2013年8月29日木曜日

一意性

わかりやすい言い方って大事ですよね。

小学校で自分が使った国語の教科書にあったのは「ここではきものをぬいでください」。ここで履き物、なのか、ここでは着物、なのかというとんちのような問題でした。
例えそういった札がかかっていたとしても、この内容なら常識的に判断がつくでしょう。しかし、実際には常識だけでは判断のできない難しい文章もあります。

意識してやっているわけではないですが、自分の中でスローガンのように長期間一つのフレーズが掲げられ続けることがあって、ここ数ヶ月か数年かは「一意性」というのが課題になっています。
かつては「完全性」とか「冗長性」とか更に他にもいろいろあった気がしますけど、ふと忘れて新しいフレーズが取って代わっていたりします。メモをしているわけではないので正確でないですが、だいたい1年から2年ぐらいの間で交代しているでしょうか。

一意性という言葉はあまり一般的には使われていないし、自分の使い方が学術的に正しいのかもわかりませんが、ここで一意とは「ある一通りの解釈の他に意味を持たない」ことを意味していると思ってください。

実はこの性質を考察する基礎には冗長性への思索がありました。冗長というのは雑に言うと「無駄のある」という意味で、自分から冗長な文章を駆逐しようという試みから始まります。だらだらと長い文章しか書けないと、読んでいる方も退屈で結局何を言いたかったのか伝わらないかもしれないし、それどころか書いている本人すら考えがまとまっていない可能性だってあります。
その点、しゃきっとさっぱりした文章を書けるようになれば自分の考えも整理できて他の人にも気軽に読んでもらえます。一石二鳥ですね。
この事はどんな場での文章にも言えることですが、はっきりと意識させられたのはツイッターを利用しているときです。ツイッターは140字の文字数制限があって、あまり複雑だったり細かい事を記述するには不向きです。それでもその性質上、タイムリーな話題にナチュラルに言及しやすい特性もあってそのバランス感の難しいところがあります。例えば、今まさに放送しているニュースで取り扱った社会問題に対して自分の考えを言いたいときなんかは典型です。
長文を複数の投稿に分割する手段や、ブログに記事を書いてリンクを貼るなんて方法もありますが、やはり一つの投稿に絞った方が読む側としては楽ですよね。興味が無ければ読み飛ばせるし、わざわざリンク踏んでガッカリっていうのも骨折りですから。
短文化はツイッターだけではなく、にちゃんねるなどでも有効です。あんまり長い文章を書くと誰からも反応がなかったり、「どこを縦読み?」なんて言われかねません。誤字脱字や文法上の誤りなんかはわざわざ訂正したりされたりするとみんなで無駄にウンザリしちゃうので論外ですけど、反応を求めるからこそ意見を絞って論点を集中させるというのが大事だったりもします。

冗長な文章の問題点は議題をぼかすだけではありません。場合によっては意図しない解釈をされる可能性があるのです。蛇足という言葉は蛇の絵に足を書き足してしまう故事に由来するそうですが、冗長になるとうっかりその「足」のように本来あってはいけないものを付け足してしまうかもしれません。パソコンで文章を作っているのであれば推敲の過程で防げても、もし喋ってる最中だったら考えの一貫しない人だとレッテルを貼られかねません。
言葉に人間味を持たせたり、表現を和らげたりするにはちょっと回りくどいぐらいが良いですが、何か意見を言いたい時、とりわけ反論したりされたりする時はすっきりシャープな姿勢を見せたいものです。

一昔前の若者言葉で「~なくなくない?」のような面白い言い回しが取りざたされた事がありました。二重否定と肯定の役割を考えてみると、最終的な着地点は近いものの厳密には意味が違っていて、その微妙なニュアンスの違いに価値があるので共存できている状況なのかと思います。しかし、場合によってはその価値がむしろ邪魔になりはしないでしょうか。
単純に肯定するよりも二重に否定する方が文字数が長くなるのはもちろん、文法的にも意味構造としても複雑になります。そうすることで考えるのに少しだけ余計に時間をかけさせることができます。できる一方で、時間をかけるよう余儀なくもしているので、必要以上に意識させてしまう事もあります。つまり、主題ではないところに目立つものを置くことになりかねないという事です。
的を絞って議論をしたいのであれば余計な(その如何が議題に影響しない)ところで価値を見いだそうとするのは一種の冗長性とも言えるのです。

大きい論点の他に小さい論点が散在している状況は、ある意味では一意的ではなく、論点を変えれば違った“意味”を解釈できます。あまり風呂敷を広げすぎてもいけませんが、この「冗長性」がないか、あるいは「一意性」があるかを疑う習慣は自分の考えを形作る上で一つの確かな方法だと思います。余分な部分や複雑な回りくどい雑念を取り払い、自分自身の外見をよりきれいな形で浮き彫りにすることができます。

さて、いろいろな拡大解釈ができますが、これからは狭い意味での一意性について扱おうと思います。複数の全く違った意味に捉えられるかどうかという点です。
電報の活躍していた時代の笑い話として「カネオクレタノム(金送れ、頼む/金をくれた。飲む)」「ヒルルスバンニコイ(昼、留守番に来い/昼、留守、晩に来い)」などがあった(田中章夫『日本語雑記帳』岩波新書)そうです。数文字単位で料金が上がり、その上使える文字種にも制限があったのですからツイッターどころの話ではありませんね。
電報は極端な例として、ココデハキモノヲ・・・のように普通に実生活でまかり通るものでも一意性のないフレーズは簡単に作れます。研究をしているわけではないので体系的に説明はできませんが、例えば<名詞+動詞>の形であればわかりやすいでしょうか。
「タロウ殺した」。口語的によく使われる構成で、ジロウ食ったでもサブロウ飲ませたでも良いでしょう。タロウを/タロウが、ジロウを/ジロウが、サブロウが/サブロウに、という風に省略された助詞を補えば複数の意味が発生するとわかります。常識で考えればジロウとかわかるじゃない、と思われるかもしれませんが、ジロウがサメの名だったら?
一般に判別できる場合が多くとも、そうではない特別な状況があり得るということを知っておかなければなりません。

よく外人さんが単語以外、接続詞とか助詞とかいろいろぐちゃぐちゃな日本語を喋ってたりしますが、それでもある程度の意思が読み取れるのは我々が文字通りの解釈をしていないのと、細かいニュアンスに拘らず人情的に推測をしているからです。外人さんからしても同じで、完璧な日本語を喋ってる自覚はないし、細かいニュアンスを理解してもらうのは難しいと理解しているはずです。
しかし、我々日本語話者同士が会話するときは細かな文法上の違いを意識するし、例えば常識的には通常使わない失礼な言い方をされた時は、つまりそういう事なんだと理解します。
だから、それなりに文法の正しさは意識しなければならないし、助詞を省略するなら自分の常識の通用しない相手であっても曲解しえない範囲に留めねばならなりません。
 何を言っているんだと思われる方もいるでしょうが、自分の経験上誤字の多い人はこの多義的な書き方をする事が多いように思います。推論ですが、誤字をしがちな人というのは自分の書いた(入力した)文を注意深く読み直すことなく発信しているのではないかと考えられます。その分独りよがりで(読みやすさに関して)一方的に押し付ける文章が仕上がるのではないでしょうか。
家に帰るまでが遠足。ならぬ、読み手が理解するまでが文章。である。
仲のよい身内ばかりと会話しているとお互いに性格もよく理解しているし、言いたいこともなんとなく察してくれます。そういう環境では細かい文法や大胆な省略さえも気にならなくなるでしょうが、手書きですらない無機質な活字にしてしまうとそれらの感覚もなかなか伝わらなくなってしまうものです。


個人でこうして好き勝手にブログで文字を書いていると、本当に言いたいことがいろいろあって仕方がない。しかし、その全てはおろか半分、いや四分の一すら書き記すことはできない事を悔しく思うこともある。喫茶店で世間話をしているのであれば思い付いたことをだいたい言えるかも知れないが、不特定多数に向けている以上突然話題を変えるわけにはいかないし、余談すら憚られる。文中でも触れたが細かいニュアンスに於いても自分には主張したいことが山ほどある。それでも今の自分が求めているのはより高度な説得力であることを考えればなるべく無駄な枝は落とし、よりシンプルで一貫した幹を作れるようにならねばならないと思ったのだ。これまで受けてきた些細な勘違いや都合のいい解釈は全てこの糧として活きている。まだ書きたいことが納得のいくだけ書けている訳ではないが、かつての自分に見せるのであれば十分胸を張れるものだと思っている。いつの時もそうだが、今の自分が見てスゴいと思って貰えるような未来の自分になりたいものである。

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