次の論点は「非科学的と言えるパワースポットを信仰させるのは何か」に移ります。

分野で分けるならば宗教的というのが近いかもしれませんが、「信仰する人がいるのは事実」という点を掘り下げます。

まず、信仰する事で何が起こるのかを考えます。最初にメリットとして考えられるのは「パワーが得られるというプラシーボ的効果」です。おみくじで大吉を引いたときのように、自分が頑張れるように後押しをしてくれる効果はあると思います。自分にパワーが充填されていると思い込めば、少々の事であっても通常時より優位な状態で問題を解決する事ができると信じる事ができるでしょう。また、誰かに「大丈夫」と声をかけてもらえればある程度自分に自信が持てる人がいると思いますが、そういった人が誰にも声をかけてもらえないとき、自分自身の中に「大丈夫」といえる根拠をパワーの存在から生み出す事ができる点で、精神的な安定をもたらす効果が認められるだろうと考えられます。

一方、そういった扱いをするのであればわざわざ遠出をしてまでパワーを享受しに行く必要は無いと言うこともできます。確かに何か適当なものを信仰するだけならば旅費を出したり、時間を割いたりする必要は無いわけです。

いわゆる「パワー」というのは、信仰を高める事でその効果も大きくなるものだと思います。個人個人の心理的な依存度の問題です。信仰を高める一つの方法に、信仰対象を遠い存在にする、つまり崇高な存在にするというものがあります。絶対化です。

某新興宗教の手法で言うならば、崇高な存在である教祖が教徒の思想を否定する、例えば何気ない所作に対して「もっと物を優しく扱いなさい」とか一言言ったとします。万物に精霊が宿っていて来世で云々みたいな事を言ったとすると、教徒は「教祖は自分よりも優れた考えを持っている」と考えるわけです。これはあくまでその宗教という数直線で測ったものでしかないのですが、依存が深まれば恐らくそう考えるのでしょう(宗教は勉強してないから割と適当な事言ってる)。

教徒からすれば信心が足りないとか、教祖について行けば“より良く”なれるという思いが深まり、教祖や信仰対象との距離がより正確に、そして遠く感じるようになります。

これと同様で、パワースポットに対して「簡単に接触できる存在ではない」と思い込み、「時間やお金を消費してまで行く価値のあるもの」と化す事で信仰心を高める事ができると考えます。家の前の電信柱に塩をまいたら幸せになれます、なんて言っても殆どの人は気休めにすらならないでしょう。

しかし、あくまで表層的な信仰を利用したブームなのであまりにも崇高すぎる、つまり相当量の時間と金が必要であるとなると火種となる信心さえ生み出す事ができなくなります。

重要なポイントは、時間さえあれば誰でも簡単に御利益が得られる、という程度の存在である事だと思います。

また、移動などに要した労力が結果的に見てあたかも信仰心によるものであったかのようにいつの間にかすり替わりが起こる点も見逃せないと思います。自分を疑わない利益観念によるものですが、例えば振り込め詐欺でも同様の事が起こっていると考えられます。

客観的な第三者が見ればどう考えたって振り込め詐欺であるのに、振り込んだ本人はそれを認めようとしないという事例が多いようです。例えば息子が会社の金を紛失したと連絡があったとき、微塵も疑わずにお金を渡したとします。渡した後になって振り込め詐欺ですよ、と言われてもそれを認めてしまえばその瞬間に自分は大金を損失した事になります。しかし、それを認めない限りは仮想的に「騙されていない」状態であり続ける事が出来、息子の窮地を救ったという心地でいることができます。また、認めない事で振り込む当時の自分の判断を正当化する事が出来るので、ある意味で自分の行動を否定しようとする人から守る事が出来るのです。

パワースポットの話に戻りますが、丸一日使ってヘトヘトになってまで行ったのにまさか効果が無いわけがないだろう、という思いがある限りどうしても“ある”方に賭けたくなるものでしょう(半信半疑である場合に限る)。逆に言うと、ある方に賭けられない人間は丸一日かけてパワーを享受しに行く事自体がナンセンスであります。

以上の事から、結論的には「信じる者は救われる」という事になるのですが、それを踏まえての自分の立場としては「信じる事が全くの無意味では無いですよ」という感じになりますね。後半は信念を生み出すメカニズムに関する記述なので、蛇足ではありますが・・・。


自然科学、(エセ)心理学と来たら次は経済学の視点からになります。

経済は完全に専門分野外なので問題提起程度に留めておきますが、もしかしたらその答えはパワースポットが存在し始めた理由の核心に迫るものになるかもしれません。

要は誰の利益になるのか、というのが主題です。宗教的なしきたりを知らなくても、あるいは宗教分野を横断してでも簡単にパワーを得られるようなシステムを編み出したのは何故なのか。

消費者の心理を利用した黒幕がいるとすれば、その扇動による経済効果はどの程度になるのか。




みたいな事をありったけの知識をつぎ込んで考えるわけですね。

多角的に、というのが一つ心がけている事で、従来になかった視点というのを日々模索しています。何らかの新しい見地が見つかれば、その視点から見た尺度で何かより良く改善できるかもしれない、あるいは更に新しい視点の存在を見いだす事が出来るかもしれない、というのがモットーです。

自分は、自分の知らない視点を持った人と議論する事を望むし、あるいはそういった人と議論をする事でお互いが持っていなかった全く新しい考え方を見いだす事を望んでいます。

切磋琢磨と言いますが、率直に言って自分が相手に切り込む事があっても、自分が感心するような反論を受ける事は殆どありません。普通の意見を返してもらったところで思考の燃料にはならないのです。

ただ、奇をてらいすぎて何の意味も成さない意見を出す人がいるのも事実です。3秒で反証が思いつく意見を言ってもらっても仕方が無い。それこそ絶対化してしまうようで逆に会話を続けづらくなるのです。一方的に啓蒙するような立場ではないので、単に嫌な奴にしか成り得ないですから。

こういう話を貶し合える目くそ鼻くそな関係の人がいればなぁ、なんて思います。

2012年8月1日水曜日

だいたいまんげつ

いつも思うんですけど、餃子の満州の「3割うまい」の3割って何なんですかね。

検索すればヒットするかもしれないですが、なんとなく知ってはいけないような気もしつつ、いつも気になります。





2048*1536 f/4.4 1/200 ISO-80 949mm

中央じゃないじゃんって言わないで。手持ちだから。

この前の投稿と比べて頂ければちょっとわかりやすいかもしれませんけども、なぜ満月の撮影を難しいと思うかと言いますとね、簡単に言えば表面に影ができない分立体感が出ないんですよ。

裸眼で眺めればクレーターの影なんて殆どの人には見えませんから立体感も糞もないんですけど、これぐらいまでズームするとそれが見えちゃうわけですよ。

満月は真ん丸感で言えばMaxな状態な訳ですけど、あくまでも丸なんですよ。僕が撮りたいのは球なんです。

球の写真を撮るときってね必ず影がでるんです。まあ写真に限らずですけども、立体感を得るためには影の存在って結構大きいんですよ。

絵を描いてもそうですが、影の付け方で表情が変わってきますよね。それもこれも光の当たり具合が鍵になるんですよ。

満月の時って太陽と地球と月がだいたいまっすぐに位置するときになるわけなので、影なんてできなくて当然なわけで、いわゆる海と呼ばれる黒いシミがあるだけののっぺりした顔になっちゃうわけですよ。

なんて事を思ったりするんですね。

他にも、満月はいつでも満月だけど、欠けてるときはいつ見たって違う欠け方をしてる、みたいなこじつけもできますよね。


満月を嫌いなんじゃなくてね、欠けてる月が好きなだけなんですよ。

2012年7月31日火曜日

今年も夏休みがきました 自己分析と首尾一貫の話

去年は夏休みの工作をやってたんですね。

というか、あれ作ってからもう1年近く経ってるんですね。段ボール本棚。

あの本棚は、段ボールの箱を見て思い立ったその日に作り始めて、接着剤の都合で翌日に完成したんでしたかね。一気に作ったというわけではなかったと思います。


今年は何しようかね、なんて事を今決めたって結局やらないパターンが多いですし、性格的なものでしょうけど、宣言しちゃうと実現しないっていうジンクスがあるので、なかなか単発的な計画は立たないのですが。


とりあえず直近の課題として自己分析なるものを進めていかなくちゃいけないかなと思うんですね。


心理学の分野で自己分析はうまくいかないというのが相場ですが、どうやら就職にあたってはこの自己分析とやらが鍵を握るらしいぞ、というのを知りまして。

自己分析と一言に言っても、目的によって必要となる情報は様々ですよね。

今回は自分の魅力を他人にわかるように分析しなきゃいけないんですね。

実は、自分にわかるように自分を分析するっていうのは結構やってるんですよ。

小学生くらいの時は、文書で自己紹介をするのに自分で長所短所を書くじゃないですか。足が速いとか頭が悪いとかけんかが強いとか。

まあ、文字に起こすわけじゃないですけど程度としてはそれくらいの自己分析ですね。はい。


自分にわかるようにやるのと他人にわかるようにやるのでは雲泥の差なんですよね。いや別にどっちが泥とか雲とかじゃないですけど、目的によって価値が全く変わってくるわけですよ。

知らない人に自分の価値を知ってもらうには、もちろん他人向けの自己分析が必要だし、自分の価値をより高めるのであれば自分向けの自己分析をしないと効率が悪いです。


他人向けっていうのが難しくてですね、聞くところによると、どうやら謙虚な日本人は自己PRを控えめに作っちゃうらしいんですね。やってみるとまあその通りにうまくいくものではないんですが。



長い間ブログを書き続けてわかったことでもあるんですけど、自分の癖として、話し相手の顔色をうかがいながら話を進めるときが一番議論の進行が早くなるみたいなんですよ。

というのも、どうも相手がどこまで理解してるかを基準に次の言葉を選ぶ癖があるようで、疑問に感じているとわかったらその疑義を潰し、興味がありそうな事は蛇足にならない程度に余計な事までしゃべるんですよね。

逆に言うと、相手が話を聞いてないとわかったらその時点で全てが終了してしまうんですね。

そしてこうやってブログを書くときでさえ、万人にとって疑いの余地のないよう、自分の意思を曲解されないようにしようとしちゃうので、文字を書くのになかなか時間がかかるんです。

読んだ人が何を思うかと考えたとき、自分の望まぬ方向に勘違いする可能性があるときはそれを正すために何らかの修正や加筆を試みたり、あるいはそもそも言及しない事で本筋を明確にしたりと、悩まないようにするために結構悩んでるみたいです。

基本的に会話の順序ってのは相手に依るんですよ。

何を知っているのか、どんな言い方をすれば理解しやすいのかは人によって違いますからね。



余計な話もしておきましょうか。

昨今改善してきたのは姿勢の明確化。自分の意思が今どの方向に向いているのかを自分で正確に把握しておくという事。

自分がどうしたいのか、ぼんやりではなく、はっきりと決めるのです。自分が何をどうしたいのかはっきりしないうちに物事を進めていると、ふと振り返ったときに過去の自分と言っている事に矛盾があったりします。

自分では気づかなくても、余所から見ているとコイツ何やってんだろうって思われてる事も往々にしてあり得る話。

それは他者からの信頼にも影響するでしょう。始めは味方だったのにいつの間にか敵になっている、と思われたらそれ以降は味方だと思ってもらえないでしょうから。

姿勢の明確化は詰まるところ、物事に対して首尾一貫した対応を保証することにつなげます。

そうする事で、初っ端に十分な意見交換さえしておけば後は任せる、ということもしやすくなるわけです。結果はどうであれ、過程において方向性を議論する必要性が少なくなりますから。

武士に二言はない、と言いますが、自分の場合は少し違うかもしれません。この姿勢を最後まで保つ事ができるだろうか、結果的に何らかの不利益を生じないだろうかと先に全部考えちゃうんですね。

例えば、できない約束を軽々しくしちゃう人っていますけど、自分は基本的に最初に相手を信頼させる事はしないようにしています。

約束ではなく、なるべくどうするとか、できれば、あるいはできないかもしれないけど、というこの先起こりうる可能性を相手と共有する事で不履行によって信頼感を失う事を防いでいます。

見方を変えればズルいとも言えるし、責任から逃げてると思う人も少なくないでしょう。

しかし一方で、こうして「できないかもしれない」案件の依頼を受けたとき、基本的に全力を尽くします。自分がその依頼を成し遂げるかどうかで相手の利益が決まるときは、自分にとって少々不利益であってもやってあげようと思うようにしています。

良く言えば情けは人のためならず、悪く言えば恩着せがましいとでも言えるでしょうか。

まあ、ギブアンドテイクの助け合い精神が根幹にあると思えば良いんでしょうかね。


ただ、最近は一部の心ない人たちが、その人たちの利益ばっかりで自分が一方的に損してる事があると気づいたんですね。ギブアンドギブですよ。全く。

そういう人だと気づいたらなるべく依頼は受けるときに断るようにしています。まあ、基本的に最初に相手の利益と自分の不利益を天秤にかけて断るんですけど、それがどれくらい失礼な事をしてるつもりなのかわかってるのかわかってないのか・・・。

これも一種の姿勢の明確化だと思います。上では短期的な話をしてきましたが、人間関係では長期的な姿勢を考えるのが大事なんじゃないですかね。

利害の一致しない人と一緒にいても仕方ないというか、そもそも自分にとって迷惑であるということを意識して対応する事で、そのうち相手も気づいてくれるんじゃないかと思いますのでね。

ただ1つ言っておかなくちゃいけないのは、相手が致命的な損害を受けるようであれば自分が一方的な損をしようとも問題の解決に尽力するということ。

自分が3の損をすることで相手が100の損を免れるならば形振りは構わないという事です。

まあそれでもやはり、これまで自分に100の損をさせてきた人に手をさしのべる事はありませんが。




みたいな事をこれからいくつか書いていこうかな、なんて思います。夏休みだしね。

2012年7月30日月曜日

cicada

蝉ってどうやら復活とか不死の象徴らしいですよ。

確かに言われてみればそんな気もしてきます。







蝉の声を疎む人って結構多いのかもしれないですけど、自分の場合あんまり嫌には思わないですね。

嫌がって静かになるならいいですけど、意識するほどきっと気になると思うんですよ。

何でもかんでも風情扱いして受け入れちゃう民族なんだから、それに乗っかっちゃえばいいんじゃないですかねぇ。




2048*1536 f/4.4 1/125 ISO-80 949mm




ベランダから見える位置で鳴いてるもんですから。そりゃ撮ってみたくもなりますよ。


みーんみんみん・・・あれ?違う?

2012年7月27日金曜日

お久しぶりに月を撮った

何度も言いますけどね、月は欠けてるときが綺麗なんですよ。

表情が出ますからね。



これくらい欠けてるときは、昼と夜の境目にあたるところが際立ちます。

クレーターと言ってしまえばあまり夢がないかもしれないですけど、

地平できる影はなかなか乙なものではありませんか。



2048*1536 f/4.4 ISO80 1/10 949mm


あんまり空気が澄んでないこの季節なので光が滲みますけどね。

ふと月が見えると、やはり月のご機嫌を伺ってしまいますね。

2012年6月9日土曜日

このブログの存在意義について

以前からメモだとか、自分用だとか言ってますけど、改めてここでまとめようかと思います。



前に書いたことのある内容もあるので、さわりだけにしますね。

ブログを始めたのは中3の1月でした。

当時はHTMLの復習がてら文章を書く習慣を作ろうというのがねらいでした。

自らが情報発信の場になればいいなとも思ってましたが、結局そこまではいきませんでしたね。

高校に入り、しばらくして無料のブログサービスを使い始めます。

最高で月に20件書いたことがあるくらい熱心に更新してました。

内容がいかに薄くとも、とにかく何か今日思ったことを書こうとしていました。

小学生の時、学期末に書く科目の感想みたいな奴がなかなか書けなかったんですよ。

ただ、3年か4年かぐらいの時だけやたら長文を書けるようになりましてね。

あのときなぜ書けたのか思い起こそうとしていたというのもありました。

それが高校時代の話です。

その頃は自分のパソコンじゃなかったですけれども、

1時間ぐらいは何かやりながら書いたりしてました。

大学受験の時期になって更新は減りまして、生存報告的な意味合いが強くなります。

大学に入ってから更新を再開し、サービスの改悪を機に移転。

相変わらず近況報告がメインだったが、程なくしてツイッターが登場。

しばらく静観していたが、アカウントを登録してからはツイッターにあらゆるネタを吸われ、

ブログでの近況報告の必要性が極めて薄くなり、ツキイチ更新にまで頻度が減退。

近況でもなく、ツイッターに書けないことはなんぞや、

というと昨今書き連ねているような、なんちゃって学問だったんですね。

以前からたまには書いてたんですが、泥水を漉すようになんちゃって学問が残りました。

”なう”の必要性はなく、むしろ時間と共に流されるべき内容では無い上に、

字数制限や改行の規制された枠で収めることのできないものですから。


一度習慣づいたブログの更新が途絶えるというのは

個人的にちょっと許せないものですから、

書くネタが無くともツキイチ程度には継続して書いていこうという姿勢が

今まで続いてきたというところです。


無理して書いていると言えば確かにそうなのですが、

実際無理してでも書かなければならない時ってありますから、

スキルを鍛えるという観点からはまあ、良いんじゃないですかね。


内容はあくまでその時そのタイミングで思いついたことを書くわけですが、

ただ思い悩んでいるときと、それを一旦文字にまとめた後では

その案件に対する考え方が変わったりするんです。

人は相談することで、あるいは一方的に話すだけでも心理的に楽になると言われますが、

このブログは自分にとってのそれにかなり近いところにあるのだろうと思います。

一方で全く別の言い方をすれば、暗算するより紙で計算した方が論点を整理できる

というのもまた確かなことだと思います。


また、ブログの存在にかかわらず四六時中何かに気づこうと考えを巡らせている自分ですが、

記事を書くために概念を言語化しようとしているとき、全く別の理論がひらめくこともあります。


この間の記事ですが、女性のスカートをどうやって突破するかという話。

あれを考えてる最中にとても重要な考えを思いついたんです。

限られた文字数の中で意思を疎通させる、という件について深く探っていたときでした。

ある程度の前提の共有が必要だとか、数理的読解能力の依存度だとかを検証してたんですが、

考えていくうちに、この件は文章の長さに関わらない可能性が見えてきたんですね。

いくら文章を長くしたって意思の疎通にはある程度の限界があり、

その限界の決定には相性問題が発生するだろうという事なんですね。

いわゆる話が合うとか合わないとか、そういうところと密接に関連しますけれども、

つまり相容れない世界の住人同士では会話が成立しないという基本的な問題です。


異世界人との会話や、古代人の使っていた言語を読み解くのに最も重要な能力の一つが

暗号を解読する力だろうと思うわけですけれども、

世界観を共有していない人たちの会話ではこれに近い能力が必要となると思います。

どこかで解説しておいた方が良いかもしれませんけど、

会話を成立させるには、言葉を選ぶ という何気なくとも

意思疎通における最重要事項に対しての意識がある程度近い必要があると考えます。

突然ですけど、自分は言霊を信じるクチなんですね。

その立場から言うならば、同じ言葉に対して話して聞き手にとって違う言霊が宿っているとき、

もちろん両者の間で意思は通りませんよね。

ただ、これは一つの立場からの考え方です。

聞き手がどうかという運任せの視点でした。


もう一つ、話し手がどうする、という立場からの考え方があります。

聞き手が理解できるような言葉を、話し手が意思を持って選択するということですね。

その中でも特に、大きく分けて二つの場合を考えます。

聞き手の考えをある程度以上理解しているとき、

一方聞き手の解釈が全く見積もれないときの二つです。


そもそも聞き手が話し手の世界観を理解しきれていない場合の多くは

両者の馴染みが深くない場合に多く起こると考えられます。

同様に、話し手が聞き手に譲歩できないときも、その多くは相互理解が浅い事が多いでしょう。

ただし、聞き手のことをある程度理解していても、聞き手に伝わるように話すことができない、

という場合も往々にしてあり、日常生活において珍しいことではないでしょう。

IQが20違えば会話がかみ合わないとか言われますけど、

他にもたとえば、相手の出自を事前に知っていたとしても、

いざ1対1で面と向かって自分の印象を悪くしないように、

そして自分の今後の人生に関わる可能性がある相手と当たり障りのない話をするとなると、

まあお見合いのシチュエーションですけども、なかなか気が合う相手でないと

話が進まなかったりするんだと思います。


聞き手と完全な初対面な状態で会話を始めるとき、お互い探り合いから始まります。

当たり障りのない会話から相手の興味を察して、

程度の違いはあれ盛り上がる方向へと乗せていきます。

この行為自体が相手への理解を深めることであり、世界観を知ることになります。

事務連絡だけなら戦略的な場合を除いてその必要は無いですが、

雑談では、楽しく過ごそうと思うならば共有する世界観の確認が避けられないでしょう。

その中で話し手は相手の解読できる暗号を組み立てて自分の意図になるべく近い形で

相手に伝えるという作業が不可欠になります。

あまり考える必要も無いことですが、打ち解けるというのは相手とのやりとりの仕方に気づく

ということで、その会話の進め方が他の人との間でも上手くいくというわけではありません。

まあ、お互いコツを掴むまでギクシャクするわけですが。


と、いうわけで自分自身の考えを一旦整理して違う視点から理論を見つめ直したり、

記事として纏める作業自体で別のことを予期せず思いついたりするんですよ。

そういう意味でも考えを発展させる上で重要な役割を担っていたようにも思います。

ただ、大学に入ってからのブログって実は記事の質が結構変わってるんですよ。

前述したツイッターの影響もあるんですが、一番の原因は一人暮らしを始めたことと、

広義での友達がいなくなったことですね。

自分の考えに対して誰か他人の意見を聞いたり、あるいは他人の考えを取り入れたり

検討したりという事が無くなりましたから、ある意味では自分の考えに集中できるということ

ではあるんですが、外乱から切り離されると検討課題の絶対数が減りますから

なんとも煮詰まるとでもいいますか、考察材料が枯渇気味な状態になりました。

それでもなんとかネタを引っ張ってきて煮ていくわけですが、

ぶっちゃけ他人との間で見つけたネタの方がたぶん読んでる方もまだ面白いと思うんですね。


そこでまたいろいろ考えるんですけれども、なにも公開する必要ないんじゃないかと

そういうところにたどり着くわけですね。

個人がネット上に発言の場を持ちはじめる時期、ブログなどの定式化したサービスが始まる前の

ものだったと思いますが、ある漫画の一節を最近見かけたんです。

世界へ向けて誰でもが好きなことを喋れる時代になれば、みんなが自分の喋りたいことを

話し始めて誰も聞く人がいなくなってしまう、という内容でした。

確かにその通りで、ネット上には自分にとって有利なものは殆ど無く、

重複した情報が溢れ、無駄で無益な交流の場に成りはてた部分もあると思います。

実際自分自身でもここ最近はなるべく情報から遠い位置で生活しようと心がけていまして、

できるだけパソコンの電源を落とすように、あるいはツイッターのクライアントを起動させない

時間を多く持つようにしています。

一番の理由は心労からの解放なんですが、

やってみてわかるのは事実ほとんど不自由しないって事なんですね。

まあウェブ上に特定の知人を積極的に作らないよう努めたからできることでもあるんですが、

ウェブ上のトレンドって自分が生活していく上で知らなくても何の被害もなく、知っててもほとんど

利益も無いですから、思い切って自分からラインを切るのもなかなか良いと思います。

「ウェブ」というのは元々「蜘蛛の巣」のように八方に広がる様子からworld wide web、

WWWという言葉が生まれていますが、どうも今の世の中ではその蜘蛛の巣に捕らえられて

抜け出せていない状況が蔓延しているように思います。

多くの人がそれに気づいていないというか、そもそも居心地が良いと感じてる人は

いくら身動きがとれなくても問題ないんでしょうけど。


さて、ブログで記事を書くというのは立場的に情報を発信する側なわけですけれども、

ご多分に洩れず当ブログもあまり価値のあるものではないんですね。

喜んで読んでる人がどれくらいいるのか測りようがないのでどうしようもないんですが、

実はまた別の観点から電子メディアから脱却しようかと考えているんですね。


スマートフォンやタブレット端末の普及が著しいですが、いかにタッチパネルで直感的な

入力・記録ができるようになったとはいえ、

限られた情報量の整理において紙に勝ることはないと思います。

画面がどんなに広くなっても画面より外に情報を並べることはできないですし、

色を変えるにしてもペンを持ち替えるほど直感的な動作はできません。

インデントの調整や余白の入れ方、枠のスタイルなどなど、伊達に10年以上

勉学に従事してきたわけではありませんから、強調と分離のバリエーションには

割と自信があります(少なくとも自分にわかりやすいようには)。

まあ種類だけなら腐るほどあるので基本的に色を分けることをしないようにしてるんですが、

そもそもインデントの自由度を考えただけで情報の整頓の効率が大幅に上がります。

加えて書体の強弱、行間の調整でだいたいの事は良い状態で記録を残せると考えますが、

ほぼ紙スペシャルの技術なので電子媒体にはあまり効果がありません。

というか、跡を残さず追記修正をできるというのが電子媒体の最大のメリットだと思うのですが、

それをやっちゃうとスタイルが崩れて思うような状態で保てないのでちょっとイライラするんですね。


まあ、何が言いたいかというと情報の内容によって場所を選ぼうというところなんです。

この文脈からするとつまり閉鎖になってしまいはするんですが、

このブログはいわゆるふつーの日記的な記事で主に存続させようと思います。

ただ、それこそ存在意義が不明瞭になるのでかなり存亡の危機ではあるんですが。

良い印象を持たれようとは思ってないですが、たまに度が過ぎた意見を書いてたりするので

エセ哲学もそろそろ潮時かなとも思っています。

それに誰も反応しないと言えど、あくまでパブリックな場なので言葉を選ぶ必要があります。

わかるように書くのと語弊を避けるために時間のロスが酷いんですけどね・・・。



今の時代でネットの影響を完全に絶つなんてことは既にできない社会になってしまいましたが、

なるたけ脱俗するようにこの先しばらくは生きようかな、なんて思うわけです・・・。

2012年5月21日月曜日

日蝕

普段あまり使わない字ですけど、

食べるよりも蝕むと書いた方が確かに言い得て妙、という感じがします。


メディアが煽りに煽ったおかげで、普段空なんて見ないみいちゃんはあちゃん達も、

今朝はグラス片手に、もとい日蝕グラス片手に太陽の観測をしてたみたいです。


日蝕の度に思うのはですね。なんかみんな太陽ばっかりに気が向いてて、

意外と、というか太陽と並列して重要であるべき月が

全く脚光を浴びていないのというのは腑に落ちないんですね。

まあ実際見えるのは太陽の光だけなんですけどね。


さて、戯れ言もほどほどに写真を貼っていきますよ。

キャプションは【時刻、シャッタースピード、35mm換算焦点距離】です。

絞りはほとんど8で固定だったはずです。ISO感度は80で固定。


一枚目の撮影 7:05 1/1300 787

倍率を変えながら・・・ 7:06 1/1300 201

雲が薄かったのでなんとか 7:10 1/1300 286

フィルタ4枚重ねは厳しい・・・ 7:16 1/1300 764

雲が切れた 7:16 1/1300 113

辺りはまだ明るい 7:20 1/1300 29

進んできたのがわかる 7:24 1/1300 286

もうすぐ月が収まる 7:27 1/1300 764

細くなってきた 7:30 1/320 414

もうちょっと 7:32 1/1300 949

乗った 7:32 1/1300 949

雲で光が膨張したか? 7:33 1/1300 949

露出長めでも撮れば良かったと後悔 7:33 1/1300 38


ほぼ真ん中 相変わらず反射がひどい・・・ 7:33 1/1300 949

まるっ 7:33 1/1300 457
雲が輝く 7:36 1/1300 949
月が出ていきそう 7:36 1/1300 949

雲が流れてきた・・・ 7:36 1/250 949
アッカリーン 7:37 1/40 392

切れた 7:37 1/125 949

さようなら 7:37 1/160 486

観測終了 7:37 1/500 486


当然ですけど全部マニュアル撮影です。

ズーム優先で撮影画質は予め3Mぐらいに落としてあります。

色に関してはフィルタ4枚重ねでND256相当を稼いでるので勘弁してください。

まあまあ、撮影に関しては概ね満足なわけですけれども、

高倍率時の手ぶれなのかピンぼけなのか雲なのかよくわからないにじみ方をしてるのが何枚か。

三脚を使わずに全部手持ちで撮影したので、あんまり本気出してるとは言えませんが。

あんまりメディアの特集は見てなかったんですが、

デジカメに日蝕グラスを被せて撮る人結構いたんですかね?

そんなこと思いつきもしなかったので、さっさとNDフィルターのまとめ買いしちゃいましたけど。


興を冷ますようで悪いですけど、実際金環日蝕って見てもあんまり感動しないんですよね。

ただ珍しいものを見たってだけで、特に金環だと完全には暗くなりませんから、

あまり感動の絶頂が無いというか、どこで盛り上がれば良いのかタイミングもとりづらいですし。

対照的な月蝕もいいんですけど、実際空を見てて個人的に興奮するのは

空が夕日に染まる頃、月と宵の明星が見えたときなんですね。

金星と太陽で三角の位置関係を想像しただけでスケールがでかいんですけど、

その時に月が出ていれば、その満ち欠けから地球と太陽との位置関係が想像できますよね。

4つの星が気の遠くなるような距離を保ちながら普遍的に動いてると思うと興奮するんですよ。

他の天体でも構わないんですけど、独特の位置に姿を見せる金星が想像しやすくて良いですね。



さて、次はその金星が太陽を横切るらしいですけど、

今の撮影環境でこれを記録するのはたぶん相当厳しいですね。

満足のいく撮影をするには黒点が記録できるクラスの準備が望まれるところです。

金環日食より珍しい!って既に記事が出てますが、

これこそ正に見てどうするんだってイベントなんですよね・・・。

普段から天文学とは遠いところに住んでる人間としてはあまり熱心にはなれないものです・・・。

2012年5月16日水曜日

手段を模索する話 ~あなたの目の前に女性がいます~ 【だいたい完全版】


タイトルはですね、後で自分が投稿を振り返るときに

何の記事だかわからないことが度々あったのでね、最近なるべく内容を示すようにやってます。


さて、久しぶりに頻繁な更新ですけども、きっとストレスが溜まってるんでしょうね。

ついでにブログのレイアウトを若干変更してます。

主に記事幅の修正なんですけど、他も少しずついじったりいじらなかったり。

あんまり読者視点で記事を読み返さないものなので、使いにくかったら御免なさいね。と。




本題に参りましょう。

ここでは場合分けの話をします。

勢いで書く題材だったのに、変な前置きをしたせいですごく後悔してるんですが、

割とまじめに考えるの記事のつもりなのでそのままいきますね。


目の前の女性のスカートの中を見る必要がある。

そのとき何をするか。


見たいとか見たくないとか、倫理がどうとかそういう議論もできますが、

あくまで今回は手段についてを重視します。

早い話、変わった会社の就職試験みたいな形式だと考えればいいですね。

ただ、今回は考える時間が十分ありますし、選抜試験でもないのでゆっくり考えてください。



これから自分の考えた手段について書いていきますが、もちろん模範解答はないですし、

この件に関して優秀な解答というのは無いものとしましょう。



途中でしたけど、一通り書き上げました。

2週間ぐらいかけて書いたので一貫しないかもしれませんが。



強制はしませんけど、自分なりに考えを持ってから開いた方が良いかもしれません。



2012年5月2日水曜日

まじめそうな顔してるのにねー

って高校の時、物理の先生に言われたのが強く印象に残っています。

宿題をいつまでも出さなかったある日の事でした。



こうこう、と打ち込んで硬鋼が筆頭候補になる理系あるあるネタはそろそろ封印しようと思います。




その先生はどちらかというと、自分と同じ側の人間だったように思います。

時たま口癖のようにこう言っていました。

“先生はなぁ、人間はresistantだと思ぅとるんよ”

電気回路におけるR記号の説明の時だったかと思います。

正直、物理学とは何の関係もないわけなんですが。

自分にとってこの意見は完全に同意することはできないものの、

大筋では同じ考えを持っていました。


人は何かに逆らおうとして生きていく。

付け加えて、確かそんな事を言っていたと思います。

勉強しろと言われれば、いやだとそれを突っぱねる。それが人として自然な生き方だ。

みたいなそんな言い方だったと思います。

おそらく、性善説性悪説みたいなレベルでの話でしょう。

それを聞いた当時から自分の持つ意見とは違うと思っていましたが、

間違った考えだとは今でも思いません。

大抵そういう定理のようなものを自分で抱いている人は、

それを裏付ける何かを持ち合わせているものでしょう。

一旦円環のように考えを構成すると自己の中で矛盾を持たないものですから、

その世界観を知ろうともせず闇雲に否定しても、何の進展もありませんしね。


対して自分の意見はこうでした。

大雑把に、そして右か左かと言うほど乱暴に考えるならば氏と同じでしょう。

流れに逆らおうとする人がいる。

似たようなことを言っているというのはわかるでしょうが、

人によって何が違うと感じるかは様々かもしれません。

さて、普通の人が聞けばそりゃそうだと思うわけですが、

この件については以前の記事で書きました。

言葉に直せば当然の事なんだけど、本人の中では妙な合理性がある、という話。

最近過去の記事にバックホームしてばっかで申し訳ないですけど、

それっくらい読者のこと無視して話を進めてるのでごめんなさいね。

探すのが面倒でリンクも張らない引用もしないクラスのクズですが。はい。

それで、この一文の持つ意味は何かと一応解説しておきます。

例えばトレンドなんかが流れに例えられますが、

多くの人が身を任せる風潮や常識に対して猜疑心を抱いたり、

あるいは誰も持たなかった視点で本質に切り込んだりと、

そういう人がいる。ただそれだけを述べています。

この一文では流れの大小、あるいは人の割合、立場について一切触れていません。

万人に通じるように言葉で縛っているわけではないというのが一つの特徴でしょう。

ニュアンスの中で均衡を保っている、本当に誰に話しても意味を成さない文句です。

しかし、実はこういった曖昧な言葉が、ただ本人にのみ呪文のような効果を発揮するのです。



意識せずとも関わっている人が多いんじゃないかと勝手に思ってますけれども。

自己暗示です。

そろそろ言わなくてもわかってくれると信じてますけど、ここで言う

“ 流れに逆らおうとする人 ”っていうのはつまり自分のことなんです。

知らぬうちに自分の存在を認めるための教訓のように扱っているのです。

時として大きな流れの中に自分がいることを見つけたとしても、

流されることが決して良いわけではないというのを自分自身に聞かせるため。

少なくともある一時におけるかつての自分がそう確信を持った事を伝えるため。

予め土地に杙を深く打ち込んでおき、周りでどんな水流が起ころうとも

自分を見失わないための係船柱のような役割を果たします。

いざというときには誰かに後押しされているかのような自信を生み出す、

実は結構頼りになる思想なんですが、思えばそれ自体自分で作り出したものですから、

自分の背中を自分で押す、一種の永久機関のようなものと言えるかもしれません。


ちなみに、この“流れ”に関する考えはあるゲームがきっかけでした。

そのゲームは今でもたまにやりたくなりますけど、

ある背骨のしっかりとした信念を貫く二人の主人公が、

様々な葛藤と戦いながら物語を進めていくゲームでした。

もしかするとその頃からかもしれませんが、

物事に対する視点の置き方の重要性をしっかりと意識するようになりました。


この深い話はまた次の機会にしたいと思いますが、

自分の中には、自分の棲む水槽を外から俯瞰する大胆な視点があります。

この辺は未だに不確定な部分があるので

一つの論を確立するには時間がかかるかもしれませんが、

そのうち紹介できればと思います。

2012年4月26日木曜日

水草の話

ツキイチ投稿が板についてるのは、もうなんか、どうしようもない気がして仕方ないんですが・・・。

最近ウルトラブック買ったりね、メカニカルキーボード買ったりマウス買ったり、

いろいろ贅沢してるんですよ。


自分で稼いだ金でものを買うのってやっぱ良いんですよね。

汗を流して稼いだお金って、まあ振り込みなんで多少薄まりますけど、

親のすねをかじってる身分にとってはちょっと別物な気がしますね。

タイミング的には、春休みのバイトが終わって、使う暇無く稼いでたわけですから

その分貯まってるわけですけど、去年よりも実は残高多いんですよ。

去年は春休み中に事故って自転車壊したので、新車の調達にほとんど使ってしまって

夏頃には空っぽだったんですけど、その後補償金が振り込まれて

合計すると結構な額になっちゃったんです。


正直、あんまり贅沢が得意な人ではないものですから、

多めに使うっていうのがなかなかうまくいくものではないんですね。

昔から手元にあるもので何とか上手くやっていくスキルを身につけてきたものですのでね。


たとえば今回買ったウルトラブック。

ノートパソコンは既に一台持っているんですが、

これは大学に入学するときに買い換えを前提にして最低級モデルを買ったんです。

デメリットを承知の上で最低限の機能が付き、その中でコストの低いもの、という選び方でした。

当時は、ノートパソコンの技術も日進月歩で、今中高グレードを選んでも、

そう長くない月日のうちに最新の廉価モデルと肩を並べる性能になるだろう。そう考えました。

その上で、デメリットと向き合い、タイミングを見計らって買い替える計算でした。

購入したとき、入学祝いみたいなもんでしたから

親が全額負担してくれるという話だったのですが、どうにも高い機種を選ぶこともできず。

うまく言葉がみつかりませんけど、自分の利益を優先して他の損失を大きくするのって

どうしても生理的にすんなりこないもんですから、この時も例外ではなかったようです。


我慢するという意識よりも、くせ者を最大限に使いこなすって面が魅力的だったんでしょうね。

都合の良いように自己陶酔できるときはwin-winなわけですから。

で、まあこの度ウルトラブックの規格が出てきまして、わー薄ーい軽ーい。

な訳でacerのお触り会で新宿に行ったりもしました。

裏切られましたけど。なんか知らんけどLet's noteに感銘を受けて帰りましたけど。

その後しばらくして春休みが明け、初期不良の再生品が中古扱いで出回ってたので手を伸ばし、

ここが買い物の下手なところなんですけど、その勢いでデスクトップ用のキーボードを買い、

ノート用のマウスを新調し、といった感じですね。

ただ、いずれも購入検討自体は数ヶ月前から始まってたものですから、

タイミングとしては問題なかったんですけどね。


というあたりが主な近況でしょうか。

たぶん書くことはそれなりにあるんでしょうけど、重ねて言いますがツイッター参照ということで。




では、本題の水草論に参りますか。

いつも通りに、ものの考え方に関する持論を一方的に投げつけるコーナーです。

以前書きました、ふわっとした理論。

ふわっ

モヤッと理論だった気もしますけど・・・、言明できない根拠に基づくものの、

どこか自信のあるモワッとした考えの事でした。

それと一部共通する議題です。

これまた勝手にそう名付けているだけなんですが、この件を「水草」と呼んでいます。


順を追って説明しましょう。

たとえば、「あどけない」という言葉の意味に自信がなくなったとします。

少年、少女などの子供によく使われる言葉ですが、なんとなく使い方を知っていても、

その根拠に自信がなくなることもあるでしょう。

特にこういった漢字を使わない和語は、成り立ちや由来も想像しづらいのです。

外国語の堪能な方はイノセントだとか、パッと出てきて確信を持てるでしょうが、

今日はどうにも関連語も出てこない状況を想定します。

この構図を水草のようなものに例えました。


水中でフワフワ揺れている水草があったとしましょう。

この水草、しっかりと根を張っていれば掴んでも引っ張っても安心できます。

できることにしてください。

しかし、またある水草は引っ張ってみると根っこが無く、

本来あるべき場所がわからなくなっています。

この水草を座標の基準とすることはできません。


これが「あどけない」です。

だいたいこの辺、というのはわかるし、見たこともある。

でも、正しい使い方だという根拠が見当たらないのです。

この水草論にはまだ先がありまして。

根が付いていなくとも、近くの草と絡まっていれば根の代わりにその場所で留まれます。

つまり、「あどけない」の類語として「無邪気な」とか「無垢な」を知っていれば、

「あどけない」の使用に関して十分な自身をもてるのです。


もう少し水草の特徴を。

「つぶらな」という言葉があります。

自分自身、この言葉の本当の意味も由来も知りませんが、その語感から、

「粒」という音のラベルが付いています。

「つぶらな瞳」と言えばまん丸の、大きくてかわいらしい目のことを指す、そう覚えていますが、

粒、つまり球体のイメージが染みついているため、

まず「丸い」とか、「大きい」といったヒントが芋づるの様に手に入ります。

このくらいの断片が集まれば、経験的な自信がつき、

根っこどころか関係の無いものと結びついているだけでも座標が明確になるのです。

ちなみに、漢字では「円らな」と書くので、正攻法ならば漢字で覚えるべきでしょうが、

今回紹介した繋ぎ方は言ってみれば語呂合わせな様なもので、

繋がりそれ自体は本人以外にとって何の意味も成さないものであります。


ここ最近は、なぜかこの根のしっかりしない言葉がいくつかあり、

その度に忘れないようにと調べるようにしています。

例えば「靴ずれ」。

靴のラストが自分に合わなかったみたいで痛いわ・・・。というのではない方です。

ちょっとそっちの業界でアルバイトをしていたこともあり、言葉自体は何度か聞きましたが、

実際にそれが何なのかは知りません。

あらゆる知識を元に引っかかりそうな近所の水草を探すわけですが、

なかなかしっくりくるものもなく、居場所のない草だけが残ります。

今時ググれば3秒で出てきますが、

この水草理論を確立してからは必ずどこかに植え付けるようにしています。


今回は言葉に限った話をしていますが、このことは数理的な考えにも結びつきます。

わかりやすい例で言うと、ある定理を覚えたとしても、

使い道をよくわかっていなければあまり役に立ちません。

大学で数学の勉強をしていると、ふと高校で学んだ無駄だった公式と結びつくこともある話です。

まあ、自分はその定理とか公式とかもろくすっぽ覚えてないもんですから関係ないんですけど・・・。

以前の記事で誰かが道ばたで吐瀉した残骸が、って話を書いたときに触れたと思いますが、

今後使い道があるかもしれないストックとして溜めておき、いつかどこかで何かと結びつける、

その結びつけるという工程がこの水草を絡ませる、という考えそのものとほぼ同じなんですね。


書いてる自分自身で辛うじて筋を通してる程度なんで、

軽い気持ちで読んでる人には何のことかわからないかもです・・・。

そもそも言葉に直せるものでは無いので、ストレートに伝えられないのは勘弁してください。



さて、よくわからないうちに更に次の話に進めます。

「浮島」です。

あ、水草の続きですので一応そのつもりでお願いします。

水草の先の方が絡まり絡まりすると、そのうちしっかりとした組織ができてくると考えてください。

正直このへんは理屈じゃないので。文句なら俺の発想力に言ってください。

ひょっこりひょうたん島みたいな、海底に根付いていない、泳動する島のことを指します。

マクロ的には北極みたいな感じです。

いくつかの根の生えた水草に大量の水草が水面近くで絡まり、

島のような、一見しっかりと地盤ができているような塊があったとしましょう。

その浮島からひょろっと顔を出した水草はしっかりしてるように見えますね。

しかし、元を辿り辿りしていくうちに、どうしても海底にたどり着けないことがわかります。

その島全体の信頼性が無くなります。失墜して地に落ちれば・・・ってそういうわけにもいきません。

例えば、先程使った「マクロ」。

マクロ、ミクロ、巨視的、微視的、と重要な視点の取り方を学ぶ際にやたら使いますね。

でも実際、この単語同士がスクラムを組んでるだけで、

どれ一つとして「根っこ」がしっかりしていなければ、

ただ水面を漂う浮島であるということになります。


この例では小規模ですが、ひょんな事から特大の浮島を発見することがあります。

もし失敗できない場でこれに気づき、自信を喪失してしまうと

正気を保つので精一杯になりますから、

日頃から疑いがあれば根っこを確認し、変な絡みが無いか点検するのです。

この理論自体はほんの最近形作られたものなので、

これからまだどこかで別の理論と融合したりしなかったり、という事になるのでしょう。

いずれフヤッとしたものが無くなるようになればいいんですが、

それはそれでどこか楽しみを一つ失ってしまうような気もしますね・・・。




このブログの投稿画面、やたらと表示できる文字量が少ないので、

文章全体を見ると結果的少なめになるんですが、本当はもっと詳細に書きたいんですよね。

それと、見栄えのために結構頻繁な改行をしてるので一文あたりを短めに、とか

きりの良いように構成してるためになかなかうーん、なところがありますね。

森を書こうとしてたのに、いざ森に入ると木のことばっかり書いてる、というのもあるでしょうが。


文庫サイズの文字で縦書きにすればなかなか良い感じのボリュームになるかもしれませんけど、

こういう類のネタは自分自身があんまり画面と睨めっこしてよみたいとは思わないものですから、

少なくとも、自分の読みやすいと思うこのスタイルで続けるのかな。

それと、このブログに関してよくわからない人からとんちんかんな指摘を受けたんですけど、

あんまり読者のためのブログって位置づけではないので、ちょっとどうしようもないですかね。

2012年3月31日土曜日

月が変わりそうなので更新しようかしら、と  クレカの話

クレジットカードの話をしようか。

長年ブログを読んでる人ならわかると思いますけどね、わたくし学生なのですよ。

大学に入ってとりあえずクレジットカードを持った方が良いということで、

とりあえず航空系の学生専用カードを作りましてね。

右も左もわからない時分に勧められて作ったものですから、

使い方もいまいち解ってなかったわけですけどもね。

とりあえず公共料金とか通販とかから使い始めるわけですね。

そのうち、海外から個人輸入をしようと思い始めるわけですのよ。

それが入学して6月ぐらいだったかな。

でも初めて作ったクレジットカードはJCBでしてね、買おうとしてるサイトでは使えなかったんですね。

それで、とりあえずVISAかMasterCardのカードを作ろうと思い立ったのです。

しかし、当時は未成年でしたから親権者の承諾が必要なんですね。

濫りに発行申請できないものですから、

慎重にカードを選んで親に説明、申し込みという事になるんですね。

当時あまりお金の使い方自体さっぱりでしたし、とりあえず安そうなのを選んだんですね。

当然年会費は無料。

探し出したカードはその上に利用額の1%を割り引いて引き落とすという、

なんとも魅力的なカードだったんですよね。

するとまぁ、あっさり審査は通り、本人特定郵便に関して多少トラブルはあったものの、

すぐに使えるようになりました。

あれは忘れもしません。最初に使ったのはスポーツドリンクのまとめ買いでした。

とりあえずweb明細を見て、どんな感じで値引きがされるのか見守ってたんですね。

実はそのカード、リボ専用だったんですが、リボ払いっていうのは普通、

当月に全額払う手続きを踏めば繰り越しに必要な利息がかからないんですね。

それを知った上で発行してましたから、

もちろんその3000円少々のスポーツドリンク代金も当月で払うように設定しました。

しかし、思いもよらない落とし穴があったんですね。

流石情弱御用達リボルビング払い専用カードと言わざるを得ない。

支払い初月に全額払おうとも一ヶ月分の利息をつけるというのです。

以前このブログで書いたような気がしますけど、

一月分の利息と1%割引ってほぼ相殺されるんですね。

クレカ界の常識として、ポイントでいかに儲けるかってのがありますけど、

このカードだと、ネットで使える以外はほぼ現金払いに勝る点がないですから、

すぐさま使用を中止しました。

しかしながらやはり海外通販をしたいものですから、

もう一枚カードを作らなくてはいけないわけですよ。

次に目をつけたのは某インターネットショッピングモールのカードですね。

円相当のポイントが1%付与されますし、何より当時時分はゴールド会員でしたから、

特典ポイントが数千円分与えられる状況だった訳なのです。

ここではVISAを申し込みます。あ、ちなみに前回はMasterでした。

これもまたとりあえず審査が通りまして発行へと至ります。

これまでの二枚は利用限度額がそれぞれ10万でしたが、

今回はなんと20万円として与えられました。

この当時はそんな限度額まで使わないだろうと思ってましたね。ええ、このときは。

そしてこれでいったんカード関係は落ち着くんですね。

メインのらくt・・某銀色のネットショッピングモールのカードをメインに、

青色の航空系カードをサブとして、

黒いリボ専用カードを留守番カードとして長い間定着することになります。

しかし、まあつい最近ですね。

届いた消印が今月頭なので、先月末に申し込んだんだったと思いますけど、

2月末ぐらいにまた新たにクレジットカードを発行しようと思い立ったんですね。

今回の発行に至った経緯は何かというと、非接触ICカードの所有欲でしたね。

長らくsuicaをチャージしたり使ったりを繰り返してたんですが、

大学生協で昼食の支払いに使うものの、生活圏から駅が非常に遠いため、

残高が尽きたときにひもじい思いをしながら小銭で支払って・・・

というのを繰り返していたんです。

まあ、大学生協ではsuicaしか使えないのではあるのですが、

どうもポストペイ型の非接触ICカードに憧れがあったんですね。

かつて多量に仕入れたクオカードもそろそろ残りが少ないものですから、

コンビニでの支払いでも現金より便利だろうなーなんて思いつつ。

view suicaでオートチャージ、なんてのもありますが、あれは改札でチャージするものですから、

ショッピング利用がメインな時分にとってはあまり効果の無い機能なんですね。

1月ぐらいにはとりあえずLifeカードの資料を取り寄せてみたんですけど、

なんかいまいち魅力的じゃないので少し見送ったんですね。

しかし、春休みに入ってからいろいろクレカのブランドを見て回ってたんですが、

そこで見つけたのがiDとQUICPayが一枚に収まったクレカだったんですね。

まあ現時点でその一種類しかないみたいですけどね。

それを見つけてからは迷うことなくそのカードを手にしようと思いましたね。

小銭を探すメリットがなくなるし、銀行でお金を下ろす回数を減らすことができますからね。

まあ、非接触でいけるところはクレカおkのところが多いですけど、

非接触だと店員にカードを渡す手間もないですし、

クレカだとサインレスでないと結局手間がかかりますからね。

ポイントもまぁ並に貯まるみたいなので、

使えるほど貯まるかどうかは別として、結局はその利便性を買って、というところですね。

そこで少し不安だったのが、審査が通るかどうかでした。

既に3枚、40万円分の枠を獲得してるわけですからまあ普通に考えて落とされても文句は言えません。

何より学生であり、安定収入が無い立場な訳ですからね。

ところで、学生という身分は総じてクレジットの審査が緩いそうな。

クレカ会社としては支払いで“貸した”分をしっかり払ってもらわないといけないわけですから、

支払い能力の如何を判断して、つまり審査して発行するわけですね。

ただ、学生っていうのは将来的に優良顧客になり得たり、また支払い能力に関しては、

大学に通わせるだけの資金力を持ったパトロンがいるから問題にならないとか・・・

保護者の信用情報を参考にしたりするみたいですけど。

ただ、支払いに関しては滞納したことがないですし、

かつて交通事故を起こした際に、自転車を買い換えるため高額な買い物をしたわけですが、

19万を超える支払いも滞りなく納めたので、総限度額と収入以外で問題は無いはずです。

そんなこんな、思い巡らせても仕方の無いことを憂いながら申し込んだのですが、

結局このカードも問題なく発行されました。

どうせ国内でしか使いませんし、今回はJCBです。

発行されたカードについていろいろと確認していると、

なんとこのカードの限度額は30万円に設定されているとわかったのです。

正直な話、コンビニとかファミレスでの買い物程度にしか使わない予定なので、

そんなにいらないんですけどね・・・。

目的の非接触ですが、ポストペイ型はドコモのiDなんかを考えてもわかりますけど、

おそらくモバイル向けをメインに開発してるんだろうと思うわけですね。

そこで一抹の不安がよぎります。

これほんとにカード一体型なの?ってね。

世の中のカードには、登録することで携帯電話の非接触機能をクレカと

連携させることのできるものもあるわけですが、もしかすると・・・と思ってしまうわけですね。

初めての決済を対人で、というのはもし失敗すればすごく恥ずかしいわけですよ。

そこで思いついたのが自動販売機。

非接触対応の機種で試してみて、これならもし失敗しても何も恥じることはない。

そう考えたわけです。

早速、手元に届いた翌日のバイト帰り、駅前の自動販売機で使ってみたんです。

まぁ、あっさりコカコーラが出てきたんですけどね・・・。

やはり思った通り、この非接触決済というのはなかなか便利なもので、

財布の現金を数えたり、おつりの受け渡しだとかの手間が省けるし、

サインするほど高額な買い物でなくとも気軽に利用できていいですね。

という事で大満足なクレカ生活だったのですが、実はこれでは終わらないのです。

今月中旬に携帯電話の端末を安い契約したんですね。

その回線でいろいろと手続きをする関係で、

オプションに申し込むと機種代が安くなるよ、というものがありまして。

たとえば有料コンテンツだったり、料金プランの変更だったりするわけなんですが。

その中でクレジットカードの申し込み、というのがあったんですね。

申し込むだけで良い、という事だったんです。

もしそれを拒否するなら1050円機種代に上乗せするよ、というものでした。

審査の際に、クレカの申し込み履歴の半年分を確認するとか聞いたことがあったものですから、

どうせこれ以上枠が増えることはないだろうと思ってその1050円のために申し込みをしたんです。

バイトをやっていたもので、年収の欄には23万とか適当に書きましたね。

どうせ審査で落ちるカードに気を遣う必要も無いですからね。

店舗側の条件としては、あくまで申し込み、というだけで発行如何は問わなかったので、

その場はそれだけで終わったんです。

さて、話は少し変わりますけどその通信会社はある端末の購入者に対してキャンペーンをやっていて、

購入した端末がたまたまそれに該当していたわけで、ネットでちょちょっと申し込んだんですよ。

で、まあ少ししてネット上で届いた報告をちらほら聞くようになりまして、

またある日、発送元が通信会社で、不在通知が入ってたんですね。

お、ついにモバイルチャージャーが届いたか、と思ってwktkしてたんですが、

いざ再配達を受け取ってみると、書留デースとか言われるんですね。

ん?と思いつつ封筒を受け取り、配達員はすぐに次の配送先へと急ぐわけですよ。

まあよく見なくても適度に分厚くて、

規約とか書いてそうな書類が入ってればちょうどそれぐらいだな、みたいな厚さなんですよ。

触ってみると紙冊子のあの感じでフカフカしてるんですけど、

一部だけどうしても硬くて困っちゃうエリアがあるんですね。ちょうどカードサイズで。

いやー、もう困っちゃうよね。

申し込みから10日ぐらいで配達されてきちゃんうんだもんね。

というわけで、現在5枚のクレジットカード、

限度額合計80万円のカードたちとともに生活をしているわけです。

確かに支払い実績の芳しい優良顧客のつもりですけど、

無収入の学生にそこまでの限度額を与えて良いものとは思いませんね。

そのうちリボ専用あたりから解約を始めようとは思いますけどね・・・。

ただ、まぁクレジットカードはそれぞれ便利なもので、

何枚か使い分けるのがベストだと思いますね。

自分の場合はそこまでポイントに躍起になっているわけではないですが、

特別にポイントの高くなる買い物方法を設定しているカードがほとんどですし、

学生は見落としがちな保証内容にも違いがありますからね。

コンビニ系のポイントカードは一切持ち歩かない主義の自分には利益性よりも、

利便性を重視して選んでますけどね。

余談ですが、コンビニとかそう頻繁には行かないので、

一月に一回20円程度のリターンがあったとしても財布を薄くする方を優先する質なので・・・。

しかも、今日に限って・・・とか、1年経って期限切れ・・・

みたいなのがあると不必要に不快感が募りますから、

普段から持ち歩かないことで積極的にポイントの束縛から解放されるよう努めています・・・。

2012年2月21日火曜日

仕事がしやすいって何なんだろうって逆に思いますけど

ここ数日、本気でTV代替ユニットの購入を検討してます。

TV本体とレコーダー(TVの外付け録画機能でも可)のセットの代替なんですけどね、

今現在考えているものとしては

PC用液晶ディスプレイ、HDDレコーダ、スピーカの3つで構成する予定です。

今回のポイントは2番組同時録画ですかね。

外付け録画機能のついたテレビってチューナが一つしかないものばかりなので、

裏番組を同時録画とかできないんですね。

レコーダーを買い足しても対応できますけど、

そうするなら録画機器を統一したほうがストレス減りますよね。

なので、必然的にレコーダ側に2チューナ必要ということになります。

レコーダということになれば、世の中当然BDレコーダー、みたいな流れができてますけど、

正直な話、ディスクメディア使わないんですよ。

DVDも借りた事無いし、これからBD扱う事もしばらく無いと思うんですね。

次の規格が出るのってまあ8年位先の話になると思いますけど、

この先10年間で「あープレイヤ買っておけば良かったー」と思う事はきっと無いでしょうからね。

んで、再生装置がある分、当然サイズが大きくなって価格も跳ね上がるので、

HDDレコーダとして売られてるものを買った方が需要にあってるかと思いますね。

ディスプレイはとりあえずHDMI入力端子があれば何でも良いんですけど、

最近コントラスト比1億:1のモニタとかあるので、

値段も高くないので、それを買ってみようかと考えてます。

今使ってるPCモニタとサイズを合わせる事で、デュアルディスプレイ時の作業効率を・・・

なんて事も少し考えてるんですが、まあいつか役に立つかな程度のものですね。

液晶ディスプレイって標準添付のスピーカが貧相じゃないですか。

だから別で買おうと考えてます。

テレビの視聴って離れて見ますよね、一般的に。

スピーカが手の届く範囲に置かれる配置って普通は無いじゃないですか。

そこで必要になってくるのがスピーカ用リモコンなんです。

レコーダ側で出力音量が調節できるなんて事はありませんからね。

アンプとスピーカを別で揃えると大変なお値段になるので、

とりあえずipod用のでもいいので、リモコン付きのトータルでセットになったものを探しています。


こんな事をひとしきり考えて昨晩購入予定品をまとめたんですけど、

結局一晩寝たらまた違う要素が気になってきたりして、なかなか決まらなかったりするんですね。

買ってから後悔するより、誰にも迷惑がかからないなら死ぬほど悩んだ方がマシだと思うのでね。

でも、まあAV関連は本当に痒いところに手が届かないジャンルだと思いますよ。

特にオーディオは店舗によって販売価格が全く違いますし、

色違いってだけで競合の末安定した価格がまた異なりますからね。

それに、音質って一定の尺度で測る事ができないものすごくめんどくさい、

でも最重要な要素なので、もう大変ですよ。

値段が高ければ性能が良いってわけではないですし、仕様表では一切読み取れず、

唯一の頼みの綱であるユーザーレビューでさえ客観的に書ける人なんて殆ど居ないですから

本当に参考にしかなりません。

結局ブランド力とマーケティング力できまっちゃうようなものですけど・・・。


そんなこんなで今のところの各最有力候補は以下のようになってますね。

アフィリエイトじゃないつもりなので踏んで貰って結構です。

Acer S230HLCbii(ドスパラ14,980円)

BUFFALO Wチューナー搭載 HDDレコーダー 1TB DVR-W1/1.0T(Amazon¥ 19,998)

東和電子 TW-D7OPT(えらぼセール価格:14,500円(税込))

合計5万ってちょっとお高い気もしますけど、費用対機能で考えれば妥当かと思います。

春休みはバイトばっかりやってるのでこのくらいなら捻出できるのですが、

一番の問題は置く場所なんですよね。

流石にラックを一つ買うか作るかしようと思ってますけど、

作るのってスキル的には問題ないものの、

環境的にいろいろ障害があるので結局買う事になるでしょうね。

さて、じゃあこのセットで買うのかという話になりますが、まーまだ買わないんですね。

5万って学生の身分ではあんまり安い買い物ではないので、

購入品目を決めてから少し時間をおきます。

今日の自分が昨日の決定事項を了承するまで検討は続きます。

将来的に、あの判断は間違いだったとは思いたくないですからね。

購入は早くても明日になります。

え?じゃあこの記事は何を書きたかったの?と思うでしょうが、

ここまでは近況報告で前座です。本編は次の段落からですね。



はい、というわけでタイトルの話題に入りましょうか。

ちょっとネットで拾ってきた記事が気になりまして、それについてひとしきり考察を。

一緒に仕事がしにくい同僚の特徴ランキング

というのがちょっと局所的に話題になってたみたいです。

内容は

1. 感情の起伏が激しい
2. 自分の失敗を認めない
3. 批判ばかりする
4. 発言がころころ変わる
5. 都合が悪いことは報告しない
6. 時間にルーズ
7. 遅刻が多い
8. 締切が守れない
9. ネガティブ思考
10. 理想論ばかり語る
11. 優柔不断
12. 話が長い
13. 自分の意見がない
14. 決断力がない
15. スケジュール管理が下手
16. 説明が下手
17. 後輩の扱いが雑
18. メールの内容がまとまっていない
19. パソコンを使いこなせない
20. 自信がない

こんな感じらしいです。

おー、俺以外といいんじゃね?って思ったりするんですが、

全部逆にしたらこうなるよね、っていうので上げられてたのが下の表です。

1. 感情の起伏が無い
2. 自分の失敗を認める
3. 批判しない
4. 発言が変わらない
5. 都合が悪いことも報告する
6. 時間に厳しい
7. 遅刻が無い
8. 締切を守る
9. ポジティブ思考
10. 現実論ばかり語る
11. 頑固
12. 話が短い
13. 自分の意見がある
14. 決断力がある
15. スケジュール管理が上手
16. 説明が上手
17. 後輩の扱いが丁寧
18. メールの内容がまとまっている
19. パソコンを使いこなせる
20. 自信がある

こっちについて一つずつ見ていきましょうか。

1. 感情の起伏が無い
はい、無いです。すいません。

2. 自分の失敗を認める
最近これの重要性に気付いて、上手い具合に認められようになってきたと思います。

3. 批判しない
批判大好きですけど、戦意を削ぐような、とか建設的でない批判は控えてますね。
批判には変わりないですけど。

4. 発言が変わらない
首尾一貫、これだけは肝に銘じてます。

5. 都合が悪いことも報告する
信頼させるために全部喋るようにしてます。
逆に、相手が指摘する点を無くしてしまえば、
それ以上立ち位置が悪くならないというメリットについて実験中。

6. 時間に厳しい
ルーズの対義として考えるなら、「ルーズじゃない」になりますが、
他人に迷惑がかかる件については時間に気をつけてるつもりです。

7. 遅刻が無い
この前バイトに5分遅れました。申し訳ないです。

8. 締切を守る
勉学の課題には相当ルーズですが、それ以外は守ります。

9. ポジティブ思考
もはやネガポジの概念とか無いんですけど・・・。

10. 現実論ばかり語る
夢を壊すような事言って大変申し訳ないです。

11. 頑固
優柔不断、の対比ですが、まあ頑固なところは頑固ですね。
優柔不断と慎重な事は紙一重ですから、今日の前座の話をどう判断するかはおまかせします。

12. 話が短い
冗長なのを避けようと思って簡潔に言ったら伝わってない事がよくあります。
自分としては理解するのに必要な要素は全部盛り込んでるつもりなんですけどね。

13. 自分の意見がある
昔は主体性なんて無かったですけど、背骨が必要だと思って、
口には出さずともなるべく意見を持つようにしてます。

14. 決断力がある
冷静に考えてどっちでも問題ない、とか後悔しないことがわかってる時は決断早いです。

15. スケジュール管理が上手
ホワイトボードを買ってからスキル上がってます。
手帳を持ち歩くのが面倒なので、それさえ何とかなればもっと上手になるでしょうけど。

16. 説明が上手
上手になろうとしてますけど、実際問題こればかりは自分で判断するのは危険ですね。

17. 後輩の扱いが丁寧
年上からぞんざいに扱われた時の悔しさを思えば自然と丁寧になりますよ。

18. メールの内容がまとまっている
ニュースでもそうですけど、はっきりしない文章が嫌いなので、結果的に簡潔になりますよ。

19. パソコンを使いこなせる
使いこなせる、って表現だとかなりレベル高くなるんですが、
世間的にはたぶん使いこなせてる扱いになると思います。

20. 自信がある
擬似的に自信があるのと同等の振る舞いができるように心掛けてますけど、
自信を持つのは慢心の原因にもなりますからね。
いつも自己への猜疑心を忘れないようにしてます。



自分の目指す方向をこういった一般的なデータと照合させることで、一種の安心感は得られますね。

完全な人間になるたけ近づこうと日夜物思いにふけっているわけですが、

概ね方向性は間違ってないんだろうと思います。


ちょっと話ずれますけどね、

アニメとかゲームとかで、ナヨっとしてるけど地味にモテる主人公いるじゃないですか。

あの人達がモテる理由って大体、やさしいとか、よく気がつく、心配りできる、とかじゃないですか。

最近気がついたんですけど、目指してる方向って結構その辺に近いんですよ。

いや別に変態設定とかラッキースケベスキルとか要らないんですけどね。

あ、それと実際いろいろ気がついても特別女の子にモテるという事もないので書き添えておきますね。

とにかく、所謂「性格だけはイケメンに」なろうとしてますけど、

ここで最大のポイントは何気なさじゃないかな、と思ってます。

縁の下の力持ちとかそういうのです。

あからさまに配慮してるところを悟られるのってなんか下心があるようで嫌なんですよ。

わざとらしい気遣いって結構違和感を与えると思うのでね。

相手に気を遣わせないようにこっちが気を遣うといいますかね。

言ってみればステルス気配りですよ。

宗教チックに言えば、見返りを要求しない隣人愛です。

如何に不要な不満を抱かせないかって、まあ普通の人にはかなり難しい問題だと思いますね。

普通に生活してる分には気にならないレベルのストレスを削っていく作業ですから、

あそこに積んである荷物をちょっとずらすだけで快適になるじゃん、

みたいな事を日常的に考えてないとこれはほぼ無理です。


アニメの主人公の像に気付いた時は、世の中のアニオタ共みんな性格イケメンになれるじゃん、

とか思ってたんですけど、よく考えたらこれ普通は真似できないんですね。

ヒロインの皆さんは

「物を置く時も音を立てないようにしてるよね!そういうところ好き!」とか言ってますけど、

そんなところ見てる人いないですから。

実際問題、可愛い女の子を射止めるのはそんなに重要じゃないんですけど、

賢い人、所謂便利な奴に嫌われないっていう方が大切だったりします。

未だに、こいつ賢い!一生連絡を取り続けたい!っていう運命の(?)人には出会えてないですが、

嫌われてたらいざというときに助けてくれないですから、

誰に対してもなるべく居心地のいい対応をするように心掛けてますね。

ま、根本的に理念が間違ってれば全部水泡に帰すわけですが。

ちなみに、表面的に付き合ってて楽しい人は世の中に溢れてるので、

そういうところは一切目指してないです。ほんとステルスなんでね。

2012年1月22日日曜日

今年もどうぞよろしく、喋る喋らせる話

無事2012年になったようですね。

去年はサビ残の嵐で、予定通りクリスマスは中止になりました。

年末の大戦は戦友に丸投げして、

年末年始は関西、北陸、南東北を経由してちょっとした旅行をしてきました。

その記事を年明け一発目で出そうと思ってたんですけど、予想以上に面倒だったのでやめました。

いや、春休みに入りでもすればたぶん書くと思うんですよ、たぶん。

個人的にも記録しておきたい行事だったので。ね。


さて、正月も遙か遠い昔のように感じる今日ですが、

一昨日はちょっと積雪してみちゃったりなんかして冬真っ盛りですね。

日本の暦なんて今では大部分が廃れてしまった文化ですが、未だに大寒という言葉は健在の様子。

ここ、さいたまの最低気温はずっと氷点下が続いています。

でも、今年の寒さはいつもと違う・・・。

その理由もきっと、きたぐに旅行記で明かされるはず!乞うご期待!

話は一旦戻りますが、一昨日昨日今日は南関東久しぶりの降水でして、

今日は午後ずっと降りっぱなしの様子。降水量もそこそこあるようです。

東京ではひと月以上乾燥注意報が出され続けていたとか。

平野で風景写真を撮る人間にとっては恵みの雨となるのでしょうかね。



さてさて、本日まで実質3ヶ月、ブログの方をお休みさせて頂きました。

今日はちょっと電車の中で色彩心理学の本を読んでたんですけどね、

やっぱりいいですよ。本は。

まあね、個人的によく読むのは自然科学と哲学の狭間を彷徨うような本なんですね。

先人達が最大限考え得る真理を垣間見ることができるような気がしましてね、

それに、原始的な思想に興味があるんですよ。

何を知っているときに何を思いつくのか、と簡単に言えばこの追求なんですけど、

何も知らない時代の人が何を考えつくのかって、これ結構興味深いですよ。

まぁまぁ、実際は俺の興味対象なんてちょっと乱雑すぎて言葉にできないんですけどね。



では本題に入りましょうかね。

今日は喋る話。

実は今日、久しぶりにバイトに行ってきたんですね。ほぼ一年ぐらいぶりに。

まぁ接客業なんですけど、お客さんと話をしなきゃいけない。

でもねー、よく考えたら俺話すの下手なんですよ。

考えなくても、っていうのは突っ込まなくていいところなんですけどね。

ちょっとそれについて今日はひとしきり考えようという事です。


昔見たテレビの番組で、大学のちょっと偉い人が言ってたんですよ。

相手に事の真意を喋らせるときはこっちは黙らなきゃいけない。

何事も事象を言葉で表すのは楽な事ではないです。

どんなに賢い人でも、真意を語ろうとしてくれるときは言葉に詰まる事が多いらしいんです。

それってつまり~~ということですか?

という助け船を出すと、

そうそう、そういうことなんだよ

、としばしば乗ってきてくれるらしいんですが、実は彼が言いたいのはそうではないのだとか。

言葉で表現できないから詰まってるのに、

こっちが言葉を提供して意志表現できるわけ無いじゃん。

ざっくり言えばそういう感じですね。

お偉い政治家さんとかから面談でお話をお伺いするらしいんですけどね。

その番組でここまでは言及してなかったですけど、

ここでは恐らく言語を通した非言語コミュニケーションってのが割と大事になるんだと思います。

言語コミュニケーションが文字によって平滑化できるものだとすれば、

それ以外、つまりは強弱抑揚、ボディランゲージを始めとして、

えーと、何て言うのかな、あのー、

~~、じゃないな、そうじゃなくてほら、うーん

のような、以前にも書いたかな、言葉の「髭」に近い存在の、

一見無意味な、無くても良さそうな文字の塊をもが意志を伝える事に一役買うと僕は考えますね。

言いにくいのはまず明確ですよね。

言いたいのか言いたくないのか、そこもじわじわ伝わるでしょう。

他にもオフレコ度合いとか、悲しみ苦しみなどの思い入れも時には表れるかもしれません。


この件に関しては数年かかって現状に至るんですが、

言葉にすると微弱ながら語弊が生じてしまう。仕方ないとはいえ誤差の発生は免れ得ない。

この考えが概ねまとまった時から、より抽象的な結論を好むようになったかもしれません。

もしかすると、ブログの記事が減ったのもその影響かもしれませんがね。


抽象的に考えるって事は、前述したように十分な言語化をせずに考える事なんですが、

そうなると必然的に自分の意見を声に出す事が難しくなるんですね。

そこで拍車をかけるのは、不必要なこだわりだったりもします。

一番厄介なのは、自分の中ではかなり興味深い話を暖めていたとしても、

その興味深さを十分相手に伝える事ができない可能性があるときですね。

その話題を振ろうと思っても、理解して貰うのに数分単位で可能な話ではないので、

瞬間芸的な効力はどうしても生み出せない。

かといって、普段から自分がどう動くのが結果的に功を奏すのかばかり考えているもので、

起承転結のある程度整った何かの体験談とかを組み立てる習慣が無いですから、

初対面の人と和むっていうのが正直難しいんですよ。

趣味が被ってたり、あるいは思慮深い人とは特に話が進むんですけど、

完全に住む世界の違う、話の二手先が読めない、

となるとどうも建設的な会話が成り立たないわけですよ。

そもそも雑談で何かを得ようとする考え自体がナンセンスかもしれませんが、

たまに、この人賢いな、と思える人と会話すると、または一方的に話を聞くだけでもいいですが、

刺激的で楽しむ事ができるんですね。

他にも一方的な啓蒙、と言うとやり過ぎですが、相手の振ってきた話題に対して

少し鋭い角度で切り込んでいって、それだとこうした方が?とか、それだとこうなるかもよ?

みたいな文字にすると相当嫌な奴に見えますけど、相手の気付いていない視点から

必要な意見を述べるというのは楽しいと感じますね。

例えるなら数学の演習問題でも解いている気分なのでしょうが。