2012年8月9日木曜日

例えばパワースポットという存在に対して

だらだら続くよ自己分析シリーズ。。。

一時期パワースポットブームがマスコミで騒がれていたのをさっき風呂で思い出したので、ちょっとそれに関して述べてみようかと思いますね。


度々言うようだけど、パワースポットに対してもの申したいんじゃなくて、パワースポットを例にとって自分の思考手法を解析しようという企画なので、そこんとこ勘違いしないでよね。


パワースポットというのは、なんだかよくわからないけど神聖なオーラが溢れ出てる場所で、そこに行けばなんだかパワーをもらえる、みたいなそんなスポットのことですよね。たぶん。

ちょっぴり問題になってたのは、そのスポットだけ拝んでホイサッサと帰ってしまう客がいるということでした。たとえば神社の境内にあるご神木だけ拝んで本殿を無視して帰る、みたいな。


パワースポットを信じるかどうかというのは恐らく大きく意見が分かれるところだろうと思います。

科学的な立場からものを言う人にしてみれば、パワーだなんて聞いただけでアホらしい存在に対して物理的な説明を求めるところから始まるかもしれません。パワーストーンなんかでも同じ事が言えますけど、俗に言う「気」だとか「力」というのは物理的に解析できるエネルギーで論じる事ができるものではないでしょう。その点、あくまで「科学的根拠はない」ものとして扱うしかないのです。

しかし一方で、実際にその「力」を信じている人がいる事も報道によると事実なようです。科学的な立場のみから何かものを言うならば、そういった人に対しては根拠の明示を求めるか信仰をやめるように勧告するしかないでしょう。無論、多くの人はそんな議論に興味は無いでしょうが。

自分の場合は、「パワースポットから信仰する人に対して何らかのエネルギーやそれに準ずる何かが与えられる事は無いだろう」という立場にはいますが、むやみにそれを否定したり見下したりする立場ではありません。

あくまで多角的に問題を捕らえたいので、科学的な見地を拭い去って再び議論を始めます。


科学的な立場からの論点は「パワースポットの存在自体に関してやその機能に関して」でしたが、次の論点は「非科学的と言えるパワースポットを信仰させるのは何か」に移ります。

分野で分けるならば宗教的というのが近いかもしれませんが、「信仰する人がいるのは事実」という点を掘り下げます。

まず、信仰する事で何が起こるのかを考えます。最初にメリットとして考えられるのは「パワーが得られるというプラシーボ的効果」です。おみくじで大吉を引いたときのように、自分が頑張れるように後押しをしてくれる効果はあると思います。自分にパワーが充填されていると思い込めば、少々の事であっても通常時より優位な状態で問題を解決する事ができると信じる事ができるでしょう。また、誰かに「大丈夫」と声をかけてもらえればある程度自分に自信が持てる人がいると思いますが、そういった人が誰にも声をかけてもらえないとき、自分自身の中に「大丈夫」といえる根拠をパワーの存在から生み出す事ができる点で、精神的な安定をもたらす効果が認められるだろうと考えられます。

一方、そういった扱いをするのであればわざわざ遠出をしてまでパワーを享受しに行く必要は無いと言うこともできます。確かに何か適当なものを信仰するだけならば旅費を出したり、時間を割いたりする必要は無いわけです。

いわゆる「パワー」というのは、信仰を高める事でその効果も大きくなるものだと思います。個人個人の心理的な依存度の問題です。信仰を高める一つの方法に、信仰対象を遠い存在にする、つまり崇高な存在にするというものがあります。絶対化です。

某新興宗教の手法で言うならば、崇高な存在である教祖が教徒の思想を否定する、例えば何気ない所作に対して「もっと物を優しく扱いなさい」とか一言言ったとします。万物に精霊が宿っていて来世で云々みたいな事を言ったとすると、教徒は「教祖は自分よりも優れた考えを持っている」と考えるわけです。これはあくまでその宗教という数直線で測ったものでしかないのですが、依存が深まれば恐らくそう考えるのでしょう(宗教は勉強してないから割と適当な事言ってる)。

教徒からすれば信心が足りないとか、教祖について行けば“より良く”なれるという思いが深まり、教祖や信仰対象との距離がより正確に、そして遠く感じるようになります。

これと同様で、パワースポットに対して「簡単に接触できる存在ではない」と思い込み、「時間やお金を消費してまで行く価値のあるもの」と化す事で信仰心を高める事ができると考えます。家の前の電信柱に塩をまいたら幸せになれます、なんて言っても殆どの人は気休めにすらならないでしょう。

しかし、あくまで表層的な信仰を利用したブームなのであまりにも崇高すぎる、つまり相当量の時間と金が必要であるとなると火種となる信心さえ生み出す事ができなくなります。

重要なポイントは、時間さえあれば誰でも簡単に御利益が得られる、という程度の存在である事だと思います。

また、移動などに要した労力が結果的に見てあたかも信仰心によるものであったかのようにいつの間にかすり替わりが起こる点も見逃せないと思います。自分を疑わない利益観念によるものですが、例えば振り込め詐欺でも同様の事が起こっていると考えられます。

客観的な第三者が見ればどう考えたって振り込め詐欺であるのに、振り込んだ本人はそれを認めようとしないという事例が多いようです。例えば息子が会社の金を紛失したと連絡があったとき、微塵も疑わずにお金を渡したとします。渡した後になって振り込め詐欺ですよ、と言われてもそれを認めてしまえばその瞬間に自分は大金を損失した事になります。しかし、それを認めない限りは仮想的に「騙されていない」状態であり続ける事が出来、息子の窮地を救ったという心地でいることができます。また、認めない事で振り込む当時の自分の判断を正当化する事が出来るので、ある意味で自分の行動を否定しようとする人から守る事が出来るのです。

パワースポットの話に戻りますが、丸一日使ってヘトヘトになってまで行ったのにまさか効果が無いわけがないだろう、という思いがある限りどうしても“ある”方に賭けたくなるものでしょう(半信半疑である場合に限る)。逆に言うと、ある方に賭けられない人間は丸一日かけてパワーを享受しに行く事自体がナンセンスであります。

以上の事から、結論的には「信じる者は救われる」という事になるのですが、それを踏まえての自分の立場としては「信じる事が全くの無意味では無いですよ」という感じになりますね。後半は信念を生み出すメカニズムに関する記述なので、蛇足ではありますが・・・。


自然科学、(エセ)心理学と来たら次は経済学の視点からになります。

経済は完全に専門分野外なので問題提起程度に留めておきますが、もしかしたらその答えはパワースポットが存在し始めた理由の核心に迫るものになるかもしれません。

要は誰の利益になるのか、というのが主題です。宗教的なしきたりを知らなくても、あるいは宗教分野を横断してでも簡単にパワーを得られるようなシステムを編み出したのは何故なのか。

消費者の心理を利用した黒幕がいるとすれば、その扇動による経済効果はどの程度になるのか。




みたいな事をありったけの知識をつぎ込んで考えるわけですね。

多角的に、というのが一つ心がけている事で、従来になかった視点というのを日々模索しています。何らかの新しい見地が見つかれば、その視点から見た尺度で何かより良く改善できるかもしれない、あるいは更に新しい視点の存在を見いだす事が出来るかもしれない、というのがモットーです。

自分は、自分の知らない視点を持った人と議論する事を望むし、あるいはそういった人と議論をする事でお互いが持っていなかった全く新しい考え方を見いだす事を望んでいます。

切磋琢磨と言いますが、率直に言って自分が相手に切り込む事があっても、自分が感心するような反論を受ける事は殆どありません。普通の意見を返してもらったところで思考の燃料にはならないのです。

ただ、奇をてらいすぎて何の意味も成さない意見を出す人がいるのも事実です。3秒で反証が思いつく意見を言ってもらっても仕方が無い。それこそ絶対化してしまうようで逆に会話を続けづらくなるのです。一方的に啓蒙するような立場ではないので、単に嫌な奴にしか成り得ないですから。

こういう話を貶し合える目くそ鼻くそな関係の人がいればなぁ、なんて思います。

2012年8月1日水曜日

だいたいまんげつ

いつも思うんですけど、餃子の満州の「3割うまい」の3割って何なんですかね。

検索すればヒットするかもしれないですが、なんとなく知ってはいけないような気もしつつ、いつも気になります。





2048*1536 f/4.4 1/200 ISO-80 949mm

中央じゃないじゃんって言わないで。手持ちだから。

この前の投稿と比べて頂ければちょっとわかりやすいかもしれませんけども、なぜ満月の撮影を難しいと思うかと言いますとね、簡単に言えば表面に影ができない分立体感が出ないんですよ。

裸眼で眺めればクレーターの影なんて殆どの人には見えませんから立体感も糞もないんですけど、これぐらいまでズームするとそれが見えちゃうわけですよ。

満月は真ん丸感で言えばMaxな状態な訳ですけど、あくまでも丸なんですよ。僕が撮りたいのは球なんです。

球の写真を撮るときってね必ず影がでるんです。まあ写真に限らずですけども、立体感を得るためには影の存在って結構大きいんですよ。

絵を描いてもそうですが、影の付け方で表情が変わってきますよね。それもこれも光の当たり具合が鍵になるんですよ。

満月の時って太陽と地球と月がだいたいまっすぐに位置するときになるわけなので、影なんてできなくて当然なわけで、いわゆる海と呼ばれる黒いシミがあるだけののっぺりした顔になっちゃうわけですよ。

なんて事を思ったりするんですね。

他にも、満月はいつでも満月だけど、欠けてるときはいつ見たって違う欠け方をしてる、みたいなこじつけもできますよね。


満月を嫌いなんじゃなくてね、欠けてる月が好きなだけなんですよ。