って高校の時、物理の先生に言われたのが強く印象に残っています。
宿題をいつまでも出さなかったある日の事でした。
こうこう、と打ち込んで硬鋼が筆頭候補になる理系あるあるネタはそろそろ封印しようと思います。
その先生はどちらかというと、自分と同じ側の人間だったように思います。
時たま口癖のようにこう言っていました。
“先生はなぁ、人間はresistantだと思ぅとるんよ”
電気回路におけるR記号の説明の時だったかと思います。
正直、物理学とは何の関係もないわけなんですが。
自分にとってこの意見は完全に同意することはできないものの、
大筋では同じ考えを持っていました。
人は何かに逆らおうとして生きていく。
付け加えて、確かそんな事を言っていたと思います。
勉強しろと言われれば、いやだとそれを突っぱねる。それが人として自然な生き方だ。
みたいなそんな言い方だったと思います。
おそらく、性善説性悪説みたいなレベルでの話でしょう。
それを聞いた当時から自分の持つ意見とは違うと思っていましたが、
間違った考えだとは今でも思いません。
大抵そういう定理のようなものを自分で抱いている人は、
それを裏付ける何かを持ち合わせているものでしょう。
一旦円環のように考えを構成すると自己の中で矛盾を持たないものですから、
その世界観を知ろうともせず闇雲に否定しても、何の進展もありませんしね。
対して自分の意見はこうでした。
大雑把に、そして右か左かと言うほど乱暴に考えるならば氏と同じでしょう。
流れに逆らおうとする人がいる。
似たようなことを言っているというのはわかるでしょうが、
人によって何が違うと感じるかは様々かもしれません。
さて、普通の人が聞けばそりゃそうだと思うわけですが、
この件については以前の記事で書きました。
言葉に直せば当然の事なんだけど、本人の中では妙な合理性がある、という話。
最近過去の記事にバックホームしてばっかで申し訳ないですけど、
それっくらい読者のこと無視して話を進めてるのでごめんなさいね。
探すのが面倒でリンクも張らない引用もしないクラスのクズですが。はい。
それで、この一文の持つ意味は何かと一応解説しておきます。
例えばトレンドなんかが流れに例えられますが、
多くの人が身を任せる風潮や常識に対して猜疑心を抱いたり、
あるいは誰も持たなかった視点で本質に切り込んだりと、
そういう人がいる。ただそれだけを述べています。
この一文では流れの大小、あるいは人の割合、立場について一切触れていません。
万人に通じるように言葉で縛っているわけではないというのが一つの特徴でしょう。
ニュアンスの中で均衡を保っている、本当に誰に話しても意味を成さない文句です。
しかし、実はこういった曖昧な言葉が、ただ本人にのみ呪文のような効果を発揮するのです。
意識せずとも関わっている人が多いんじゃないかと勝手に思ってますけれども。
自己暗示です。
そろそろ言わなくてもわかってくれると信じてますけど、ここで言う
“
流れに逆らおうとする人
”っていうのはつまり自分のことなんです。
知らぬうちに自分の存在を認めるための教訓のように扱っているのです。
時として大きな流れの中に自分がいることを見つけたとしても、
流されることが決して良いわけではないというのを自分自身に聞かせるため。
少なくともある一時におけるかつての自分がそう確信を持った事を伝えるため。
予め土地に杙を深く打ち込んでおき、周りでどんな水流が起ころうとも
自分を見失わないための係船柱のような役割を果たします。
いざというときには誰かに後押しされているかのような自信を生み出す、
実は結構頼りになる思想なんですが、思えばそれ自体自分で作り出したものですから、
自分の背中を自分で押す、一種の永久機関のようなものと言えるかもしれません。
ちなみに、この“流れ”に関する考えはあるゲームがきっかけでした。
そのゲームは今でもたまにやりたくなりますけど、
ある背骨のしっかりとした信念を貫く二人の主人公が、
様々な葛藤と戦いながら物語を進めていくゲームでした。
もしかするとその頃からかもしれませんが、
物事に対する視点の置き方の重要性をしっかりと意識するようになりました。
この深い話はまた次の機会にしたいと思いますが、
自分の中には、自分の棲む水槽を外から俯瞰する大胆な視点があります。
この辺は未だに不確定な部分があるので
一つの論を確立するには時間がかかるかもしれませんが、
そのうち紹介できればと思います。
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