2011年5月15日日曜日

アニメって難しいよね

つるこちゃんの事が気になって夜も眠れないの。

いや、若干マジな話なんですけどね。

鶴見さんって設定上頭良いじゃないですか。

学力的なお話ではなくて、ですね。

今後の流れを誘導するように、人知れずお膳立てしてる人物なんですね。

「あの花」自体が心理描写を主題にしたアニメかと思うんですけど、

心を描くのが一番難しいのってやっぱり賢い人だと思うんですね。



本能的に動いてる人ってわかりやすいんです。

一方で、知能で行動を制御してる人はわかりにくいんですね。

自分自身はご存じの通りひねくれ者なんで、知性によって性格を矯正してきました。

普通の人”本能的に動く人”とは違うことがしたかったんですね。

相手に自分の心を読まれたくないという思いもありました。

自分はかつて(今もかもしれないけど)赤面症だった時期がありまして、

小学校4年位からですかね。恥の概念を習得したんでしょうね。

あの頃は、結果的に恥じる事になるかどうかの経験が浅かったので大変でしたね。

自分が恥じていることを知られること自体も恥ずかしかった記憶がありますね。

中学2年ぐらいになると、自分が恥ずかしいことをしても、

それを顔に出さない、つまり相手に自分に不利な感情を悟られないにはどうすればいいか、

ということを試行錯誤し始めていたと思います。

誰かに相談したことはありませんでした。全て自分の内面だけで消化しようと考えていましたね。

自分の悩み、つまり感情の一種を相手に打ち明けないこと自体もその一環だったんです。

悩み(というほど深刻ではなかったが)を抱えていると悟られない事も、

不利な状況を作らないために重要だと感じていたのでしょう。

直面の課題として赤面症の克服があったわけですが、

この件以外でも自己の性格を”矯正”する基本スタンスは今までの長い間同じです。



さて、”恥じない”ために何ができるか。

この件の対策は当然ここからスタートするわけです。

 ・恥をかかないようにする(事前に回避する)

 ・恥でないことにする(事後に逃避する)

あ、ちなみにこの辺は長期的に頭の中で組み立てた話であって、メモとかの証拠は残ってないです。

読みやすいように綺麗にまとめてますけど、実際は混沌と概念を練ってた感じですね。たぶん。



自分の性格(・行動)を理想に近づけたり、現状より良い状態にしたい時は決まって他の人を見ます。

ある結果に対して、どこを修正すれば望んだ結果に至ったかを最初に考えて、

そこを修正した上で本当に望んだ結果になったであろうかを再び考えます。



ここでかなりの時間を費やします。

修正点は割と簡単に見つかるんですよ。

でも、どう修正すればいいかはなかなかわからないものです。

そこで他の人に目を向けるんですね。

他の人は、今自分の課題となっている状況に置かれたときどう対応するか。

あの人だったらこんな対応をするかな。でもそれじゃ俺の場合とあまり変わらないか。

あの人の対応の仕方は俺の性格に合わないし、プライドが許さないな。

そんなことを延々と考えるんです。

人物を使ってシュミレーションするんですね。もちろん脳内で。

その人物、というのは実在する人物ばかりではありません。

実在する人物から特定の要素を抽出したり、小説、ドラマ、アニメ、漫画などなど、

あらゆる”人物”のあらゆる性格を組み合わせて対応させるんです。

ちなみに、これに終わりはありません。

ふと思い出したとき、思いついた人に思いついたシチュエーションで動いてもらうんです。

ちなみに、これが正確である必要はありません。

実社会でやってみたら別の動きをするかもしれません。

しかしそんなことは重要ではないのです。

この場合優先されるべきなのは、バリエーションのストックなのです。

ある状況で、ある対応をしたとき、周囲はどうなるか。

この3段を繰り返し組み替えながらストックをためていきます。



ストックの数は重要ではありません。

似通ったものは結果的に同化されます。

極端な例を多く把握しておけば、理想的な”周囲がどうなるか”へ近づけることができるんです。

この時、実はシミュレーションは4段であるべきだと気付くんですね。

ある状況で、ある対応をしたとき、周囲はどうなるか。結果として周囲にとっての自分はどうなるか。

つまり、間接的に定義される”自分”をも考慮しなければ、ストックの価値が低下するんです。

自分の性格に合わない対応をした時、長期的な視点から見ると、他人からの評価の変化に繋がります。

それが想定した上で望んだ方向ならば問題ないのですが、

評価があらぬ方向に向いてしまうと想定するべきシチュエーションが増えるんです。

ある結果を優先した事で、例えば寡黙な人が饒舌に語り出すと、

それはその場に於いての周囲にとって、評価を変える事になります。

あの人実は結構喋るんだね。興味ないんだと思ってたのに意外と熱心なんだ。



シチュエーションで重要な要因の一つに先入観があります。

好きな女の子に思いを伝えたいけど、前話したときに変なことを言った。

相手は自分のことを変な人だと思っている。

誤解を解いた上で思いを伝えなければ拒まれるだろう。

相手にとっての”自分”の先入観は 相手=”周囲” を動かす上で重要になります。

時に重要でない場合も往々にしてあり得る話なので、

そういうシチュエーションはそういうものとして別の括りにしておきます。

例えば、公共交通機関などで知らない人に囲まれている状態と、学校で顔見知りしか居ない場合。

それぞれにおいての先入観は違いますが、これは変化しない限り一定です。



公共の場では自分の身なりと場所によって変動しますが、そこは大まかに想定しておきます。

閉鎖的で顔見知りばかりの場合、昨日喋った内容によって先入観が異なります。

例えば、突然うんこを漏らしたらそれはその社会が解散するまでレッテルとしてまとわりつきます。

そこまでは行かなくても、普段異性の話をしない人が何かのきっかけで好みについて情報を明かすと、

むっつりスケベとか、特殊な趣向をもった人だとか認識されます。

それはこれまで構築されてきた”人物像”に反する情報であることが多いのだと思います。

自分の場合、その人物像に深刻な傷を付けることなく回避するあらゆる方法も模索しました。

ただし、最初はそうではなかったんです。



最初は小学校6年生でした。

中学に入って冷静な性格を作り上げようと考えていました。

何度も言いますが漠然と、です。

小学校の高学年では既に冷静な面がありましたが、

低学年時代に作った感情的な人格も持ち合わせていました。

恐らくですが、ノリで友人とつきあっていた自分に疲れを感じていたのでしょう。

ごく僅かな知り合いしかいない中学校生活で新しい人格を作るのは容易でした。

自分の小学校低学年時代を知っているのはわずか数名。

更に、その数名とは滅多に交流しない生活を始めました。

感情を表に出すのが面倒になっていた自分は特に無理をすることもなく、

スムーズに冷静になり得たのです。

今でもそうですが、猫を被っている意識はありません。

偽りを押し通すと疲れることは知っていたし、

偽ることのメリットはそもそも見あたらなかったので楽でしたね。

昔持っていた感情は退化しているんじゃないか、とも考えていますが、それもまた今後の課題です。



冷静であることは感情の起伏を表面に出さないことに直結します。

赤面症の克服ですね。

まず、恥をかかないように(事前回避)するために何ができるか。

堂々と構える、事前に話題をそらす、その場を去る など

次に、恥でないことにする(事後逃避)には何が有効か。

慣れる、社会的に当然であることにする、考えない など

他の人を見ていて あ、逸らしたな とか 動揺してないな とかを感じることがあったんですね。

あれは俺でもできるのか?普段から何に気を配れば落ち着いていられるのか考えましたね。

当然ですが、中学生に人生経験はありません。

とにかく場数を踏んでいくしかないんです。

例えば、テストで悪い点を取ったとき、他の人に点数を聞かれたとしましょう。

一般的に、教えたくない という感情を持つ人が多いのではないでしょうか。

しかし、そこで本能的な反応を見せると、多くの情報を相手に渡すことになります。

何点だった?と聞かれて狼狽えると、相手の攻撃を自分が受ける、という図式になります。

ここで何事もなく、昨日シャーペン買ったんだ、みたいな淡々とした口調で受け流せば、

その場での立ち位置をうまい具合に操作できますね。

今後も長い付き合いがある事が前提としてあるならば、ここで譲歩することも有効です。

12点だったよ。そんな事聞いてどうするんだ?

ここでキーとなるのは、相手の点数を尋ねないことです。

相手の点数が何点であっても自分が動じない様子と、相手の点数に興味がないと思うでしょう。

間髪を入れず次の話題・作業に移り、興味がないことを強調すれば、

今後同様な状況になった場合に”先入観”を利用できるようになるのです。

自分がその話題を面白くないと感じている(ことにしてる)事を知っている(ことになった)と、

次の機会に聞く行為が憚られるようになります。

もちろん、一概にそうとは言えず、相手の性格をある程度知った上で柔軟に対応しないと

足元を掬われる結果になるので、基本となる理論の展開の仕方だと思って下さい。

こういう流れを事前に想定していれば、そうでない場合よりも、

自分にとって比較的良い流れになるのではないか。



最初は自分が失敗した出来事から。

次は他の人が失敗した出来事。

他の人をうまいと思った事。

自分の何気ない反応を振り返って、改善できないか。

何もしていない時に、ここでこうしたら周りの人はどう思うかな、

という考えを自然に繰り広げていれば免許皆伝です。



ただし、ここまでの話で根本的に注意するべきところを言わせて頂くと、

脳内で仮想の人を動かせない人には無理です。

あくまで、仮想の人が現実的に考えて常識を逸脱しない範囲で行動することが前提です。

シミュレーションと現実が大きく乖離していれば、いかなるストックも応用できませんし、

思わぬ結果を得ることになるので、今まで通りに何も考えずに生活していくべきだと思います。

それとですね。

たぶんですけど、友達が多くて物思いにふける時間のない人には無理な話だと思います。

先にも言いましたが、ストックのバリエーションとそれを応用する能力が重要です。

単語とその使用方法をいくつ知ってるかが大きいんですね。



それとそもそもあれですよ、感情を隠そうとしない素直な人はこんな事考えなくて良いですからね。

素直じゃないけど正直なあまのじゃくってのはこんな事ばかり考えてます。



最後に、まじめに考えながら全文をここまで読んだ方に少し。

この文章を読ませた上で自分はこのブログの管理者として、読者がどういう目で自分を見るのか、

その調整をしているということを気付かねばなりません。


ある状況で、ある行動を起こして、結果どうなるか。

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