2011年3月31日木曜日

マジでやっつけ感が半端じゃないけど生存報告

生きてますよ。

仕事に追われる毎日を過ごしております。

一昨日は倉庫作業で千葉
昨日は深谷
今日は八日ぶりの休日
明日は群馬

もう関東平野は俺の庭みたいなもんです。

西は多摩まで行きましたね。二度ほどですが。

卒業して入社してからが怖いわ。働く幸せを噛みしめる病気の予備軍だと思います。

春休みが終わったらのんびり遊ぼう。

学校始まったらもう仕事はほとんど入らないし、断れるからゆっくりできそうです。



下の画像は、さっきベランダから撮った写真です。

構図とか終了してる感がありますが、どう改善すればいいのかわからないのが辛いですね。

謹賀新年仕様にするなら、

枝をそのままで雲の位置をもう少し低くして上に文章突っ込めば誤魔化せますよね。


なんでこんな写真撮ってるかっていったら、

ND8フィルターの使い方を模索してるからなんですよ。

最近はずっとつけっぱなしです。

カメラで飯食っていく人っていますけど、ほんと経験と勘の世界です。

経験を積む暇も根性もないから、ただひたすら勘に頼るしかないんですけどね。

2011年3月20日日曜日

そしてまた報告ですよ

なんか電力が足りないみたいですので、とっても節電してます。

普段は常時電源が入ってるデスクトップは関東に戻ったその日以来つけてないです。

ノートも三日に一回ぐらい情報収集する程度。

今時、アンドロイドさんのおかげで

gmailもツイッターも携帯端末で簡単にアクセスできますからね。

ブログに書くネタは全くと言って良いほど無いのであしからず。

保険関係もなんかいろいろめんどくさそうでござる。

明日からまた仕事。

世間は三連休らしいけど、毎日休日の大学生はアルバイト以外にやることがないのです。

仕事のない日は、昼間に読書して日が暮れたらPSPでゲームして早めに寝る習慣がつきました。

15W未満しか使わないので、電気つけて読書するより節電になったりするのです。

親は実家に戻って避難しろとか言うけど、ねぇ。

この春は稼ぎ時だし、24時間自分の好きに使える生活ってのはすごく楽なんですよね。

今日も河原でボーッとしながら野鳥の写真撮ってましたしね。

野鳥ってむずかしい。うん。



パソコン自体起動させないので、ブログの方が疎かになるのは勘弁してくださいね。

俺の生存状況を知りたい場合はツイッターを見てくれればいいんでね。

そっちには大抵毎日書き込んでるし。

文字数制限ってのは結構大事だね。

普通のブログみたいに際限なく書けると、一度の投稿に時間を費やしすぎて

書き始めと書き終わりで立場が変わってたりするんでね。

それに、文字数制限を理由に端折れるしね。

あくまで「つぶやく」、つまり独り言であっていいってのも心理的には楽なんだよね。

まぁ、そんなもんですわ。

また来週あたりに生存報告するんじゃないかな。

まぁ、近いうちに山梨とかあっちの方で地震があるかもとか言われてますけど、

日本は、もとい地球はどうなるのかね。

大規模災害があってもしぶとく生き延びる人類はほんと

安楽死ならぬ安楽滅亡できない気がしてきたわ。

語り始めたら記事一つ書けるけどさ、あんまり文明が発展しすぎると死ねなくなるんだよね。

地球の環境が如何様に変化しても生き延びようと知恵を絞れば生きられるんだろうけど、

後生の人類は生物学的に適応してない状態で存続するんじゃないかと心配になるわ。

その点で最終的には滅亡するだろうけど、楽な死に方じゃないよね。

うん、俺には関係ないことだけどさ。

他の知的生命の文明に何か助けになるようなメッセージでも残せればいいのかもしれないけどね。

どうしても知能を持ってしまうと、生きた証が欲しくなるんだよな。

知識がなければそれは遺伝子に限定されるんだけど、人類はそうでもないんだよな。

東京電力が需要に見合う発電を再開してくれたら細かく詰めていこうかね。



さいたまで元気に暮らしています

    探さないでくさい

                   Arashimata

2011年3月12日土曜日

一応報告ですよ

ツイッターを見てくれてる人はわかると思いますけど、

自分は埼玉在住ですが、現在安全な状態で被災していません。

実家から埼玉に戻る途中に新大阪で足止め、

関西の友人宅で宿泊。

一夜明けた現在は関西の姉の家で待機中。

明日の朝関東入りする予定です。

余震や運行状況によっては延期する可能性もあります。

2011年3月10日木曜日

事故を起こしました

3月5日、箱根を小田原から三島へ向けて越える途中、

下り坂で自動車と接触事故を起こしました。

出発から峠越えまでは前の記事をご覧ください。



箱根新道と合流し、交通量は格段に増えた。

零度の箱根を越え、少しずつ気温が高くなるとはいえ、

ダウンヒルはただただ体の硬直と操作性の低下を招くばかりだ。

今回のために調達したカステリの耐水グローブは、

雨風の遮断能力が高く、

このシチュエーションには最適だった。

最適といえども、同じ素材を使用したシューズカバーでも

気温で足が冷えて仕方なかった。
 
路面は片側一車線で、状況は最適とは言えない。

凍結や路肩の残雪の可能性を否定できなかったし、

小石が散らばっていても走りながら確認することはできない。

十分なグリップ力を確保しながら時速15kmで三島へ下る。

前照灯二つ、後尾灯三つでエアロスポークには反射材をつけた。

道幅に余裕があったので、色の分かれた白線の外側を走行した。

新道と合流して1km走るかどうかというところだった。

例えるなら、交通事故を車載カメラでみているような、

正にその映像が最も想像しやすいかと思う。

ドンッ という音と共に視界が暗くなる。

暗くなると言うよりは、

予期せぬ視覚情報を記憶できなかったのかもしれない。

恐らく空を見ていたのだろうが、

その後の話で自分が宙を回転していたと知る。

右カーブを曲がりきる前に後方から乗用車に追突され、

すくい上げるようにボンネットに乗り、

フロントガラスでヘルメットを打ち、

ガードレールの外へ飛び出したとされる。

着地点は枯れ草の茂ったところで、

落下による衝撃は大きくなかった。

衝突から数秒間は状況の把握に費やした。

自転車にまたがった状態で車道の方を見ている。

路肩に止まった車が一台ある。

不意に動き出し、

「あ、逃げるのか」

それだけ脳内でつぶやいた。

しかしまもなく止まり、ドライバーが自分に駆け寄る。

「すいません、大丈夫ですか」

生きていればつまり大丈夫、

という考えは自分の深層まで根付いているのだろう。

「大丈夫です」

どう考えても状況的には大丈夫じゃない。

ドライバーは終始オロオロした様子である。

どうも体が動かない。

しかし折れた様子もない。

事故前から意識ははっきりしていたので、

冷静さだけは保ったまま応答をした。

とりあえず股で挟んだフレームを

自分でどけることができないので、

ドライバーに手伝ってもらい座り込んだ。

ヘルメットも自分で外すことができないほどだった。

とりあえず車に乗り、警察へ連絡することになった。

事故を起こしたことがないから、と悔しがっている様子だ。

iPhoneで電話をかける。

さすがに禿も山とはいえ、国道沿いなら繋がるのか。

警察が来るまでの時間が長く感じられたが、

実際に長かったのだろうと思う。

警察が到着し、事故の調書を作成する。

しかし、俄には時速15という値を信じようとはしなかった。

追突した車の時速が40kmだったとされるので、

最終的には相対速度的に妥当だと判断された。

自転車の寸法を計ったり、損傷をみたりした後、

加害者と警察は現場に残り、

呼んでもらった救急車で自分は一人病院へと向かった。

検査はレントゲンを撮るぐらいなもので、

骨に異常もなく、全治2週間の打撲と擦り傷だと診断される。

現場を離れる際、警察の担当の方に連絡先をいただき、

診断書を書いてもらったらここへ連絡してくれと言われていた。

日付を越える頃に連絡をするが、まだ署に戻っていないという。

折り返しの連絡を待つ間、

家族や先にホテルへ行っている友人と連絡を取った。

病院からの交通手段などについてを教えるから、

と警察の方に連絡先をもらっていたので病院から出られない。

先に会計だけ済ませることになり、

一時金として一万円を払い、預かり証を受け取った。

深夜は会計システムが停止しているので、

明日の朝以降にまた病院へ行くこととなった。

そうこうする間に腕や右足の痛みは和らぎ、

腫れも収まりつつあった。

他の救急患者も退院して暇そうにしている医師から、

誰か来たみたいだ、と言われる。

加害者とその奥さんのようだった。

「この度は本当に申し訳ありませんでした」

控え目な性格とはいえ、ここで いえいえ とは言えなかった。

加害者側としても、自分が悪いと認めてくれた方が楽なときがある。

とりあえずホテルまで送ってもらえることになり、

自分が現場を去った後の話などを聞いた。

自転車は加害者が保管しているということや、

途中で他の単独事故が発生し、

自分たちの件の現場検証に時間がかかったことなど。

会計の話をすると、明日迎えにいくから連絡してくれと言われた。

その後にでも事故車両の検証をさせてもらおうと思った。

加害者が警察に診断書を持参すると言うことで、

それを渡して車に乗った。

この後警察へ向かうという。時刻は25時を過ぎている。

病院を後にし、車内で思いつく限り確認すべきことをした。

眠気はない。興奮状態にあるのだろうか。

ホテルの入り口で加害者側と別れ、フロントでチェックインした。

他の客もいた。いったい何時まで開いているのか。

部屋で時計を見ると、1時20分を回っていた。

箱根の最高地点を越えて、最初の自販機で

カフェオレとミルクティを飲んで以来水分を口にしていない。

空腹感はあったが、時間を考えても

今からコンビニへ行こうとは思わない。

とりあえず水道水を口にした。

感じたことのない特殊な疲労感を噛みしめる。

風呂にはいるのも億劫で、翌朝にしようかとも考えたが、

今体を温めるかどうかは明日の回復に関わると思い、

体は石鹸で洗わなかったがとりあえずの入浴をした。

体重がどれくらい変化しているのかも気になったが、

シングルの客室にそんなものがあるわけがない。

うつろな目でアナログ放送を眺める。

明日の朝食バイキングは9時までらしいので、

それまでには支度をしなくてはいけないと思い、

寝るのもめんどくさいぐらいだったが、ベッドに体を忍ばせた。

意識はずっとあったのだが、やがて脳は活動を止めた。

ひどく疲労が溜まっていたのだろう。

時計を時折見ながら、7時頃体を起こした。

朝食をとりに行くには、どうしても友人に

自分の荷物を持ってきてもらわなくてはならない。

当時自分の手元には、事故当時着ていたサイクルウェアと

備え付けの寝間着しかないのだ。

7時20分頃電話をかける。

電話越しに聞く友人の声は明らかに寝起きだった。

診察が終わって病院からかけたときも

寝てました、という声だったのだが何時間寝たのか。

着替えを調達し、食堂へと向かった。

もう一人の友人は体調不良で高熱を出しているらしいので、

時間ぎりぎりに起こす方針になっているらしい。

症状は回復し、腕や右足はほぼ完全に動くようになっていた。

打撲ってこんなもんか、とあっけなく感じた。

朝食は普段よりも多めにとり、カロリーと水分の補給に努めた。

加害者側には、昨晩が遅かったので

遅めに連絡しようと考えていた。

高熱の友人を起こし、朝食へ向かわせた後、

9時30分頃に加害者の携帯電話へかけた。

しかし、呼び出し音すら鳴らず留守電に回されたので、

加害者の自宅を呼び出した。

すると、昨晩の加害者の奥さんと思われる人が応答した。

本人は今、保険会社と連絡を取っているという。

一時間後にホテルに来てくれと言い、

ついでに友人二人を駅まで送って貰うようにお願いした。

チェックアウト時間の10時を過ぎて20分頃ロビーへ向かった。

曰く、病人とけが人がいるからしかたない、だそうだ。

おおよそ時間通りに迎えに来て、自分は助手席へ乗った。

自分の動く姿に安堵している様子だった。そりゃそうか。

友人たちを駅でおろし、病院へと向かう。

事故車の確認をしたいと持ちかけるが、快諾される。

この人ならどうやら話がスムーズに進みそうだ。

会計処理を行おうとするが、

やっぱり保険会社を通してにしたい、

ということで預かり証と一万円を交換して病院を後にした。

加害者宅へ向かうまでもいろいろ話をし、

月曜にならないと保険会社の担当が決まらないことや、

数日前に納車されたばかりで操作になれていなかったことなど、

言い訳をする風でもなく話してくれた。

言い訳のつもりだとしても、

情をかけるつもりなど端からなかったが。

加害者の自宅で自転車を出し、検証を始めた。

接触した方向や、車と自転車の傷など。

自転車の今後の輸送や見積もりについてもある程度話を進め、

最終的には保険会社を通してすることになるだろう

ということで一旦落ち着いた。

加害者の母であるという女性が出てきて、やはり謝られた。

いろいろ話をするうちに、

加害者が大学生だった頃の事を思い出したりしたようだ。

正直、この人たちは良い人たちなんだろうと思う。


検証も一通り済ませた頃、

昼食を弟の店で食べていってくれ、と言われた。

なんだそりゃ。

その店までの間、そして注文して食事が出るまでに

昔の大学の話などをしていた。

普通においしいイタリアンのお店だった。普通に。

他愛のない話をしながら、良かったーって事を何度か言われた。

まぁ俺自身も、ちょっと回復が早いような気はするけどもね。

店を出るときに調理室の弟さんと

ウェイトレス(弟の嫁さん?)と少し話をして駅へと向かった。

別れ際になんかでかい紙袋を渡され、

中の箱には お見舞い、と書かれた紙が貼ってあった。

どう話が進んでも、加害者が持ち帰る訳にいかないのは

目に見えていたので、

躊躇う素振りを見せながら素直に受け取っておいた。

けが人の荷物を増やすとは、図ったな。

親には実家に戻るよう言われていたが、どうしようか迷っていた。

救急搬送されたぐらいなので、親としては心配だろうが。

連絡すると、帰路の途中にある姉の家で中継すればいいと言う。

スノーボードのツアーがキャンセル待ちで行けず、

昨日今日(当時)と暇にしているそうだ。

予定されていた旅行の日程分は少なくとも暇だし、

療養にも実家の方が良いかもしれないと思い、帰省を決断した。


つづく

続きは補償関係も書こうと思うので、

一週間程度時間をいただきます。

2011年3月7日月曜日

旅行中断のお知らせ

当初の計画では今日が旅行二日目という予定でしたが、やむをえない事情があり、

昨晩の事件でその後の行程が中止となったことを報告しておきます。

昨日の移動予定としては、東京駅を朝七時に出発し、

その日の晩に静岡県三島市で宿泊することになっていました。

そのために自転車で主に国道1号線を走行し、

最後に小田原から三島まで箱根越えをする予定でした。


旅行自体は三人で行うのですが、今回の趣旨は

「路線バスだけで東京大阪間を移動する」ことにあり、

あくまで自分は他の二人の伴走という形を予定していました。


まずは昨日の復習から。

出発から順調に西へ進み、川崎で朝食を摂り、

主要駅間を結ぶバスを乗り継いでいたが、

藤沢の前後で国道1号線の渋滞が発生し、

バス組は予定していた時刻から徐々に遅れを積み重ねる。

連絡で当初予定していたルートでの箱根越えは無理だと聞いていたので、

列車で迂回するなら自分も輪行で同乗しようと考えていた。

自分は小田原まで先行し、バスの到着を待ちつつストレッチをして、

明日に疲れを残さないようにしていました。

ところが、どうやら予定のバスに乗ることができそうだと連絡を受け、

それならこちらも予定通りに行こうかと考え始める。

走行中に必要な荷物以外は、バスで移動する二人に運んでもらっていたが、

山岳区間ということもあり、さらに軽量化を図ってバックパックの重量を更に抑え、

日没の迫った17時過ぎに小田原駅を出発した。

距離にしておよそ35kmの移動だが、問題は勾配。

標高も最高地点で800mを越えるので気温も心配ではあった。

正直、登ってしまえば暗くなっても大丈夫だろうと楽観的に考えていたが、

そもそも観光地のエリアは道を照らす街頭が常に点いており、

前照灯は必要ないほどだった。

それでも、特に登りは自動車とのスピードに大きく差があるので、後尾灯を三つ光らせ、

前にも点灯するものと点滅するものを二つ装備して挑んだ。

そのうち日が暮れ、標高が上がるにつれて気温は下がるわけだが、

標高400を越えた辺りから道端に残雪が見られるようになる。

木も生い茂っていて、崖や谷が多いので、日差しを直接受けにくいのかと思うが、

久しぶりに雪を見た気がした。

途中で友人二人の乗ったバスに抜かれても、自分のペースを維持することだけを考えて

ひたすらインナーローで回しつづけた。

もう終わりだろう、もう終わると思って暗示をかけながら淡々と登るにも関わらず、

いつまでも坂が途絶えない。

なるべくノンストップで行くつもりだったが、寒さと疲労で肩凝りが激しくなり、

激しい肩の痛みに耐えきれず、後日の日程に影響してもいけないので何度か休憩をした。



沿道の施設も少なくなり、残雪が多くなってきた頃、

反対方向から一台の自転車が来た。

中年の男性が、なんとクロスバイクで峠を越えてきたのだ。

男性「お疲れさまです!」

「あ、お疲れさまです!」

「一番高いところまであと、えーと(サイコンを操作して)3kmぐらいです!
頑張ってください!」

「ありがとうございます!頑張ります!」

車道の車もまばらで、ただ自分と向き合っていた時、不意に元気を頂いた。

ただまずかったと思ったのは、時速8km程度で走っている自分は、

少なくとも20分以上漕がなくては峠越えることができないという事実を

瞬時に計算してしまったことだろうか。

車道の脇に用意された、少し高くなっている歩道には足跡がまばらに残っている。

新雪が降ることもなく路面が長い間氷点下を保っていることを物語る。

そこから国道1号線最高地点までは特に記憶していることもなく、

沿道も通りすぎる車もあまり印象的なものはなかった。

最高地点にはその事を示す標識が掲げられていたが、

携帯電話を取り出すのも億劫でなほど困憊していたので、

そのまま下りへと突入した。

少し下ったところに自動販売機があり、

そこでカフェオレとミルクティを飲み干した。

峠を越えたことをホテルに先着した友人に連絡した後、

ダウンヒルの冷え込みを覚悟して自転車に跨がる。

途中街灯のない区間が少しあり、空の明かりと前照灯、車のライトを頼りに恐る恐る進む。

久しぶりの信号が見えた辺りで、道路を清掃する車両を追い越した。

この時、時刻はおよそ午後8時。

下るだけだとわかっていたので、市街地につくまでは集中力と操作能力を維持するため、

また最高地点付近で部分的に路面が凍結していたので、その可能性や砂利などを心配し、

下りの時速は15kmを越えない程度を維持し、ひたすら寒さに耐えた。

箱根新道と合流し、交通量もそこそこあったので白線の外側を走るよう心がけ、

安定したラインでドライバーへの負担をなるべく減らすいつも通りの心がけで

宿のある三島を目指した。

しかし、新道と合流してそう長い距離をいかない右カーブを最後に、

箱根の山を下りきることができなくなってしまった。

交通事故にあったのだ。

大きな音と共に写る景色が大胆に変化し、

脳は急な視覚情報を捌ききることができなかったらしい。

自転車にまたがった状態でガードレールの外に着地し、

視界には、さっきまで自分の走っていた車道と、

路肩に寄せた一台の車が見えていた。

痛いとか憤りとかを感じる前に、「体が動かない」ことを考えた。

右半身を地面につけ、足でフレームを挟んでいた。

今思い出しながら、シャカリキの一シーンを思い出したが、

別に自転車にしがみついていたわけでもなく、

飛んでいく途中までクリートが外れなかったせいではないかと思う。

自分で起き上がることはできず、駆けつけた中年の運転手に自転車をどけてもらわないと

自力ではどうしようもなく「動かなかった」。

右腕は腫れ、左太ももは強打しているらしく、足を引きずりながら加害者の車へ向かった。

加害者が警察へ通報し、20分程待って警察車両が到着。

調書を作成しながら、救急車で輸送する必要性があると判断された。

やがて救急車が到着し、症状などを調べ、現場は加害者と警察に任せて病院へと向かった。

痛みのあった右腕と両足をレントゲンで複数枚撮影したが、

異常は見られず全治2週間の打撲と診断された。

診察が終わった頃には0時を過ぎていた。


つづく

2011年3月4日金曜日

西へ旅に出ます 探さないで下さい

今晩から不在なので、空き巣とか勘弁して下さいね。お願いします。


さて、忙しくて1週間以上記事を書いてなかったので、

特にネタにするほどのものもないけど一応生存報告をしておこうかと。



いろいろ書くつもりだった気がするけど、準備に追われて時間がないのでまた今度。

返ってきて数日したら、レース、3連勤、レースになるので、

まともな記事はしばらく書かないかと思われますのでご了承願います。

今回の旅に関しては諸事情でほとんどブログに情報を載せないので、悪しからず。

別に悪いことをしてるわけでも後ろめたいことをしているわけでもないけど、

旅のデータをまるごと有効活用する計画があるのでね。


では、また半月後ぐらいに・・・。