2011年6月6日月曜日

アニメって難しいけどさ

究極的に言えば作り話なんだし、

制作側がそこまで考えて作ってるかって言われると微妙なんだよね。

作ってる人が俺よりも人に敏感な感性を持っていれば申し分なく楽しめるんですけれどもね。



さて、前回の続きですが、人間らしい行動を予測できるようになったらどうなるのか。

今日はその辺の話からしましょうかね。


※前回読んでつまんなかったと思った人は、今日の記事も面白くないので遠慮無く飛ばして下さい。


頭の中である程度妥当な応答が予測できるようになったら、その次に何があるのか。

自分の場合、言葉を選ぶようになりました。

同じ意味の文章を二つ並べても、相手に伝わる内容は違います。

いや、内容は同じでも、調子が違います。

伝達する目的の情報そのものに差異は無いかもしれません。

しかし、相手には必要以上の情報が伝わります。

便せんを包む封筒のような、程度としてはそれほど重要ではないものですが、

長期的な視点から見れば、本来無視されるべき要素ではないのかもしれません。



あくまで日本語に限った話ですが、

まず一人称を使い分けることで相手に与える印象を操作できます。

わかりやすいものから挙げていけば、

語尾や方言、尊敬謙遜丁寧、表現の程度、語り手の視点などです。

何を言っているのかよくわからない人のために、少し具体的に説明しますと、

語尾を「~だ」、「~だよ」、「~だぜ」と調整することで、

自分が相手に対してどのような立場から情報を伝えているのかが変化します。

もちろん、そんなことを気にして使い分けてる人ばかりではないでしょうが、

無意識のうちに、あるいは性格として傾向が見られるでしょう。

このあたりのことは文献に頼らない自分よりも、

言語学者さんの本でも読んでればそれらしいことを書いてるんじゃないですかね。

ここで言いたいのは、ある一つの根源的な概念からどこまで拡大できるか、

そして自分の場合はどういう展開をしてきたか、ということなので、

一般に正しいとされている理論と反することがあっても、

それが真か偽かは今回重要でないんですね。



自分は国語の授業は退屈で仕方なかった部類の人間なんですが、

文章の持つ意味にはそれほど魅力を感じないものの、文節に隠された情報には興味がありました。

筆者は何を思ってこの言葉を選んだのか。

別の表現に行き着かなかった理由は何なのか。


小学生の頃の話になりますが、人の動きを完全に予測することが可能かどうか、

という問いに挑んだことがありました。

記憶に残ってるのは何故かプールの時間。

50mのタイムを計測していた時だったのかもしれない。

その時に考えていたのは酸素濃度の微少な違いでパフォーマンスが違うのではないかという、

今思えば馬鹿げた事を、当時は熱心に考えていた。

同時に、酸素が多ければ思考も活発になり、

行動にも影響を及ぼすのではないかというのが仮説だった。

しかし、次第に考慮すべき要因は酸素ではないと考え始めた。

過去の経験によって行動に差異が出るのか、と。

昨日見たテレビ番組によって今日の気分が変わったり、

昨日の帰り道に見つけた何かに対して何を考えたか。

次の瞬間を予測するには、

その人が産まれてから今まで感じたもの全てを知る必要があるのではないか。

それも、ただ単に行動を共にするのではなく、隣にいた人には見えなくとも、

本人には見えたものなどを全て把握しておかなければ予測できないのではないか。

少なくともそのためには、その人が生きた時間を消費する必要があるだろうという事。

その上、自覚することなく感じ取ったもの、本人にも理由のわからない好き嫌いなど、

経験したから理解できるというわけでは無さそうだ。・・・など。


小学生の時分なので、どこまで考えが深く至っていたのか定かではないが、

少なくともこの辺りまでは至っていたと記憶する。


そしてこの事は人の行動に限らなかった。

角材に力を加えたらどこまで耐えるか。耐えられない時はどうなるか。

これは小学生の頃に物を壊して回った経験が生きている。

ネジをきつく締めたら圧力で素材が破断したり、シールを剥がすときに痕が残ったり。

バネを引っ張ったら元に戻らない。強度の低いプラスチックの質感の違い。

廃材を触っているときに知ったガラスの割れ方は、類を見ない反応で衝撃だった。

それは中学生頃か。

身近な素材の性質を体で覚えた経験は重要だと思う。

いや、決して重要でない気がするが、頭の中で予測する際に大いに役に立っている。

妄想力、とでも言っておこうか。名前はあまり重要でないが。

ただ、これには欠点がある。

根拠が不明瞭なために、他人と議論する際に説得力の欠片もない事である。

実際に、学問的に習熟していく過程で考えが否定された事もある。

あまり過信はできないが、それは現実的な範囲で誤差をとることによってうまく誤魔化している。


ものに対する予測は経験的に構成されるもので、

後から学術的なバックアップを受ける形になっている。

人に対しても概ね同じ傾向で、経験的に予測精度をある程度まで高めても、

必ず予想範囲を超えた応答が期待される。

その場合に誤差として捉えれば歪みが生じるので、新しい経験として蓄積するほか無い。

いたずらしたのに怒らなかった。何があったのかな。前の時と違うのは何か。


データベースは経験だけから蓄えられるものではなく、情報として得たものも生かされる。

テレビで見たマジシャンは人のテリトリーについての話をしていた。

横には狭く、前には広い、と。

見知らぬ人が横に並ぶ分にはあまり不快に感じないが、真正面で向き合って立つと不快に感じる。

なるほど、確かにそうだと感じた。

別の時だが、日本人は目を見て話すのが苦手だが、

インドだかネパールだか忘れたが、その辺の人は顔を近づけて話す習慣があるという。

生まれ育った文化によって根本的な人格が違ってくると改めて気付いたのは中学生の頃。


言葉の髭、と呼ばれるんだったかどうかは忘れたが、

そんな感じの事の話をマナー講座的な講師のおばさんがテレビでしていた。

えー とか あのー とか えーと みたいな、発音することに意味を持たない言葉の事だそうだ。

スピーチの際に上記のような余分な言葉をカットすることで相手に伝わりやすくなる、だったかな。

自分にとって重要なのは、”髭が印象に関わる”という事だったので、

おばさんの言いたいことは覚えていない。

自分が出した現段階での結論としては、

間合いを取るために重要な役割を果たしている、という事だった。


鉛筆とって、といきなり沈黙を破っても、相手はそれを十分聞き取れないことがある。

 え?

と聞き返されたとき、それは何をとれば良いのか把握できてないかもしれない。

 あのさ、

と最初に髭をつけて相手の注意を引いた上で発言すれば相手は鉛筆だと聞き取ってくれる。

あのさ という言葉に重要な意味は無く、理解する必要もない。

相手が最初の呼びかけを聞き取れなかったからといって、聞き返すこともそう無いだろう。

むしろ、呼びかけの常套句であるために、

一字一句聞き取らなくても頭で補完しているのではないかと思う。

話を転換する際にも”髭”は仕事をする。

急に違う話題を振っても相手がついて来られない場合があるが、

”髭”が相手の注意力を引きつけ、次にこの人が何かを話す、と待機することで

適応能力を高めることができるのではないかと思う。

集中力は常に高いレベルで維持することは難しく、必要なときに起伏を付けて応答することで

表面的に集中を維持できる、と思う。


話を聞く際にも、

相手の意図を読み取る時と自分で考える時を交互にとることで内容を深く理解できる。

ただ聞くだけではそのうち上の空、ということも珍しくないのではないだろうか。

聞いた情報から考えを発展させなくとも、ふーん、なるほど、と感じることは

少なくとも何かを考えている時であって、特に”なるほど”は自分の知識と辻褄が合うときや、

知識の延長として適合する場合ではないだろうか。

既存の知識を参照しながら話を聞くことで集中力に起伏ができる。

重要と感じた点をメモにとりながら既にあるメモと関連づけをするのも同様だ。

板書を淡々と写経するだけでは、馬の耳に念仏となるに過ぎない。


ちょっと展開しすぎているかとは思うが、情報を噛み砕いて理解するとはこういう事かと思う。

1の情報を受け取った際、かつて得た別の”1”と組み合わせて新しい1を蓄える。

結果2の情報で3の知識を得た、という構図。これは今も昔も自分の中で変わらない。

そもそも噛み砕かなければデータベースとして使いづらいし、応用が利かないと思う。

ただ、理解の範疇を超えた情報は鵜呑みにせざるを得ないのも確かだ。

これは既存の情報”1”として蓄えておく。踏み台となる機会を待って奥に潜むのである。



なんでだろうねー  と意見を求められた際に自分の仮説を話すと、

根拠の十分でない自分の意見に相手が納得をしてしまうことがある。

自分の知識で考え得る最適な仮説を、~だからじゃない?  と返答すると、

あー、なるほど  と、さも事実を理解したかのような返事をされることが複数人に見られる。

妙に相手が納得してしまうので、その場であくまで勝手な推測だと付け足す羽目になるのだが、

その人達曰く、どうも自分が言うとそれらしく聞こえるらしい。

自分の喋り方に自信があるように聞こえるのか、

内容の根拠が十分あるように感じられるのかはわからないが、

最近はその対策を少し考え始めている。


一時期、他人に問いかけることが苦手だった時期があった。

一部の人から自分が博識だと思われていた時期があったのだ。


確かに他人の知らないことを多く知っていた時期はあったのだが、

当然何でも知ってる訳ではない。

幼かったので、自分も何故か知識人を自負していて、

話相手の同級生に、自分が長けていると思われている分野で聞き返すことはできなかった。

神話を壊す行為を恐れたのだ。

今でこそ、自然に教えを請う手段をいくつか持ち合わせているが、

当時は如何に乗り切るかが課題だった。

クラス担任の印象としても、他から一目置かれる存在だったようだが、

その真相は知ったかぶりで辛うじて維持される単なる印象に過ぎなかった。


小学生の頃は、自分の突拍子もない発想力が微妙に評判だったのだが、

今思えば、相手にはない新しい刺激を楽しまれていたのだろうか。

逆に問われれば興が冷めるといった具合か。

出来上がってしまった場の雰囲気が壊れる行為だと感じていたのかもしれない。

当時の自分なりに空気を読んだ結果だった、

そう言えば周りの人は納得してくれるだろうか。



血液型に依存して性格に傾向が出るという説があって、

ブームに乗って血液型毎の取説みたいなのも出版されましたね。

自分はそんなの信じてないからね!って言ったら、君って~型でしょ、

とか言われてちょっと悔しかったりするんですが、

まだ血液型が性格に及ぼす影響の根拠は明確でないようですね。

社会心理学的には、周囲の作った性格が本人影響を及ぼす、ということも起こりうるようです。

無作為に選んだ生徒に対して、君は賢い、と言い続けると他の生徒よりも成績がよくなったり、

嘘から出た誠のような、そんなこともあり得るんだとか。


自分の場合もそうなのかもしれない。

何かきっかけはあったんでしょうけど、そこから他人が印象を作り、自覚を生み出し、

子供らしく他人の気を惹きたいがために、相手の要求に応えようとする。

するといつの間にか何もなかったところに塔が建っていた、と。

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