2012年5月21日月曜日

日蝕

普段あまり使わない字ですけど、

食べるよりも蝕むと書いた方が確かに言い得て妙、という感じがします。


メディアが煽りに煽ったおかげで、普段空なんて見ないみいちゃんはあちゃん達も、

今朝はグラス片手に、もとい日蝕グラス片手に太陽の観測をしてたみたいです。


日蝕の度に思うのはですね。なんかみんな太陽ばっかりに気が向いてて、

意外と、というか太陽と並列して重要であるべき月が

全く脚光を浴びていないのというのは腑に落ちないんですね。

まあ実際見えるのは太陽の光だけなんですけどね。


さて、戯れ言もほどほどに写真を貼っていきますよ。

キャプションは【時刻、シャッタースピード、35mm換算焦点距離】です。

絞りはほとんど8で固定だったはずです。ISO感度は80で固定。


一枚目の撮影 7:05 1/1300 787

倍率を変えながら・・・ 7:06 1/1300 201

雲が薄かったのでなんとか 7:10 1/1300 286

フィルタ4枚重ねは厳しい・・・ 7:16 1/1300 764

雲が切れた 7:16 1/1300 113

辺りはまだ明るい 7:20 1/1300 29

進んできたのがわかる 7:24 1/1300 286

もうすぐ月が収まる 7:27 1/1300 764

細くなってきた 7:30 1/320 414

もうちょっと 7:32 1/1300 949

乗った 7:32 1/1300 949

雲で光が膨張したか? 7:33 1/1300 949

露出長めでも撮れば良かったと後悔 7:33 1/1300 38


ほぼ真ん中 相変わらず反射がひどい・・・ 7:33 1/1300 949

まるっ 7:33 1/1300 457
雲が輝く 7:36 1/1300 949
月が出ていきそう 7:36 1/1300 949

雲が流れてきた・・・ 7:36 1/250 949
アッカリーン 7:37 1/40 392

切れた 7:37 1/125 949

さようなら 7:37 1/160 486

観測終了 7:37 1/500 486


当然ですけど全部マニュアル撮影です。

ズーム優先で撮影画質は予め3Mぐらいに落としてあります。

色に関してはフィルタ4枚重ねでND256相当を稼いでるので勘弁してください。

まあまあ、撮影に関しては概ね満足なわけですけれども、

高倍率時の手ぶれなのかピンぼけなのか雲なのかよくわからないにじみ方をしてるのが何枚か。

三脚を使わずに全部手持ちで撮影したので、あんまり本気出してるとは言えませんが。

あんまりメディアの特集は見てなかったんですが、

デジカメに日蝕グラスを被せて撮る人結構いたんですかね?

そんなこと思いつきもしなかったので、さっさとNDフィルターのまとめ買いしちゃいましたけど。


興を冷ますようで悪いですけど、実際金環日蝕って見てもあんまり感動しないんですよね。

ただ珍しいものを見たってだけで、特に金環だと完全には暗くなりませんから、

あまり感動の絶頂が無いというか、どこで盛り上がれば良いのかタイミングもとりづらいですし。

対照的な月蝕もいいんですけど、実際空を見てて個人的に興奮するのは

空が夕日に染まる頃、月と宵の明星が見えたときなんですね。

金星と太陽で三角の位置関係を想像しただけでスケールがでかいんですけど、

その時に月が出ていれば、その満ち欠けから地球と太陽との位置関係が想像できますよね。

4つの星が気の遠くなるような距離を保ちながら普遍的に動いてると思うと興奮するんですよ。

他の天体でも構わないんですけど、独特の位置に姿を見せる金星が想像しやすくて良いですね。



さて、次はその金星が太陽を横切るらしいですけど、

今の撮影環境でこれを記録するのはたぶん相当厳しいですね。

満足のいく撮影をするには黒点が記録できるクラスの準備が望まれるところです。

金環日食より珍しい!って既に記事が出てますが、

これこそ正に見てどうするんだってイベントなんですよね・・・。

普段から天文学とは遠いところに住んでる人間としてはあまり熱心にはなれないものです・・・。

2012年5月16日水曜日

手段を模索する話 ~あなたの目の前に女性がいます~ 【だいたい完全版】


タイトルはですね、後で自分が投稿を振り返るときに

何の記事だかわからないことが度々あったのでね、最近なるべく内容を示すようにやってます。


さて、久しぶりに頻繁な更新ですけども、きっとストレスが溜まってるんでしょうね。

ついでにブログのレイアウトを若干変更してます。

主に記事幅の修正なんですけど、他も少しずついじったりいじらなかったり。

あんまり読者視点で記事を読み返さないものなので、使いにくかったら御免なさいね。と。




本題に参りましょう。

ここでは場合分けの話をします。

勢いで書く題材だったのに、変な前置きをしたせいですごく後悔してるんですが、

割とまじめに考えるの記事のつもりなのでそのままいきますね。


目の前の女性のスカートの中を見る必要がある。

そのとき何をするか。


見たいとか見たくないとか、倫理がどうとかそういう議論もできますが、

あくまで今回は手段についてを重視します。

早い話、変わった会社の就職試験みたいな形式だと考えればいいですね。

ただ、今回は考える時間が十分ありますし、選抜試験でもないのでゆっくり考えてください。



これから自分の考えた手段について書いていきますが、もちろん模範解答はないですし、

この件に関して優秀な解答というのは無いものとしましょう。



途中でしたけど、一通り書き上げました。

2週間ぐらいかけて書いたので一貫しないかもしれませんが。



強制はしませんけど、自分なりに考えを持ってから開いた方が良いかもしれません。



2012年5月2日水曜日

まじめそうな顔してるのにねー

って高校の時、物理の先生に言われたのが強く印象に残っています。

宿題をいつまでも出さなかったある日の事でした。



こうこう、と打ち込んで硬鋼が筆頭候補になる理系あるあるネタはそろそろ封印しようと思います。




その先生はどちらかというと、自分と同じ側の人間だったように思います。

時たま口癖のようにこう言っていました。

“先生はなぁ、人間はresistantだと思ぅとるんよ”

電気回路におけるR記号の説明の時だったかと思います。

正直、物理学とは何の関係もないわけなんですが。

自分にとってこの意見は完全に同意することはできないものの、

大筋では同じ考えを持っていました。


人は何かに逆らおうとして生きていく。

付け加えて、確かそんな事を言っていたと思います。

勉強しろと言われれば、いやだとそれを突っぱねる。それが人として自然な生き方だ。

みたいなそんな言い方だったと思います。

おそらく、性善説性悪説みたいなレベルでの話でしょう。

それを聞いた当時から自分の持つ意見とは違うと思っていましたが、

間違った考えだとは今でも思いません。

大抵そういう定理のようなものを自分で抱いている人は、

それを裏付ける何かを持ち合わせているものでしょう。

一旦円環のように考えを構成すると自己の中で矛盾を持たないものですから、

その世界観を知ろうともせず闇雲に否定しても、何の進展もありませんしね。


対して自分の意見はこうでした。

大雑把に、そして右か左かと言うほど乱暴に考えるならば氏と同じでしょう。

流れに逆らおうとする人がいる。

似たようなことを言っているというのはわかるでしょうが、

人によって何が違うと感じるかは様々かもしれません。

さて、普通の人が聞けばそりゃそうだと思うわけですが、

この件については以前の記事で書きました。

言葉に直せば当然の事なんだけど、本人の中では妙な合理性がある、という話。

最近過去の記事にバックホームしてばっかで申し訳ないですけど、

それっくらい読者のこと無視して話を進めてるのでごめんなさいね。

探すのが面倒でリンクも張らない引用もしないクラスのクズですが。はい。

それで、この一文の持つ意味は何かと一応解説しておきます。

例えばトレンドなんかが流れに例えられますが、

多くの人が身を任せる風潮や常識に対して猜疑心を抱いたり、

あるいは誰も持たなかった視点で本質に切り込んだりと、

そういう人がいる。ただそれだけを述べています。

この一文では流れの大小、あるいは人の割合、立場について一切触れていません。

万人に通じるように言葉で縛っているわけではないというのが一つの特徴でしょう。

ニュアンスの中で均衡を保っている、本当に誰に話しても意味を成さない文句です。

しかし、実はこういった曖昧な言葉が、ただ本人にのみ呪文のような効果を発揮するのです。



意識せずとも関わっている人が多いんじゃないかと勝手に思ってますけれども。

自己暗示です。

そろそろ言わなくてもわかってくれると信じてますけど、ここで言う

“ 流れに逆らおうとする人 ”っていうのはつまり自分のことなんです。

知らぬうちに自分の存在を認めるための教訓のように扱っているのです。

時として大きな流れの中に自分がいることを見つけたとしても、

流されることが決して良いわけではないというのを自分自身に聞かせるため。

少なくともある一時におけるかつての自分がそう確信を持った事を伝えるため。

予め土地に杙を深く打ち込んでおき、周りでどんな水流が起ころうとも

自分を見失わないための係船柱のような役割を果たします。

いざというときには誰かに後押しされているかのような自信を生み出す、

実は結構頼りになる思想なんですが、思えばそれ自体自分で作り出したものですから、

自分の背中を自分で押す、一種の永久機関のようなものと言えるかもしれません。


ちなみに、この“流れ”に関する考えはあるゲームがきっかけでした。

そのゲームは今でもたまにやりたくなりますけど、

ある背骨のしっかりとした信念を貫く二人の主人公が、

様々な葛藤と戦いながら物語を進めていくゲームでした。

もしかするとその頃からかもしれませんが、

物事に対する視点の置き方の重要性をしっかりと意識するようになりました。


この深い話はまた次の機会にしたいと思いますが、

自分の中には、自分の棲む水槽を外から俯瞰する大胆な視点があります。

この辺は未だに不確定な部分があるので

一つの論を確立するには時間がかかるかもしれませんが、

そのうち紹介できればと思います。