2010年10月22日金曜日

いつの間にか週一回の更新になってきました

特に書くこともないんだけどね。近況報告。

前の日曜日は群馬へ行ってました。

前回と同じコースでレースです。

前回よりも距離が長く、持久戦な予定でしたけど、

スタート直後にクリートが嵌らなくて集団後方へ後退。

予想外にハイペースで、集団の中切れが発生してグルペット。

集団を追いかけようと元気よく下って時速60とか出してたけど、

結局追いつかず後半は体力が切れて完走がやっと。

48kmの山は辛い。

その前日に平地を50km割と気合い入れて走ったのもまずかった。

レース半分ぐらいでケツの筋肉が限界に達した。

普段の練習で追い込むのは良いけど、前日に追い込むのはまずかったね。

まぁ、それ以前に、リカバリー能力が足りなかったんだけどね。

ロードに乗り始めて半年ですけど、トレーニングが不足してますね。

トレーニングもですけど、基礎体力が欲しい。割と欲しい。

小学生時代から上半身を使うスポーツを一切やってなかったので、

その辺を何とかしたいなと思いつつ、今の下宿は懸垂のできるところもなく、

腹筋背筋その他、効率よく鍛えられる環境にないんですね。

ベランダの洗濯物干しで懸垂してた時期もありましたけど、

これからの季節は寒いんですねー。これまでは蚊がいたからって理由でやってなかったですけど。

近所の公園の鉄棒にでも通おうかとも考えてみたりみなかったり。

まぁ、その辺は追々。



アルバイトも探さにゃならんのになー。

木曜は午後の講義が無いんですけど、雨だったのでどこにも行けず。

週末は大宮方面へショッピングを兼ねてバイト探しの旅かな。

たまには浦和散策も良いかもしれない。

東京でweb関係の面白そうなバイトが交通費支給であったから申し込んでみたら、

応募者多数のため遠方の方はお断りって、なら埼玉を募集範囲から外せと。

ほんと埼玉は飲食アパレルサービス業しかない。

ベッドタウンの需要にあわせた仕事しかないとはつくづく感じる。

与野あたりの家電屋で探すかなー。

冬物をそろそろ調達しないと、来週の最低気温は10度とかになってて死にそう。

群馬はなんだかんだでレース中は寒くなかったからどうにかなったんだけどねー。

今日も昼寝してたら、日が沈んでから寒くなってたもんね。

冬を肌で感じる季節だよ。37度が懐かしい。



そういえば最近誕生日だったんですけど、

前日の夜に親から電話が来るまで完全に忘れてましてね。

ほんとに前日の9時とかに言われて、3秒考えましたからね。

ぶっちゃけた話、誕生日が重要なのって20歳の時だけですよね。

20歳でいろいろと社会的な扱いが変わり、制限が解除されるわけですから。

選挙で出馬する人はまたもう少しありますけど。

18歳も一見重要に見えますが、18歳以上(但し高校生を除く)とかが多いので、

あまり関係ないかと。クレカとか、ある程度のお金の取扱ができるようにはなりますね。

あ、さっさと結婚したい人は関係ありますね。女性の場合は16歳ですか。

俺には当分縁のない話だが。

で、なんで俺がそんなに誕生日を軽視するかってのには一応理由がありまして。

まぁ、記念日とかは元々完全に意味がないので逆に価値があるかとも考えてるんですが。

誕生日ってのは暦の上に成り立ってますよね。主に365日を一年としたサイクルの中で。

で、その365日ってのは地球の公転がたまたまその日数だったというだけで、

公転の都合によっては20年が19年相当や21年相当の歳月だったかもしれない。

20という数字も、現在最も主流な10進数に基づくものであり、生物学的な根拠は無い。

ただ、歴史的には寿命を考えて16歳ぐらいが妥当であったものと思う。

また、教育機関の問題もある。

日本においては小学中学が義務教育であると言うことはわざわざ言及する必要もないが、

この制度は中学生までをあくまでも子どもである、ということを揺るぎないものにしている。

普通科高校に進学すれば、卒業までは事実上初等教育を受けていることになり、

多くは18歳に至っても社会での実践的な能力はあまり無いように思える。

そんな社会的風潮もあるだろうが、18歳、つまり高校卒業相当の年齢に満たない状態で、

自立する事自体非常識と考えられがちである。

本当にそうだろうか?

小学校卒業以降、中学校での教育と平行して実務的な教育を施せば、

社会で自立できるだけの能力は与えることが出来るのではないかと思う。

中学レベルの技術科・家庭科の教育はあくまでも建前であり、

イントロダクションとしてしか機能していない。

研究職などの高等な知能を必要とする職に就くには、実際大学に行く必要がある。

ただ、それ以外の歯車なら高校すら行く必要は無いのではないか。

理科や社会科は、教育としてではなく、社会に出た人間が身につけるべき”教養”として扱えば、

あくまでも成績のためにしか勉強しなかった場合よりも、知識として定着するのではないか。

ただ、教科書のようなガイドラインはあった方が良いだろう。

話が逸れたが、年齢によって社会的な成長が計れるわけではないことを重ねて言う。

日本における成人年齢に関する議論が去年あたりに活発に行われていたが、

個人的には、年齢を上下させるよりも、”成人する”事の責任を軽くするべきでないかと思う。

成人することで大人になると考える人は多いようだが、

生物学的な言葉を借りると、成人とは変態ではなく進化であり、段階的な変化ですらない。

その過程は区切ることが出来ないのである。

年齢の概念は区別の典型であり、小数点も分数もない。

ある瞬間に於いて数字が加算され、その後一年間はずっとその年齢で居続ける。

そして、また否応なく年齢を1つ上げる。

根拠のない節目があっていいのかと疑問に思う。

入学卒業入社退社は紛れもなく節目であり、

その時期は確かに自転公転でたまたま決まったものだが、それは便宜上仕方ないと思っている。

前述したが、記念日は完全に根拠がない故にむしろ意味があると感じる。

何周年を迎えようと、効力は何もない。

時を重ねて価値が上がるのはワインぐらいなものだ。

数字が増えても時の流れを実感するだけ。

むしろ定期的に歴史を振り返るためには有効である。

誕生日とは違う点が多々あるだろう。

こういう訳で誕生日を非常に軽視しているわけだが、

そんな事情を知らない人の誕生日に何の連絡もしないわけにはいかないから厄介だ。

誰かこの思想を拡散してくれー。






メビウス生産打ち切りだってね。お疲れSHARP。

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