2013年5月15日水曜日

マインスイーパとか将棋とか

結局毎週なんて無理なんですよ。二日に一回書いてた時期はブログ書く事ぐらいしかやる事無かったし、日常的にそれなりの新しい刺激を受けてたからできてたのであって。それに当時は頻度が目的だったからそんなに負担じゃなかったしね。

やっぱツキイチペースが限度だと思うのですよ。




ちょっと今日はこのブログの本質に近い事について。



何かに対して一つの考え方を立ち上げるのがある種の趣味みたいな事になって随分経ちますが、とりわけ気合いを入れて独自に概念を組み立てて普通の人が思いも寄らないところをゴリゴリ掘り下げてたりすることもあります。

個人的に「塔を建てる」と言ってるんですが、何もない真っ平らな土地に一つの建造物を建てるように、事前に基礎となる理屈や思想を持ち込まない場合があるんですね。

大抵突拍子がなくて説明が面倒なのでほとんど記事にはしてないですが、自分の能力の本質的な部分だと自覚してます。

例えば囚人のジレンマのような、連絡の取れない二人が最大効率を求める行動をするにはどうすればいいかとか、対人交渉の際にボディランゲージ的なものが深層心理的にどう影響するかとか、学術的に研究されている分野であってもより実際的で特別な条件でどうだろうか、という言ってみれば面倒でいつ役に立つのかわからないような事を、未熟だろうが間違っていようが自分で独自のものを作ってきました。


囚人のジレンマなんかは相当有名な話ですが、二人の関係とか刑の大きさ、人数を調整したり、さらには囚人ではなくより現実的なシチュエーションを設定するなど、問題は永遠の広がりを見せます。

自分が当事者だったとしたら。というのがより実際的で、現実で似た状況に陥る事もあります。

そんな事は起こったときに起こった場所で考えれば良い、という考えもありだと思いますが、事前に想定しておく事で短時間に適切な判断をするようにできるわけです。将棋とかでいう定跡という奴です。前もって悪手を知っておけばいちいち時間をかけて考えなくても指していい手が絞られるというわけです。

考える、というのは定跡作りとしての役割もありますが、より一般的な効能を言うならば、思考能力を上げるという効果があります。世の中想定していない出来事の方が多いですから、起こったときに考える、としても論理的な考え方を鍛えていればより理屈に合った結論を導きやすくなります。また動きの決まった定跡としてではなく、将棋で言う戦法とか格言みたいな盤の一部に対するユニット化された理屈や大雑把な理念などを持っていたら、それだけで有利でいられるのです。

将棋ばっかでアレですけど、詰め将棋みたいな能力はもちろんダメ押しには強いですし、そうでなくても一瞬の隙から勝敗を決することもできます。

もちろん、形に見覚えのない全く新しい未知の問題への対処能力もつきます。「考える」という行為それ自体の定跡を作るという事です。

定跡の作り方の定跡を作るようなもので、思考の次元を一つ高める必要があり、ある意味では積分的な意味合いがあります。


一時期マインスイーパにはまってた時期があったんですが、上級くらいになると地雷の密度が高くなって一筋縄ではいかない場面が必ず出てくるんですね。そういった時には形としての定跡が役に立ちます。単純作業でかつ時間を計るゲームなのでこれがほぼ鍵を握るのですが、実際は定跡をいくつ揃えても確実には勝てません。

与えられた数字から確率を見積もって、最も確からしいところを踏んでいく必要があります。これは定跡となるパターンが少なく、形ではなく経験がものを言います。言い方を変えれば、形ではなく計算の型を知っている事がより効果的ということです。

世の中で出会う未知の問題のほとんどは、こういった手順の型を持っていれば解決しやすいものが多いので、とにかく考えた量(と質)が大切でもあります。むしろ、何事も起こったときに考えるタイプの人に大事な要素です。

自分は冷静な判断力があるように言われがちなのですが、その理由はだいたいこういう事をやっているから、という事です。長考しなくともそれなりに妥当な判断力を用意できるというのがカラクリ。一方でどうしても考える必要があるので、本能的な反射神経を使う判断速度からは随分遅れますけど。



一度塔が建ってしまえば回りがよく見えるようになったり、隣の建物と橋を渡してみたりと、どんどん広く高く考えが広がっていくわけです。

その塔を建てるのは一人でもできるんですが、一人でやると途中のミスに気づかなかったり、あるいはそもそもが傾いてたりする場合がよくあります。つまり高さを求めても、結果的にどこへ向かっているのか解らなかったり、あるいは検討すべき課題に気づかずにスカスカな状態で高層に達してしまうと根本から無意味なものにもなりかねません。

そこを二人でやれば違う視点から傾きがないかとか、複数の手順で確認したりでき、より公正な理論を組み立てられ、また手順が明確でない場合はアイデアが出やすいので組み立てるスピードも早くなります。

ただ船頭多くして船山に上るとはよくいったもので、こういうある意味で前衛的な概念をこねる場合は、統制が取れない大人数でやると直前の一言を反論するためだけの無駄な発言をしたり、話題が曲折して当初の指針を失ったりするので、小数精鋭でというのが鉄則とも言えます。

また例えば二人で塔を建てるにしても、両者の間の思考能力に差があると結局片方が一方的に状況を進めることになり、酷い場合には主張を理解できなかったり、説明だけで時間が過ぎたりと、争いは同じレベル同士のものでしか発生しないと言われるように、ドングリの背比べ目くそ鼻くそみたいな能力水準である事が望まれます。それこそ背伸びしてなんぼみたいなところですからね。

ところが一方で、本当に一人では難しいのかという疑問も上がります。複数人で考えるメリットを冷静に見つめると、ざっくり言うなら複数の視点から問題を見る事以外はそれほど重要ではないのです。

客観的に筋が通っていさえすればいいのであり、何度も反芻して考えればだいたい正しい向きになるものです。ただし、そのためには自分の考えには常に疑問を持って、かつて確立した自信を持っていた考えを否定する勇気を持つ必要があります。


他人から無下に否定されることもあり、何が正しいのかと混乱することもあります。そこで大事になるのが確率の計算です。確からしい可能性を数字ではなく概念として自分の中にストックしておく事で、「確かではないが」という前置きの元で引用する事ができるし、あるいは逆に他人の間違った考えを指摘する事ができるようになります。

お互いに同じ姿勢で問題に向き合えば、無意味なプライドとか身分を捨てて公平に議論ができるのですが、なかなかそういう人には出会えないものですね。はい。そこでまた新しい塔が建つわけですが。

自分より経験の浅い人間が完全な下位互換である場合は歳を取ればとるほど少なくなります。逆に経験を積んでいるからこそ固定観念にとらわれた硬い考えしか持っていなかったりもするわけですから、新しさを求め続ける柔軟性は持っていて損はないわけです。

ある程度歳を重ね、社会的に大人になってくると子どもだった頃に比べて、自分の主張が簡単に認められるようになるので、些細な事を学習したり賢くなりたいという意欲を失い、現状に満足しがちになります。言い方を変えれば、現状で十分だという意識から自分自身が否定される事が無いようプライドを持ち始めるのです。

物事を経験に当てはめて解決して済むようになると、考える習慣を失い、考える力自体が衰退するというスパイラルに陥ります。



と、いう蟻地獄にははまりたくないですね。というお話。