2013年2月24日日曜日

人と論点が違う事がよくあるんです

あまりにもネタが思いつかないので、ツイッターで掠ったネタを拾うのも良いかなと思いまして。140字で収めた内容をブログ記事に展開すれば一本書けちゃいますよね。まあ要約された主張の内容を自分の中でも整頓できるし。みたいな。



昨日の夜、NHKの番組を観てたんですが、その番組では視聴者から寄せられたツイッターでの意見を時々画面下に表示してるんですね。もちろん不適切な意見もあるでしょうがから、担当者が選別して載せる載せないを判断してるんでしょう。

同じくNHKで放送された別の番組ですが、以前ツイッターのサーバーがダウンしたとき、継続して番組の内容に即した意見と思われる投稿が表示されているという事件がありました。当然ツイッター経由の意見は局側に届かないわけですが、たまたま発生した地震に関する投稿や事前には告知されていない出演者に関する投稿が見られたというものです。NHKはその後、事前に寄せられた意見を採用して表示していたと苦しい言い訳をしたとの事。

そんな事件があったので、余計に注意して、番組の内容よりもツイッターの投稿の採用について何か傾向を掴もうという気でその番組を観ていました。

これから述べるのはあくまで偏った私見ですので、鵜呑みにしないでくださいね。


まず文章の特徴を見定めようと思って視聴を始めました。前出の事件の際は自演説、つまりNHK側が自分で呟いて(あるいは実際には呟かずに)自分で掲載しているという疑いが囁かれました。自分はその当該番組を観ていなかったのでなんとも言えませんが、状況から考えるとそう考えるのが自然でしょう。騒ぎはNHKも知っているでしょうから、それを踏まえた上でどうなっているのかというのが見所でした。

番組では表示される意見に発言主のアカウント名が併記されます。実はそれも一つ注目ポイントであります。最近話題になったペ二オク詐欺では、入札者のアカウント名が辞書的に自動生成されたものばかりで手動で作成したアカウントとは到底思えないものばかりでした。流石にそこまで露骨なアカウント名ではないでしょうが、ネット心理に精通していない数人の担当者で作ってしまうとなんとなく傾向がでてくるのでは、という疑いも持って臨みます。

まず気になったのは句読点の使い方。気にして見始めると、しばらくは文中に読点、文末に句点をきちんと使っているものばかりに感じましたが、しばらくすると読点だけのものや句点だけのもの、どちらも使わない投稿も見られました。

ただ、もし全てに句読点が完全に打ってあったとしても、それは採用される基準である可能性もあって、必ずしも自作自演を示唆するものではありません。NHKは準国営のような立ち位置ですし、ある程度お堅いイメージもありますから不思議ではありません。結果的に句読点は特に問題でもないようです。

ちなみに、ツイッターでは印象や見栄えの問題もあって、句読点を使わずにスペースや改行を代替することもあります。自分はツイッターを喋るように使いたいので句点の代わりにスペースを使ってます。

次に気になったのは、文末の年齢と性別です。意見を述べた後、例えば「30代男性」など自分で併記しているものがありました。ツイッターはフェイスブックと違い、実名登録の義務はなく、年齢などの個人情報を登録する欄はありません。実社会での知り合いと繋がるために使っていても、やり方次第では全くの他人からは見れば匿名に近い状態で使う事も出来ます。自分の場合、実名はもちろん、所属する組織の詳細や交友関係が外部の人から知られないよう、単純な情報を流さないようにしています。特に後ろめたい事をしているつもりはないですが、自分自身そういったネット上での個人情報網を分析する能力に少し長けているので、一応気にしているのです。もちろん、投稿しなければなにも情報は漏れませんが。話を戻して、そんな準匿名のネットサービスで、随分ぼかしてるとはいえ、個人情報です。それともうひとつ、ファクシミリやメールフォームならばそれらを併記するのも珍しくないですが、雑多な意見が入り交じるつぶやきの中で、採用される事を前提にと考えても差し支えないでしょう、年齢性別を併記するのはどうも恥ずかしいものがあると思います。

ネット上ではオープンな(制限している人は部分的に)場ですから、番組を観てない人もその投稿が見える状態にあります。他の人には見えていないものにツッコミを入れるのですら何だか気恥ずかしいのに、どこか必死さが窺い知れる投稿は憚られます。もちろんそんな事は気にしないだとか、常々公表してて隠してない人もいるでしょう。みんながみんなではなかったので、疑いを助長しても、これまた決定打にはなりません。


前述の通り、アカウント名にも注目をしていたのですが、結局番組が終わるまでに見つけただけで6度は採用されたあるアカウントがありました。他にはそうそう複数回採用されるアカウントはなかったのですが、特定のアカウントだけ、なんだか不自然だなと思いました。

アカウント名の作り方には個性が出ます。ツイッターはローマ字や数字・記号などで登録し、平仮名や漢字などの日本語を使えない制限があります。ありきたりなものだと他の人に先に使われていたり、いまいち個性が光らないものです。独自のあだ名や好きなものをローマ字表記したり、誕生日や生まれた年の数字を文字列に加える人もいます。

もし普段使う予定のない、不自然でない程度の文字列でアカウントを作る事になったとき、安直な発想で数字を使ってしまうと01や321など、数がそれ自体で数字的な意味を持つ、つまり個人の何らかの独自性にちなんでいないと考えられる数を使いがちです。

度々出てくるアカウント名は、なんと末尾に生年月日を8桁で併記しているものだったのです。これはあまりにも個人を前面に押し出しすぎていて、自作自演を目的としたアカウントであるとは考えにくい。4桁で生年だけ、あるいは生月日だけ書く人は結構いるのですが、8桁書いてしまう人はほとんど個人情報を隠すつもりのない人だと言えます。職種の特定できる投稿や、個人が特定できる写真などを気兼ねなく公開できるクラスの人です。

そんな人がNHKの番組の時だけ饒舌になったり、あるいは生年月日まで公開してるのに私生活は慎ましく秘匿しているなんてことはどこかバランスの悪さを感じてしまいます。はっきりとは思い至らなくても、なんとなく抵抗感が出るもので自作自演のために用意したアカウントとは考えにくいでしょう。


実際問題、自分自身どういう姿勢なのかというと、自作自演自体は容認していいと考えています。問題なのは視聴者が疑念を持つ事、つまり偏った意見ばかり表示していると感じてしまう事です。もし自作自演であっても、世論をバランス良く反映していればツイッターを見ていない視聴者としては不平の出る余地はありません。もちろん、自作自演は明確な根拠が公になっていない事が前提です。番組視聴者の圧倒的多数はツイッターを見ながらではないでしょう。それ故、ネット上で大騒動にならない程度の問題であれば番組的には実質大したことではないのです。実際、番組の進行上不都合な投稿を表示しないなど、実際そういう経緯なのかどうかはわかりませんが、そんな不満をぶちまけるユーザーもいます。売国だ、などと過激に批判する人もいます。匿名社会ですから不思議ではありません。でも、そんな情報はほとんど世に出回らず、その場で火がくすぶる程度です。

みんなが平和でいられればそれ自体が悪である嘘をついても容認されるのか、という倫理的に重要な問題もありますが、テレビをはじめとしたメディアというのは程度の差はあれ自作自演の溢れる業界だと思います。バラエティ番組でスタジオから笑い声が起こったりしますが、実際にオーディエンスがいたとしてもその人達は番組の製作する上で適した人を招待しているわけで、元を正せば作為的な要素があるのです。しかし、その程度であれば誰が聞いても納得するし、けしからんと言い立てる人はそういないでしょう。問題は、視聴者からの意見を生情報としてそのまま伝えているかのような誤解を招きかねないやり方にあるのです。

ウェブサイト上でツイッターの投稿を表示する窓を設置する事ができますが、それは検索ワードやアカウント名を指定することしかできず、時系列に沿った全ての情報が表示されます。一般的なものであれば恣意的な選択をすることができないことになっているのです。番組内で投稿の表示方法がその窓を彷彿とさせるものであり、あたかも平等に、あるいは無作為に表示されているように見えてしまいます。ユーザーの操作とは関係なく一定時間が経過すると窓の中が自動でスクロールして次の投稿に移り変わる点や、出演者が読み上げるためにピックアップされているわけではないなどの特徴があるためです。

この誤解さえなければ、単純に番組だけを視聴している側からの違和感は解決されます。例えば、読み上げるために表示をするだとか、意見の傾向ごとにスタッフが並び替えてまとめて表示するなど。問題の解決策はいくらでもあるのです。画面内を調整する事を考えると、ツイッターのデザイン手法に似せるというのは“ツイッターです”感が出る最良の方法でしょうから制作側としても捨てがたいのでしょう。まあ、そんな下らないこだわりの優先順位はって話なんですけどね。




最初に自作自演を疑った議論をしましたが、結果的にしっぽを掴めるようなものはありませんでした。推測を押しつけて議論する他ないのです。善し悪しを議論する前から前提条件が整っていないためです。そのため、整然とした議論のできる論点を探す必要があります。この場合公平性と実直さを中心に議論する事で解決しています。手元にある情報より読み取れる事実だけから効果的な問題提起をできる論点を探し出す事が重要だと思います。後者の結論によって前者の問題点こそ解決できなくとも問題それ自体を回避する事ができます。

普段からそういう心がけで議論をしているのですが、他の人と話していると大まかな問題の方向性は共有していても具体的なポイントがずれている、その上相手が理解してくれないという事が多々あります。直感的に愚鈍な違和感に体当たりするだけでは思考力は養えません。押してダメなら引いてみな、ではありませんが問題を根こそぎ解決できる大きな枠を視野に入れた手法を見つけられなければ、いつまで経っても水掛け論を卒業できないのです。

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