2012年10月14日日曜日

思考のゲル化

特別なきっかけも無く慢性的に気分が落ち込んでいるときは、もしかするとその一因として景気が悪い事があるかもしれないそうな。

また、人は景気の良いときは白を好み、悪いときは黒を好む性質もあるとか。

衣服などで明るい色を取り入れると気分を変える事もできるとかできないとか。しかしそれは火種となり得てもただそれだけで高揚をもたらし続ける事は無いでしょうから、また難しいところではあります。

関連して、作り笑いでも表情筋を動かせば健康に良いとか、あるいは気分を上向きにする効果があるそうです。

二進も三進もいかないときはとりあえず側から入るのも手段としては悪くないのでしょう。それでもやはり何か根源が芳しくないのであれば、そこは抜本塞源的な働きかけを欠かしてはいけないのでしょう。


以前の投稿で人は幸せになる事ができるのかとういう事について論じた事がありましたが、今でもやはりその命題に対する的確な理屈を設ける事ができずにいます。

その題に対する専らの切り込み口は、考える事が幸福に繋がるかどうかという点でした。


自分にとっての考える、というのはその大半が小さな反逆であるように思います。

自分で左右の手を組むとき、普段は右手の親指が上になるように指を交わしているのですが、一時は意識して左の親指が上になるよう組んでみた時期がありました。

人の体というのは一見左右対称なようで、対称なのは大雑把な外観だけ。誰しも利き手や利き目が存在するのは周知の事実であるように、人のあらゆる部位には偏りがあります。体の中心線上、顔の真ん中に座っている鼻でさえ、多くの人は左右どちらかに骨が傾いているとか。

手の組み方を変えて気づくのは、指の股が普段組む組み方で馴染むようになっているという事。これはきっと体の形自体が変わってしまったという事ばかりではなく、普段と違う事に両手が上手く対応できないのだろうと思います。

例えば舞踊にしてもそうですが、理屈でわかっていても一発で上手くいかせるというのは無謀な話。多くは体で覚える、という作業が必要になります。意識しなくともどこかで型を作っていたり、コツを掴んでいたりしています。

手を逆に組んでもぐにゅぐにゅと形を模索すると、なんとか股がうまく噛み合う形というのは見つける事が出来ます。しかしそうしても普段組んでいるのとは気分が違う。かなり意識的であるからだと思う。

一月か二月か、意識的に指を組んでいましたが、いつしかそんな事も忘れて“普段組み”に戻ってしまっていました。


水は低いところを探して落ちていきます。人とて同じく、一旦落ち着く場所を見つけてしまえばそこに安住するようになります。自分から高い場所に上るのは一苦労。上って良い事があるならまだしも、そうでもないなら窪みにいる方が楽なのです。

もちろん手の組み方なんて一例に過ぎず。あるいは左手でボールを投げようと思った事があるだろうか。

実際にボールを投げなくとも、モーションだけで十分です。右手でボールを投げる動作をすると上手くいくのに、それを鏡写しに真似しようとしてもどうもぎこちない。右、左と交互に動いてコツを掴もうとしても体は右で感じるような自然な感覚にはなれないのです。

長い間この問題について考えてきた結果、得られた結論は肉付きの違いでした。

紐付けした球を円形に運動させるときに生まれる遠心力。直線に加速させる時とは違った方向に力が必要となります。同じようにボールに速度エネルギーを与えるとき、右手では直線方向の加速度ばかりでなく、向心加速度を上手く利用します。

実は左手は、右手のようにボールを投げるときに必要となる力をあまり経験した事がないのです。右手の真似をしようとすると関節が外れそうな方向に力が働く、というのが適切な表現かはわからないが、引っ張る力に筋肉で対抗しようとするのではなく、上手く働いてくれる筋肉が無いために、その力の出所を骨格に任せてしまうのです。


右と左の違いは思ったよりも遙かに奥が深い。

右手が利き手だから少なくとも手に関していえば、左よりも右の方が圧倒的に器用かというと、そうでもないらしい。ペンを持つにしてもプルタブを起こすにしても、何か新しい事を覚えるときに主役を任されるのは右手が多い。左手が補助的な役割に回るのは必然だろう。

主役ばかりに目を奪われるのは仕方の無い事だが、左右を入れ替えてみて驚くのは実は右手の不器用さであったりする。左手でペンを持ち、紙に文字を書こうとする。すると右手は忽ちに行き場を失い、何をして良いのかわからなくなるのです。左手が普段何をしているのかなんて気にもとめないでしょうが、実は何気ない左手の立場があってこそうまく右手が機能できる場というのは驚くほど多いのです。

ボールを左手で投げるとき、右腕はどこで何をすれば良いのかさっぱりわからず、普段の左腕の動きを観察するために右手でボールを投げる動作をしてみなければならない。という具合になる。

ペンを持つときだってそう。単に紙を押さえてくれさえすれば良いのだが、実際初めてやろうとするとなかなかどうして上手くいかない。手が支えるのは実は紙だけではなく、体の姿勢を決める役割もある。思えばさして難しい事ではないようで、やってみる前にいくら思いを巡らせても気づいたかどうかは定かでない。

しかしどうだろう、鉛筆の持ち方を学ぶときに言われた事を思い起こせば新鮮さを感じる方がむしろおかしいのかもしれない。左手で紙を押さえないと字を書けないだろう、と確かに何度か言われた。その頃から既に、脇役の居場所は膝の上ではなかった。

そうこうして左に主演をさせてみてもやはり“普段”の右の方が楽なもので、左が少々器用になろうとも右にトラブルがあったときのバックアップが厚くなったくらいで特段日常生活が良くなるわけではない。英語がある程度堪能になったって日本語の方が便利なもの。やはりというべきか、安住の地はそう易々と離れられるものではない。



ファーストフードで注文を済ませると、会計をおこなう前に別の商品を勧められることがある。自分はこの手の販促活動に乗っかって注文を追加した事は一度も無いのだが、あれはきっと売り上げを向上させる貴重な一手なのだと思う。

スーパーマーケットのレジで並んでいると、手の届くところにガムやら電池やらが並べてある。コンビニではいざという時に無いと困る生活必需品は下の段に。駅前の書店の入口近くには外からでも見える棚に時刻表が収められる。

衝動買いと、その逆とを上手い具合に突くよう作戦を立てるのは、きっと成長する経営に欠かせないものなのだと思う。

居酒屋で注文を聞き、繰り返す前に尋ねられてもいないお勧めメニューを紹介する。ある客は、そう迷う事なくそれも、と返事をするとしよう。海鮮ものだと、鮮度や旬の問題だとか、店側にとっては一定ではない仕入れ値の具合なんかも勘案して勧める。

客としてはそのメニューが目を見張るほど珍しかったり特徴的でもない限り、あるいは後悔するような味でない限り、店を出る頃には勧められたメニューだった事なんてどうでも良い事になっているだろう。客としては別段損をしたという意識はないし、店側は売りやすいメニューで売り上げを伸ばせるのだから、これはとても素敵な事だと思う。

だが一方で、これで良いのだろうかという立場に立ってしまえばどうだろう。

これは商売に一種の妨害をしてやろうという単純で幼い発想ではない。自分の利益を中心として、絶対的な価値判断の基準として考えるというもの。店員に勧められる前にその商品の存在を知っていれば果たして注文しただろうか。オススメとして存在した場合と、そうでなかった場合を考えたときに同じ結論が導かれただろうか。

レジに並んでいるときに見つけたガムが美味しそうだと直感的に感じたとする。そこでカゴに入れてしまえば楽しみを一つ得る事が出来るだろう。しかしもし、それを見つけなかったときはどうだったろうか。結果的にそのガムを買わない事で後悔することはまず無いし、この場合は楽しみを“失った”のではなく“得られなかった”というだけでしかないのです。

もし“得られなかった”ら気持ちとして“得た”場合には劣るかもしれないが、その差は果たしてどれくらいのものだろう。商品の価格に相応するだけの価値があるだろうか。

“無かった場合”を考えるというのは非常に難しいもので、特に気持ちの問題となると困難を極めます。

調子が狂うとき、特によく言われるのはかわいい女の子と普通に話せないというシチュエーションですが、もし仮に相手がかわいい女の子ではなかった場合、一体何を話しただろうかという事を事前に知っていれば意識的に“普通に”会話をする事ができるかもしれない。という非常に単純明快でかつ難解な問題と大筋では同じ事を言っています。

深いところまできてしまうと、人によって何を善しとするかが違うために消費動向も一概に言い纏める事はできなくなってしまうのですが。

咄嗟に出されるオススメというのは売る側にとって常に都合のいいように出てくるものの、消費者にとって良い提案であるとは限らない。予め存在を知っていても注文しなかっただろうという場合はその場で考えるのが面倒なのでとりあえず断る。別の陳列順序であれば購買意欲をそそられただろうと思うものは立ち止まって少し悩んでみる。書店で見つけた面白そうな本は、その書店の努力によって見つけられたものかもしれないし、そうでなくとも書店側が斡旋した出会いだと思えば、帰ってからインターネットで注文しようという気持ちにはとてもならない。今の自分はそういった考えを持っています。こういった姿勢に関して、完全に意見の一致する人はそういないでしょう。

これらは考えに考えた末に辿り着いた考え方で、これからも絶えず変化していくでしょう。中には一周して結論的に以前と同じ行動を選ぶ事もあるくらいです。

こうした反逆を楽しみ、より優れた考えを勝ち取っているようにも見える一方で、単純に居酒屋で勧められたメニューを受け入れる方が遙かに楽なのは確かです。

あまり深く考えない方が、言うなれば馬鹿であった方が、もっと言うなら頭の中がお花畑な方が圧倒的に幸福に近い立ち位置であるのではないかという乱暴な仮説がどこまで適しているかを“考え”続けてきたわけです。




煮詰まる。という言葉には二つ意味があって、一つは議論や熟考の末に方向性や内容が絞られてきてそろそろ結論が得られそうだという状態。もう一つは議論が進まなかったり適切な案が出せずに立ち往生する状態を言います。後者は原義的には間違いだそうですが。

どうにも今日日は頭が硬くなっているというか、斬新で興味深いものを生み出す発想力が衰えてきているように感じます。あらゆる物事にだいたいの妥当な結論を出せたという事かもしれませんけれども、それはそれで退屈な事です。

そこで一度凝り固まった理屈を切り崩し、ゼロベースから思考を再構築すれば何か新たな発見があるかもしれない。という事を思いついたのはつい先日の話。

何かに熱中するなりして難しい考え方から距離を置き、いわゆる時間を無駄にするような生活の仕方でも何でも良いのでとにかくシンプルで馬鹿な生活をすれば、これまでとは違う物の見方ができるのではないかと思ったのです。

しかしこうした物の考え方は自分にとって一つのアイデンティティであり、言いようによってはプライドでもあるわけですから、そう簡単に自励的な変化は期待できないのではあるのですが。