またしばらく空白期間がありましたが、そろそろなんか記事を書かないとなーなんて思ったり思わなかったり。まあ、誰に謝ってるのかよくわかんないですけど。
ここ最近の記事はなんか不必要に重い内容だったりする傾向があるのでなかなかホイホイ書けないんですよね。
いろいろ事情があって今年は暇なんで頻度を上げていこうと思うんですけど、これまでの分量でいくとそれなりにきついので(ぶっちゃけ書けるぐらいの技量は欲しいけど)前日とか一週間分のツイッターからネタを拾って掘り下げるみたいな形で、とにかく文字を起こす作業を習慣づけたいと思ってます。
流石に二日に一回以上書いてた高校時代まではいきませんけど最低週1でいきたいかと。
ただね、いろいろ書きたいネタがあっても今まさに独学で専門知識を強化してる分野もあって、中途半端な認識で公開したくないなってのがちらほらありまして。
まあ、要は今まで通り気ままにやるけど記事の数は増やしたいよって事です。
言ったとおり時間がなにぶん余るものですから、ちょっと大学の図書館で専門書とか読みあさろうかとかいろいろ画策したりするんですけど、よくよく考えたら、考えなくてもこれまでもそこまで時間が逼迫していたわけではないんですよね。
実際問題やる気があるかどうかというところに落ち着くわけです。
基本的に万年ぼっちなので、時間が余るととりあえず引きこもってテレビ見たり録画した映画見たりしてるんですけど、何かやろうとしてもモチベーションが上がらない体質なんですよね。
他人と接してると真面目なイメージをもたれがちなんですけど、それはあくまで他人の目があるから真面目にやってるんであって、一人でいるときは何もしなくても誰にも迷惑がかからないので何もしてない事が多いんですね。
顕著なのが学業に関してなんですけど、例えば課題を期限までに提出しなくても元々誰にも迷惑はかからないわけですよ。課題をやったからって先生は実利を得るわけでもなく、催促する手間は増えるかもしれないけど、先生にとっては出す出さないが重要なのであって、自分にとってやるやらないで労働量には非常に大きな差が出てくるわけですね。
課題をやるのだって自分のためになるじゃないか、と思うかもしれません。レポートを書け、みたいなとかく経験を必要とするものなら確かにおっしゃるとおりなんですが、中学生がやるような問題集を解け、みたいな課題は必ずしもそうではないと思うのです。
本来結果として求められるのは「問題の解決能力を養う」事であって、問題集を解く事それ自体ではない。しかし、実際先生が求めるのは後者です。
違うのか?と思うかもしれませんが、簡単に言えば「解くふり」をしたって「問題集を解いた」という判断をされるわけですから、これらは似ても似つかぬわけです。逆も然りです。問題を解かずに問題と解答を見比べ、解いた痕跡を残さずに解法だけをマスターしたって次から問題が解けるようにすることはできます。
つまり、問題を解く事は問題を解けるようになる必要条件でも十分条件でもないのです。もちろん経験的に解けるようになるための一手である事は確かで、何もしない状態よりは遙かに効果的です。
例えば、数学の複雑な問題が出題されたとして解ききれずにやむなく模範解答を見たとする。よくあるのは赤字で写して取り組んだ姿勢をアピールして解いた状態に代える。多くはこれでパスできるわけだが、これは本当に解いた状態に相当するのか。
家庭学習においては基本的に自己解決しなくてはならず、能力を超える問題や思い込みによる不正解は結局理解できないままになる機会が多い。では、どのタイミングで諦めれば良いのか。集中できているときに思いつく全ての手を尽くしてもできないのならば良いのか。集中できないとき、眠いときに複雑な思考ができない状態ならば手を尽くす事すらできない。ほとんどの答案はまっさらになる。これは赤字で写経しても良いのか?
先生の裁量に依るところが大きいわけだが、生徒の能力からすれば解けてもおかしくない問題がまっさら、ということになると「解いていない」と判断されかねない。なら、どうすればいいのか。
集中ができない。集中を欠いた状態では手も足も出ない。自他共通の認識として「解いた状態」になる写す行為を選ぶか、「解いていない状態」つまり未提出を選ぶか。自分の場合、往々にして集中できない事が多かったので最終的にこの選択をするよう迫られるわけだ。
昔から誠実であるべきと考えているのか、自分には嘘をつきたくないみたいな心の病を患っていたので結局未提出のまま期限を過ぎる事になるんですが、共通認識として「やってない」だけではなくて「やる気がない」という事にもなるわけで、まあそれくらい普段から自分の事になるとやる気が出なくなるので、おしりに火が付くとやるタイプなんですけど、自分で自分を鞭で叩くみたいなモチベーションの上げ方は上手くいかない体質なんですね。
つまり何が言いたいかというとですね、必要に迫られないとあんまり動かない人なんで、一人暮らしで誰とも連絡をとらない生活を続けてると、一度やる気を失うと再起するのに時間かかったりするんでね。まあ、あんまり頻度とかあてにならないんですよね。
2013年4月21日日曜日
2013年2月24日日曜日
人と論点が違う事がよくあるんです
あまりにもネタが思いつかないので、ツイッターで掠ったネタを拾うのも良いかなと思いまして。140字で収めた内容をブログ記事に展開すれば一本書けちゃいますよね。まあ要約された主張の内容を自分の中でも整頓できるし。みたいな。
昨日の夜、NHKの番組を観てたんですが、その番組では視聴者から寄せられたツイッターでの意見を時々画面下に表示してるんですね。もちろん不適切な意見もあるでしょうがから、担当者が選別して載せる載せないを判断してるんでしょう。
同じくNHKで放送された別の番組ですが、以前ツイッターのサーバーがダウンしたとき、継続して番組の内容に即した意見と思われる投稿が表示されているという事件がありました。当然ツイッター経由の意見は局側に届かないわけですが、たまたま発生した地震に関する投稿や事前には告知されていない出演者に関する投稿が見られたというものです。NHKはその後、事前に寄せられた意見を採用して表示していたと苦しい言い訳をしたとの事。
そんな事件があったので、余計に注意して、番組の内容よりもツイッターの投稿の採用について何か傾向を掴もうという気でその番組を観ていました。
これから述べるのはあくまで偏った私見ですので、鵜呑みにしないでくださいね。
まず文章の特徴を見定めようと思って視聴を始めました。前出の事件の際は自演説、つまりNHK側が自分で呟いて(あるいは実際には呟かずに)自分で掲載しているという疑いが囁かれました。自分はその当該番組を観ていなかったのでなんとも言えませんが、状況から考えるとそう考えるのが自然でしょう。騒ぎはNHKも知っているでしょうから、それを踏まえた上でどうなっているのかというのが見所でした。
番組では表示される意見に発言主のアカウント名が併記されます。実はそれも一つ注目ポイントであります。最近話題になったペ二オク詐欺では、入札者のアカウント名が辞書的に自動生成されたものばかりで手動で作成したアカウントとは到底思えないものばかりでした。流石にそこまで露骨なアカウント名ではないでしょうが、ネット心理に精通していない数人の担当者で作ってしまうとなんとなく傾向がでてくるのでは、という疑いも持って臨みます。
まず気になったのは句読点の使い方。気にして見始めると、しばらくは文中に読点、文末に句点をきちんと使っているものばかりに感じましたが、しばらくすると読点だけのものや句点だけのもの、どちらも使わない投稿も見られました。
ただ、もし全てに句読点が完全に打ってあったとしても、それは採用される基準である可能性もあって、必ずしも自作自演を示唆するものではありません。NHKは準国営のような立ち位置ですし、ある程度お堅いイメージもありますから不思議ではありません。結果的に句読点は特に問題でもないようです。
ちなみに、ツイッターでは印象や見栄えの問題もあって、句読点を使わずにスペースや改行を代替することもあります。自分はツイッターを喋るように使いたいので句点の代わりにスペースを使ってます。
次に気になったのは、文末の年齢と性別です。意見を述べた後、例えば「30代男性」など自分で併記しているものがありました。ツイッターはフェイスブックと違い、実名登録の義務はなく、年齢などの個人情報を登録する欄はありません。実社会での知り合いと繋がるために使っていても、やり方次第では全くの他人からは見れば匿名に近い状態で使う事も出来ます。自分の場合、実名はもちろん、所属する組織の詳細や交友関係が外部の人から知られないよう、単純な情報を流さないようにしています。特に後ろめたい事をしているつもりはないですが、自分自身そういったネット上での個人情報網を分析する能力に少し長けているので、一応気にしているのです。もちろん、投稿しなければなにも情報は漏れませんが。話を戻して、そんな準匿名のネットサービスで、随分ぼかしてるとはいえ、個人情報です。それともうひとつ、ファクシミリやメールフォームならばそれらを併記するのも珍しくないですが、雑多な意見が入り交じるつぶやきの中で、採用される事を前提にと考えても差し支えないでしょう、年齢性別を併記するのはどうも恥ずかしいものがあると思います。
ネット上ではオープンな(制限している人は部分的に)場ですから、番組を観てない人もその投稿が見える状態にあります。他の人には見えていないものにツッコミを入れるのですら何だか気恥ずかしいのに、どこか必死さが窺い知れる投稿は憚られます。もちろんそんな事は気にしないだとか、常々公表してて隠してない人もいるでしょう。みんながみんなではなかったので、疑いを助長しても、これまた決定打にはなりません。
前述の通り、アカウント名にも注目をしていたのですが、結局番組が終わるまでに見つけただけで6度は採用されたあるアカウントがありました。他にはそうそう複数回採用されるアカウントはなかったのですが、特定のアカウントだけ、なんだか不自然だなと思いました。
アカウント名の作り方には個性が出ます。ツイッターはローマ字や数字・記号などで登録し、平仮名や漢字などの日本語を使えない制限があります。ありきたりなものだと他の人に先に使われていたり、いまいち個性が光らないものです。独自のあだ名や好きなものをローマ字表記したり、誕生日や生まれた年の数字を文字列に加える人もいます。
もし普段使う予定のない、不自然でない程度の文字列でアカウントを作る事になったとき、安直な発想で数字を使ってしまうと01や321など、数がそれ自体で数字的な意味を持つ、つまり個人の何らかの独自性にちなんでいないと考えられる数を使いがちです。
度々出てくるアカウント名は、なんと末尾に生年月日を8桁で併記しているものだったのです。これはあまりにも個人を前面に押し出しすぎていて、自作自演を目的としたアカウントであるとは考えにくい。4桁で生年だけ、あるいは生月日だけ書く人は結構いるのですが、8桁書いてしまう人はほとんど個人情報を隠すつもりのない人だと言えます。職種の特定できる投稿や、個人が特定できる写真などを気兼ねなく公開できるクラスの人です。
そんな人がNHKの番組の時だけ饒舌になったり、あるいは生年月日まで公開してるのに私生活は慎ましく秘匿しているなんてことはどこかバランスの悪さを感じてしまいます。はっきりとは思い至らなくても、なんとなく抵抗感が出るもので自作自演のために用意したアカウントとは考えにくいでしょう。
実際問題、自分自身どういう姿勢なのかというと、自作自演自体は容認していいと考えています。問題なのは視聴者が疑念を持つ事、つまり偏った意見ばかり表示していると感じてしまう事です。もし自作自演であっても、世論をバランス良く反映していればツイッターを見ていない視聴者としては不平の出る余地はありません。もちろん、自作自演は明確な根拠が公になっていない事が前提です。番組視聴者の圧倒的多数はツイッターを見ながらではないでしょう。それ故、ネット上で大騒動にならない程度の問題であれば番組的には実質大したことではないのです。実際、番組の進行上不都合な投稿を表示しないなど、実際そういう経緯なのかどうかはわかりませんが、そんな不満をぶちまけるユーザーもいます。売国だ、などと過激に批判する人もいます。匿名社会ですから不思議ではありません。でも、そんな情報はほとんど世に出回らず、その場で火がくすぶる程度です。
みんなが平和でいられればそれ自体が悪である嘘をついても容認されるのか、という倫理的に重要な問題もありますが、テレビをはじめとしたメディアというのは程度の差はあれ自作自演の溢れる業界だと思います。バラエティ番組でスタジオから笑い声が起こったりしますが、実際にオーディエンスがいたとしてもその人達は番組の製作する上で適した人を招待しているわけで、元を正せば作為的な要素があるのです。しかし、その程度であれば誰が聞いても納得するし、けしからんと言い立てる人はそういないでしょう。問題は、視聴者からの意見を生情報としてそのまま伝えているかのような誤解を招きかねないやり方にあるのです。
ウェブサイト上でツイッターの投稿を表示する窓を設置する事ができますが、それは検索ワードやアカウント名を指定することしかできず、時系列に沿った全ての情報が表示されます。一般的なものであれば恣意的な選択をすることができないことになっているのです。番組内で投稿の表示方法がその窓を彷彿とさせるものであり、あたかも平等に、あるいは無作為に表示されているように見えてしまいます。ユーザーの操作とは関係なく一定時間が経過すると窓の中が自動でスクロールして次の投稿に移り変わる点や、出演者が読み上げるためにピックアップされているわけではないなどの特徴があるためです。
この誤解さえなければ、単純に番組だけを視聴している側からの違和感は解決されます。例えば、読み上げるために表示をするだとか、意見の傾向ごとにスタッフが並び替えてまとめて表示するなど。問題の解決策はいくらでもあるのです。画面内を調整する事を考えると、ツイッターのデザイン手法に似せるというのは“ツイッターです”感が出る最良の方法でしょうから制作側としても捨てがたいのでしょう。まあ、そんな下らないこだわりの優先順位はって話なんですけどね。
最初に自作自演を疑った議論をしましたが、結果的にしっぽを掴めるようなものはありませんでした。推測を押しつけて議論する他ないのです。善し悪しを議論する前から前提条件が整っていないためです。そのため、整然とした議論のできる論点を探す必要があります。この場合公平性と実直さを中心に議論する事で解決しています。手元にある情報より読み取れる事実だけから効果的な問題提起をできる論点を探し出す事が重要だと思います。後者の結論によって前者の問題点こそ解決できなくとも問題それ自体を回避する事ができます。
普段からそういう心がけで議論をしているのですが、他の人と話していると大まかな問題の方向性は共有していても具体的なポイントがずれている、その上相手が理解してくれないという事が多々あります。直感的に愚鈍な違和感に体当たりするだけでは思考力は養えません。押してダメなら引いてみな、ではありませんが問題を根こそぎ解決できる大きな枠を視野に入れた手法を見つけられなければ、いつまで経っても水掛け論を卒業できないのです。
昨日の夜、NHKの番組を観てたんですが、その番組では視聴者から寄せられたツイッターでの意見を時々画面下に表示してるんですね。もちろん不適切な意見もあるでしょうがから、担当者が選別して載せる載せないを判断してるんでしょう。
同じくNHKで放送された別の番組ですが、以前ツイッターのサーバーがダウンしたとき、継続して番組の内容に即した意見と思われる投稿が表示されているという事件がありました。当然ツイッター経由の意見は局側に届かないわけですが、たまたま発生した地震に関する投稿や事前には告知されていない出演者に関する投稿が見られたというものです。NHKはその後、事前に寄せられた意見を採用して表示していたと苦しい言い訳をしたとの事。
そんな事件があったので、余計に注意して、番組の内容よりもツイッターの投稿の採用について何か傾向を掴もうという気でその番組を観ていました。
これから述べるのはあくまで偏った私見ですので、鵜呑みにしないでくださいね。
まず文章の特徴を見定めようと思って視聴を始めました。前出の事件の際は自演説、つまりNHK側が自分で呟いて(あるいは実際には呟かずに)自分で掲載しているという疑いが囁かれました。自分はその当該番組を観ていなかったのでなんとも言えませんが、状況から考えるとそう考えるのが自然でしょう。騒ぎはNHKも知っているでしょうから、それを踏まえた上でどうなっているのかというのが見所でした。
番組では表示される意見に発言主のアカウント名が併記されます。実はそれも一つ注目ポイントであります。最近話題になったペ二オク詐欺では、入札者のアカウント名が辞書的に自動生成されたものばかりで手動で作成したアカウントとは到底思えないものばかりでした。流石にそこまで露骨なアカウント名ではないでしょうが、ネット心理に精通していない数人の担当者で作ってしまうとなんとなく傾向がでてくるのでは、という疑いも持って臨みます。
まず気になったのは句読点の使い方。気にして見始めると、しばらくは文中に読点、文末に句点をきちんと使っているものばかりに感じましたが、しばらくすると読点だけのものや句点だけのもの、どちらも使わない投稿も見られました。
ただ、もし全てに句読点が完全に打ってあったとしても、それは採用される基準である可能性もあって、必ずしも自作自演を示唆するものではありません。NHKは準国営のような立ち位置ですし、ある程度お堅いイメージもありますから不思議ではありません。結果的に句読点は特に問題でもないようです。
ちなみに、ツイッターでは印象や見栄えの問題もあって、句読点を使わずにスペースや改行を代替することもあります。自分はツイッターを喋るように使いたいので句点の代わりにスペースを使ってます。
次に気になったのは、文末の年齢と性別です。意見を述べた後、例えば「30代男性」など自分で併記しているものがありました。ツイッターはフェイスブックと違い、実名登録の義務はなく、年齢などの個人情報を登録する欄はありません。実社会での知り合いと繋がるために使っていても、やり方次第では全くの他人からは見れば匿名に近い状態で使う事も出来ます。自分の場合、実名はもちろん、所属する組織の詳細や交友関係が外部の人から知られないよう、単純な情報を流さないようにしています。特に後ろめたい事をしているつもりはないですが、自分自身そういったネット上での個人情報網を分析する能力に少し長けているので、一応気にしているのです。もちろん、投稿しなければなにも情報は漏れませんが。話を戻して、そんな準匿名のネットサービスで、随分ぼかしてるとはいえ、個人情報です。それともうひとつ、ファクシミリやメールフォームならばそれらを併記するのも珍しくないですが、雑多な意見が入り交じるつぶやきの中で、採用される事を前提にと考えても差し支えないでしょう、年齢性別を併記するのはどうも恥ずかしいものがあると思います。
ネット上ではオープンな(制限している人は部分的に)場ですから、番組を観てない人もその投稿が見える状態にあります。他の人には見えていないものにツッコミを入れるのですら何だか気恥ずかしいのに、どこか必死さが窺い知れる投稿は憚られます。もちろんそんな事は気にしないだとか、常々公表してて隠してない人もいるでしょう。みんながみんなではなかったので、疑いを助長しても、これまた決定打にはなりません。
前述の通り、アカウント名にも注目をしていたのですが、結局番組が終わるまでに見つけただけで6度は採用されたあるアカウントがありました。他にはそうそう複数回採用されるアカウントはなかったのですが、特定のアカウントだけ、なんだか不自然だなと思いました。
アカウント名の作り方には個性が出ます。ツイッターはローマ字や数字・記号などで登録し、平仮名や漢字などの日本語を使えない制限があります。ありきたりなものだと他の人に先に使われていたり、いまいち個性が光らないものです。独自のあだ名や好きなものをローマ字表記したり、誕生日や生まれた年の数字を文字列に加える人もいます。
もし普段使う予定のない、不自然でない程度の文字列でアカウントを作る事になったとき、安直な発想で数字を使ってしまうと01や321など、数がそれ自体で数字的な意味を持つ、つまり個人の何らかの独自性にちなんでいないと考えられる数を使いがちです。
度々出てくるアカウント名は、なんと末尾に生年月日を8桁で併記しているものだったのです。これはあまりにも個人を前面に押し出しすぎていて、自作自演を目的としたアカウントであるとは考えにくい。4桁で生年だけ、あるいは生月日だけ書く人は結構いるのですが、8桁書いてしまう人はほとんど個人情報を隠すつもりのない人だと言えます。職種の特定できる投稿や、個人が特定できる写真などを気兼ねなく公開できるクラスの人です。
そんな人がNHKの番組の時だけ饒舌になったり、あるいは生年月日まで公開してるのに私生活は慎ましく秘匿しているなんてことはどこかバランスの悪さを感じてしまいます。はっきりとは思い至らなくても、なんとなく抵抗感が出るもので自作自演のために用意したアカウントとは考えにくいでしょう。
実際問題、自分自身どういう姿勢なのかというと、自作自演自体は容認していいと考えています。問題なのは視聴者が疑念を持つ事、つまり偏った意見ばかり表示していると感じてしまう事です。もし自作自演であっても、世論をバランス良く反映していればツイッターを見ていない視聴者としては不平の出る余地はありません。もちろん、自作自演は明確な根拠が公になっていない事が前提です。番組視聴者の圧倒的多数はツイッターを見ながらではないでしょう。それ故、ネット上で大騒動にならない程度の問題であれば番組的には実質大したことではないのです。実際、番組の進行上不都合な投稿を表示しないなど、実際そういう経緯なのかどうかはわかりませんが、そんな不満をぶちまけるユーザーもいます。売国だ、などと過激に批判する人もいます。匿名社会ですから不思議ではありません。でも、そんな情報はほとんど世に出回らず、その場で火がくすぶる程度です。
みんなが平和でいられればそれ自体が悪である嘘をついても容認されるのか、という倫理的に重要な問題もありますが、テレビをはじめとしたメディアというのは程度の差はあれ自作自演の溢れる業界だと思います。バラエティ番組でスタジオから笑い声が起こったりしますが、実際にオーディエンスがいたとしてもその人達は番組の製作する上で適した人を招待しているわけで、元を正せば作為的な要素があるのです。しかし、その程度であれば誰が聞いても納得するし、けしからんと言い立てる人はそういないでしょう。問題は、視聴者からの意見を生情報としてそのまま伝えているかのような誤解を招きかねないやり方にあるのです。
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この誤解さえなければ、単純に番組だけを視聴している側からの違和感は解決されます。例えば、読み上げるために表示をするだとか、意見の傾向ごとにスタッフが並び替えてまとめて表示するなど。問題の解決策はいくらでもあるのです。画面内を調整する事を考えると、ツイッターのデザイン手法に似せるというのは“ツイッターです”感が出る最良の方法でしょうから制作側としても捨てがたいのでしょう。まあ、そんな下らないこだわりの優先順位はって話なんですけどね。
最初に自作自演を疑った議論をしましたが、結果的にしっぽを掴めるようなものはありませんでした。推測を押しつけて議論する他ないのです。善し悪しを議論する前から前提条件が整っていないためです。そのため、整然とした議論のできる論点を探す必要があります。この場合公平性と実直さを中心に議論する事で解決しています。手元にある情報より読み取れる事実だけから効果的な問題提起をできる論点を探し出す事が重要だと思います。後者の結論によって前者の問題点こそ解決できなくとも問題それ自体を回避する事ができます。
普段からそういう心がけで議論をしているのですが、他の人と話していると大まかな問題の方向性は共有していても具体的なポイントがずれている、その上相手が理解してくれないという事が多々あります。直感的に愚鈍な違和感に体当たりするだけでは思考力は養えません。押してダメなら引いてみな、ではありませんが問題を根こそぎ解決できる大きな枠を視野に入れた手法を見つけられなければ、いつまで経っても水掛け論を卒業できないのです。
2013年2月18日月曜日
合法的な金融博打のお話
春休みでございます。
長らくブログを更新しなかったのは、昨年末からぼちぼち始まってたアルバイトやら先週までのテストやらで、アホな事をひとしきり考えられる週末がなかったというのが直接の原因です。
大学がシーズンを終えて、ぼちぼち平日が暇になるので気ままにまた記事を書いていこうと思っておりますです。
さし当たって近況から。
昨年6月頃から投資に手を出し始めまして、実際本格的に取引を増やしたのは7月8月ですけども、かれこれ半年ちょっとぐらい経つわけですね。
今のところ外国為替取引専業でやっておるわけですが、最初はネット銀行付随のシステムに口座を開設したんですね。口座開設も維持も無料だし、同意するチェックをするだけで開設できますしね。とりあえず開設はしてみたものの、その時は為替に関する知識はほとんどなく、あるとすれば香港やイギリスから個人輸入をするための最低限なものでした。開設できた後は、なんとなく値動きしてるのをみて「おー」って言いながら証拠金も入金せず、しばらく放置していました。それが4月ぐらいでしたかね。
暇で暇で仕方なかった6月ぐらいになって、ネット上で為替のデモ取引ができるサービスがあるというのを知り、ゲーム感覚で始めてみたわけです。この時点では実際のFX口座を持ってる事なんてすっかり忘れてます。デモですから、もちろん損したって実害は出ないわけですが、なにしろ値動きに関する基礎的な知識から無いわけですので、買っていいのか売っていいのか、どの通貨ペアを取引していいのかもわからないわけですよ。
闇雲にいくつかポジションを持ってみて、初日はだいたい5%ぐらい資産が増えました。もちろん、わかって取引してるわけではないのでマグレです。なんやかんやと取引しながら、単語やコツを解説してるサイトなんかでちょこちょこ勉強し、為替に関する知識を増やしていきました。なんとなく相場というのが見えてきた頃、前述の口座を思い出すわけです。
都合のいい事に、昨春シーズンのバイトで得た報酬が使い道のないまま普通預金口座で眠っておりまして、とりあえず取引が出来る程度の証拠金は用意できるわけです。感覚は掴みつつあっても、まだまだわかっていないつもりだったので、とりあえずトラリピ気味に取引をして実益を出しつつ馴染もうという作戦に出ます。ただトラリピしてるのもあれなんでスワップポイントで微々たる利益を得ようと、豪ドルをメインに取引を始めました。
幸か不幸か、歴史的な円高の真っ只中であり、これ以上円高が進むと輸出系企業が非常に困るという状況であったわけで、中央銀行による為替介入なんかが行われていた時期でした。端的に言うなら、大きな流れでは円安にしか振れようがないタイミングだったわけですね。程なくしてユーロが94円台に突入したりして泣く泣く損切りしたりもしましたけど、今思えばあれくらいの損失を処理する経験も大事なんだと思います。
その後は特段大きなトレンドもなく、ちまちまと利食いしながら順調に資産を増やしていきます。
12月中旬時点で資産はおよそ150%になっていました。政権交代が確定して大きなトレンドが形成され、ボラティリティが上昇し、自信の取引も活発になります。年末年始は財政の崖問題が取り沙汰され、年越ししながらオバマ大統領の会見を待つもはっきりした答えが出ず、正月の午前4時までチャートと睨めっこしていた苦労は報われなかった、なんて事もありました。
年が明け、FX口座を他社に乗り換えようと思いつきます。銀行のおまけシステムなので、倒れるリスクは確かに小さいものの、スプレッドが大きくて少々不便だったというのが最大の理由でしたね。たまたま新しいシステムの宣伝を見かけ、キャンペーンをやってたりしたという短絡的な理由で会社を選び、口座開設。じわじわとポジションを崩しながら資金を移し、取引画面をカスタマイズしつつ取引形態に馴れ、1月末に移行を完了させました。移行期間中は資金が分散してたのであんまり実感が湧かなかったのですが、完了時点で資金が225%に増えていた事に気づきます。ざっくり半年ぐらいでの成績です。
ちなみに最初に入金して以来、資金は一切増減させていません。理由はいくつかありますが、成績として客観的に見られるようにしたいのが一番ですね。あとは財布と切り離して管理する事で損害は利益と相殺させてやりくりする意識をするとか、儲かっても浪費癖をつけないとか、そんなところですね。結局のところ、実益がいくら出ようともあくまでゲームでしかないという考えです。
さて、ここからが近況なんですが(前置き長い・・・)、ここへ来てこのタイミングで投資を始めようかと考えている人をちらほら見かけるようになってるんですね。証券会社の話によると、やはりこのトレンドを見てFX口座の開設数が急激に伸びているという事だそうです。ネット社会ではFX始めない奴はアホだとか、誰でも儲けられるタイミングだとかいう書き込みがあったりしますが、正直な話をすると、初心者が今始めるのはハッキリ遅すぎると思います。政権交代から今まで15%の円安になり、一つの目標だったリーマン前の水準94円を達成したわけで、次の目標値であり大きなレジスタンスラインであろう99円~100円への伸びしろは5%しか残ってないのです。
一方で円高方向へどれくらいの余裕があるかという話ですが、実はここまでの上昇トレンドは実需によるものというより、投機筋によって形成されてきたものだと言われています。つまり上がりきったと見られれば大量の利食いが入り、急速に下落する事だってあり得るというのです。私見では一服してしまえば90円、あるいは88円くらいのラインまで戻す可能性もあると考えます(※あんまり根拠ないですけど)。そんな相場の中で新規参入するというのは非常にリスキーな話で、古参に資金をむさぼられて良い思いをする事も無く短い投資人生を終える事にもなりかねません。証拠金取引ですから、数円の値動きで全資産が蒸発する事もあり得る話です。
FXで大負けした人の話によくあるのが、知り合いに儲かるよ~と進められて始めるというのがありますが、投資において誰でも儲かるというのはあり得ません。資産を失うリスクがあって初めて高い利益を得るチャンスが発生するわけですから。また、リスクについては口座開設時に同意させられる約款の通りであり、損失の全ては口座開設者であり約款に同意した本人が責任を負うわけです。とはいえ、勧めた人間にも一因はあるわけですから、もし俺に、FXってどうなの?なんて相談を持ちかけても、やった方が良いよ!なんて返事は期待しないでくださいね。決して後押しはしませんので。
FXに限らずですけど、天災とかリーマンみたいな特別な事態を除いて、基本的には相場を読むセンスというのが必要になると思います。ローソク足を見ながらサポートラインレジスタンスラインを先読みしたり、指標で動いた後にどれくらい流れが持続するか、あるいはどのタイミングで調整が入るか、瞬間は反応しても押し目を拾われる大きな流れだとか。初心者には見当も付かない細かな傾向がいろいろあるわけです。着実に利益を重ねるには、こうした地道で忍耐強い売買があってこそだと思います(勝手に思ってます)。
アベノミクスでもっとも力強く動いた時期はもう終わりです。これから継続的に利益を上げたいならば小技を身につけなければいけないのだと思います。あるいは、デイトレのような形ではなく配当を主な目的にして現物株を持つというのも十分ありでしょう。投資業界の大きな流れとして“リスクオン”の時期に入っています。手元に資金が余っているなら、デフレ脱却の一助に活用してみるのも良いのではないですかね・・・。
投資経験が半年しかない理系学生があんまり語るのも片腹痛い話ですが、自分から見てもあまり投資に向いていないような人は結構います。東京MXとかUstで平日の東証取引時間中に放送配信してるストックボイス・東京マーケットワイドを見て、地道に株を中心とした金融取引に関する知識を身につけてきた自分ですけど、どのくらいの時間値動きを見て、専門家の意見を聞くかっていうのは一つ重要な事と思います。終値ベースでのレポートも大事ですが、今現在の視点からこの後を読むというのは非常に難しいと改めて認識できますからね。
みたいなことを一度ブログに書いておこうと思ってました。投資ってのは儲かった人が勝ち組ですけど、相談するなら負けた人にの方が良いと思いますね。ゼロサムの世界で利益を勝ち取るのは並の事ではないです。はい。
長らくブログを更新しなかったのは、昨年末からぼちぼち始まってたアルバイトやら先週までのテストやらで、アホな事をひとしきり考えられる週末がなかったというのが直接の原因です。
大学がシーズンを終えて、ぼちぼち平日が暇になるので気ままにまた記事を書いていこうと思っておりますです。
さし当たって近況から。
昨年6月頃から投資に手を出し始めまして、実際本格的に取引を増やしたのは7月8月ですけども、かれこれ半年ちょっとぐらい経つわけですね。
今のところ外国為替取引専業でやっておるわけですが、最初はネット銀行付随のシステムに口座を開設したんですね。口座開設も維持も無料だし、同意するチェックをするだけで開設できますしね。とりあえず開設はしてみたものの、その時は為替に関する知識はほとんどなく、あるとすれば香港やイギリスから個人輸入をするための最低限なものでした。開設できた後は、なんとなく値動きしてるのをみて「おー」って言いながら証拠金も入金せず、しばらく放置していました。それが4月ぐらいでしたかね。
暇で暇で仕方なかった6月ぐらいになって、ネット上で為替のデモ取引ができるサービスがあるというのを知り、ゲーム感覚で始めてみたわけです。この時点では実際のFX口座を持ってる事なんてすっかり忘れてます。デモですから、もちろん損したって実害は出ないわけですが、なにしろ値動きに関する基礎的な知識から無いわけですので、買っていいのか売っていいのか、どの通貨ペアを取引していいのかもわからないわけですよ。
闇雲にいくつかポジションを持ってみて、初日はだいたい5%ぐらい資産が増えました。もちろん、わかって取引してるわけではないのでマグレです。なんやかんやと取引しながら、単語やコツを解説してるサイトなんかでちょこちょこ勉強し、為替に関する知識を増やしていきました。なんとなく相場というのが見えてきた頃、前述の口座を思い出すわけです。
都合のいい事に、昨春シーズンのバイトで得た報酬が使い道のないまま普通預金口座で眠っておりまして、とりあえず取引が出来る程度の証拠金は用意できるわけです。感覚は掴みつつあっても、まだまだわかっていないつもりだったので、とりあえずトラリピ気味に取引をして実益を出しつつ馴染もうという作戦に出ます。ただトラリピしてるのもあれなんでスワップポイントで微々たる利益を得ようと、豪ドルをメインに取引を始めました。
幸か不幸か、歴史的な円高の真っ只中であり、これ以上円高が進むと輸出系企業が非常に困るという状況であったわけで、中央銀行による為替介入なんかが行われていた時期でした。端的に言うなら、大きな流れでは円安にしか振れようがないタイミングだったわけですね。程なくしてユーロが94円台に突入したりして泣く泣く損切りしたりもしましたけど、今思えばあれくらいの損失を処理する経験も大事なんだと思います。
その後は特段大きなトレンドもなく、ちまちまと利食いしながら順調に資産を増やしていきます。
12月中旬時点で資産はおよそ150%になっていました。政権交代が確定して大きなトレンドが形成され、ボラティリティが上昇し、自信の取引も活発になります。年末年始は財政の崖問題が取り沙汰され、年越ししながらオバマ大統領の会見を待つもはっきりした答えが出ず、正月の午前4時までチャートと睨めっこしていた苦労は報われなかった、なんて事もありました。
年が明け、FX口座を他社に乗り換えようと思いつきます。銀行のおまけシステムなので、倒れるリスクは確かに小さいものの、スプレッドが大きくて少々不便だったというのが最大の理由でしたね。たまたま新しいシステムの宣伝を見かけ、キャンペーンをやってたりしたという短絡的な理由で会社を選び、口座開設。じわじわとポジションを崩しながら資金を移し、取引画面をカスタマイズしつつ取引形態に馴れ、1月末に移行を完了させました。移行期間中は資金が分散してたのであんまり実感が湧かなかったのですが、完了時点で資金が225%に増えていた事に気づきます。ざっくり半年ぐらいでの成績です。
ちなみに最初に入金して以来、資金は一切増減させていません。理由はいくつかありますが、成績として客観的に見られるようにしたいのが一番ですね。あとは財布と切り離して管理する事で損害は利益と相殺させてやりくりする意識をするとか、儲かっても浪費癖をつけないとか、そんなところですね。結局のところ、実益がいくら出ようともあくまでゲームでしかないという考えです。
さて、ここからが近況なんですが(前置き長い・・・)、ここへ来てこのタイミングで投資を始めようかと考えている人をちらほら見かけるようになってるんですね。証券会社の話によると、やはりこのトレンドを見てFX口座の開設数が急激に伸びているという事だそうです。ネット社会ではFX始めない奴はアホだとか、誰でも儲けられるタイミングだとかいう書き込みがあったりしますが、正直な話をすると、初心者が今始めるのはハッキリ遅すぎると思います。政権交代から今まで15%の円安になり、一つの目標だったリーマン前の水準94円を達成したわけで、次の目標値であり大きなレジスタンスラインであろう99円~100円への伸びしろは5%しか残ってないのです。
一方で円高方向へどれくらいの余裕があるかという話ですが、実はここまでの上昇トレンドは実需によるものというより、投機筋によって形成されてきたものだと言われています。つまり上がりきったと見られれば大量の利食いが入り、急速に下落する事だってあり得るというのです。私見では一服してしまえば90円、あるいは88円くらいのラインまで戻す可能性もあると考えます(※あんまり根拠ないですけど)。そんな相場の中で新規参入するというのは非常にリスキーな話で、古参に資金をむさぼられて良い思いをする事も無く短い投資人生を終える事にもなりかねません。証拠金取引ですから、数円の値動きで全資産が蒸発する事もあり得る話です。
FXで大負けした人の話によくあるのが、知り合いに儲かるよ~と進められて始めるというのがありますが、投資において誰でも儲かるというのはあり得ません。資産を失うリスクがあって初めて高い利益を得るチャンスが発生するわけですから。また、リスクについては口座開設時に同意させられる約款の通りであり、損失の全ては口座開設者であり約款に同意した本人が責任を負うわけです。とはいえ、勧めた人間にも一因はあるわけですから、もし俺に、FXってどうなの?なんて相談を持ちかけても、やった方が良いよ!なんて返事は期待しないでくださいね。決して後押しはしませんので。
FXに限らずですけど、天災とかリーマンみたいな特別な事態を除いて、基本的には相場を読むセンスというのが必要になると思います。ローソク足を見ながらサポートラインレジスタンスラインを先読みしたり、指標で動いた後にどれくらい流れが持続するか、あるいはどのタイミングで調整が入るか、瞬間は反応しても押し目を拾われる大きな流れだとか。初心者には見当も付かない細かな傾向がいろいろあるわけです。着実に利益を重ねるには、こうした地道で忍耐強い売買があってこそだと思います(勝手に思ってます)。
アベノミクスでもっとも力強く動いた時期はもう終わりです。これから継続的に利益を上げたいならば小技を身につけなければいけないのだと思います。あるいは、デイトレのような形ではなく配当を主な目的にして現物株を持つというのも十分ありでしょう。投資業界の大きな流れとして“リスクオン”の時期に入っています。手元に資金が余っているなら、デフレ脱却の一助に活用してみるのも良いのではないですかね・・・。
投資経験が半年しかない理系学生があんまり語るのも片腹痛い話ですが、自分から見てもあまり投資に向いていないような人は結構います。東京MXとかUstで平日の東証取引時間中に放送配信してるストックボイス・東京マーケットワイドを見て、地道に株を中心とした金融取引に関する知識を身につけてきた自分ですけど、どのくらいの時間値動きを見て、専門家の意見を聞くかっていうのは一つ重要な事と思います。終値ベースでのレポートも大事ですが、今現在の視点からこの後を読むというのは非常に難しいと改めて認識できますからね。
みたいなことを一度ブログに書いておこうと思ってました。投資ってのは儲かった人が勝ち組ですけど、相談するなら負けた人にの方が良いと思いますね。ゼロサムの世界で利益を勝ち取るのは並の事ではないです。はい。
2012年12月28日金曜日
理屈の話
ツキイチで書いてるつもりだったけど、一ヶ月って割と長いし、書こうと奮起できない時期が続くといつの間にか忘れてたりもするんでね、みたいなよく意味のわからない言い訳をしつつ今年を締めくくる記事を書くのですよ。
理屈のお話です。
理屈の苦手な人って案外多いものですよね。まあ、自分で理屈が得意かどうかってのはなかなか絶対的には計れませんけど。
理系の人は理屈っぽくて、文系の人はそうじゃない、みたいな風に世間一般では思われがちですけど、経験上そうでもないと思うのです。自分が理系だからか周囲には理系の人間が若干多いですけど、理系の学問を専門としてるにも関わらず理屈が苦手な人は割合にすれば思いの外多い気がします。
理系の人は一般に数学なんかが得意な傾向にありますけど、中を開けてみると、実際に数理力が高い人と、公式を覚えるのが得意とか解き方を覚えるのが得意な人と、ざっくり二パターンあると思います。もちろんどちらか一方だけでは数学の問題を解くことはできませんが。それら二つを比較したとき地頭力といいますか、未知の課題を解決するためには当然前者の力が重要になるわけです。
アバウトに言うと、カミソリみたいな思考力を持つはじめまして理系タイプと、経験と記憶力で困難に打ち勝つおひさしぶりです理系タイプに分けられるということです。理系としてどちらが優れているというのは問題でないのですが、理屈に強いのは前者ですよね、というところ。
中高レベルの数学の先生でも経験上それぞれのタイプがいます。数学は当然よくできるのに、学問外では筋の通らない話し方をする、なんて人も。ですから、学業の成績とはある程度の関係しかなくて、学力が一定以上のレベルになると必ずしも論理力が追随するわけではないという事です。
既にこの辺の言い回しからして難しい言い方をしているようですがご了承を。
さて、おひさしぶりです理系タイプやどちらさまでしたか文系タイプの皆さんと話を、もとい議論をしているとよくあることなのですが、用意された理屈に穴を見つけることがあります。別段揚げ足を掬ってやろうという魂胆ではなく、情報共有の課程で見つかるものですが。時に矛盾点であったり、あるいは検討が不十分なところであったり、優先順位をうまく設定できないために事態が進展しなかったり。
そういった理屈の脆弱性を見つけられたとき、自分は上から目線でものを言われるのがすごく腹立たしいので、逆に自分が見つけたときはなるべく本人にそれとなく解決してもらうように仕向けてます。問題はここからなんですよ。
おひさしぶりタイプの中には隠れはじめましてタイプみたいな人もいて、自分で問題解決できる十分な思考力を持った人もいて、見えなかった能力を垣間見たりもする一方、ほんとにほんとの真性おひさしぶりタイプの人にエッジの効いた指摘をすると問いかけの主旨すら理解されなかったりするわけです。
理屈という名の鈍器。そう個人的には呼んでますけど、シャープな切り返しが通用しない場合に固くて鈍い理屈で殴り続けるんですね。いうなれば土台の亀裂を明るみに出すような行為です。非破壊の打音検査をするふりをしながら、実は壊れそうなところを徹底して全力で叩き破壊するレベルで悪質なものですが。
そんな中、一番やっかいなのはお茶を濁して鈍器をかわそうとする人ですね。めんどくさがりでずる賢く生きようとする人に見られますが、鈍器を用意し始めると突然語気を弱めたり、その場しのぎの予防線を張ったり、あるいは議題自体を一方的に遠ざけようとしたりと、態度を急変させるのです。これをやられると当然質疑がうまくいかなくなるので、指摘する側としては自分の理解力が足りないのか、あるいは相手の理屈に問題点があったのかはっきりしないまま終えてしまう事になります。
殴られるのがわかってて正座してるのも確かに恐ろしいもので、自分よりも優れた論理力を持つ人と話す時は自分自身及び腰な考え方をしてしまいます。それでもやはり自分の劣った思考力を正面から受け止め自覚する姿勢は必要だと思います。
論旨がはっきりしないようですが、半分は愚痴でもう半分は自分に対する戒めのような、思いついたことをそのまま書き記したくらいの記事です。
読者へのメッセージがあるとすれば、誰かお互いのためにも尋常に論戦を交わそうよ、というところであるのですが。
理屈のお話です。
理屈の苦手な人って案外多いものですよね。まあ、自分で理屈が得意かどうかってのはなかなか絶対的には計れませんけど。
理系の人は理屈っぽくて、文系の人はそうじゃない、みたいな風に世間一般では思われがちですけど、経験上そうでもないと思うのです。自分が理系だからか周囲には理系の人間が若干多いですけど、理系の学問を専門としてるにも関わらず理屈が苦手な人は割合にすれば思いの外多い気がします。
理系の人は一般に数学なんかが得意な傾向にありますけど、中を開けてみると、実際に数理力が高い人と、公式を覚えるのが得意とか解き方を覚えるのが得意な人と、ざっくり二パターンあると思います。もちろんどちらか一方だけでは数学の問題を解くことはできませんが。それら二つを比較したとき地頭力といいますか、未知の課題を解決するためには当然前者の力が重要になるわけです。
アバウトに言うと、カミソリみたいな思考力を持つはじめまして理系タイプと、経験と記憶力で困難に打ち勝つおひさしぶりです理系タイプに分けられるということです。理系としてどちらが優れているというのは問題でないのですが、理屈に強いのは前者ですよね、というところ。
中高レベルの数学の先生でも経験上それぞれのタイプがいます。数学は当然よくできるのに、学問外では筋の通らない話し方をする、なんて人も。ですから、学業の成績とはある程度の関係しかなくて、学力が一定以上のレベルになると必ずしも論理力が追随するわけではないという事です。
既にこの辺の言い回しからして難しい言い方をしているようですがご了承を。
さて、おひさしぶりです理系タイプやどちらさまでしたか文系タイプの皆さんと話を、もとい議論をしているとよくあることなのですが、用意された理屈に穴を見つけることがあります。別段揚げ足を掬ってやろうという魂胆ではなく、情報共有の課程で見つかるものですが。時に矛盾点であったり、あるいは検討が不十分なところであったり、優先順位をうまく設定できないために事態が進展しなかったり。
そういった理屈の脆弱性を見つけられたとき、自分は上から目線でものを言われるのがすごく腹立たしいので、逆に自分が見つけたときはなるべく本人にそれとなく解決してもらうように仕向けてます。問題はここからなんですよ。
おひさしぶりタイプの中には隠れはじめましてタイプみたいな人もいて、自分で問題解決できる十分な思考力を持った人もいて、見えなかった能力を垣間見たりもする一方、ほんとにほんとの真性おひさしぶりタイプの人にエッジの効いた指摘をすると問いかけの主旨すら理解されなかったりするわけです。
理屈という名の鈍器。そう個人的には呼んでますけど、シャープな切り返しが通用しない場合に固くて鈍い理屈で殴り続けるんですね。いうなれば土台の亀裂を明るみに出すような行為です。非破壊の打音検査をするふりをしながら、実は壊れそうなところを徹底して全力で叩き破壊するレベルで悪質なものですが。
そんな中、一番やっかいなのはお茶を濁して鈍器をかわそうとする人ですね。めんどくさがりでずる賢く生きようとする人に見られますが、鈍器を用意し始めると突然語気を弱めたり、その場しのぎの予防線を張ったり、あるいは議題自体を一方的に遠ざけようとしたりと、態度を急変させるのです。これをやられると当然質疑がうまくいかなくなるので、指摘する側としては自分の理解力が足りないのか、あるいは相手の理屈に問題点があったのかはっきりしないまま終えてしまう事になります。
殴られるのがわかってて正座してるのも確かに恐ろしいもので、自分よりも優れた論理力を持つ人と話す時は自分自身及び腰な考え方をしてしまいます。それでもやはり自分の劣った思考力を正面から受け止め自覚する姿勢は必要だと思います。
論旨がはっきりしないようですが、半分は愚痴でもう半分は自分に対する戒めのような、思いついたことをそのまま書き記したくらいの記事です。
読者へのメッセージがあるとすれば、誰かお互いのためにも尋常に論戦を交わそうよ、というところであるのですが。
2012年10月14日日曜日
思考のゲル化
特別なきっかけも無く慢性的に気分が落ち込んでいるときは、もしかするとその一因として景気が悪い事があるかもしれないそうな。
また、人は景気の良いときは白を好み、悪いときは黒を好む性質もあるとか。
衣服などで明るい色を取り入れると気分を変える事もできるとかできないとか。しかしそれは火種となり得てもただそれだけで高揚をもたらし続ける事は無いでしょうから、また難しいところではあります。
関連して、作り笑いでも表情筋を動かせば健康に良いとか、あるいは気分を上向きにする効果があるそうです。
二進も三進もいかないときはとりあえず側から入るのも手段としては悪くないのでしょう。それでもやはり何か根源が芳しくないのであれば、そこは抜本塞源的な働きかけを欠かしてはいけないのでしょう。
以前の投稿で人は幸せになる事ができるのかとういう事について論じた事がありましたが、今でもやはりその命題に対する的確な理屈を設ける事ができずにいます。
その題に対する専らの切り込み口は、考える事が幸福に繋がるかどうかという点でした。
自分にとっての考える、というのはその大半が小さな反逆であるように思います。
自分で左右の手を組むとき、普段は右手の親指が上になるように指を交わしているのですが、一時は意識して左の親指が上になるよう組んでみた時期がありました。
人の体というのは一見左右対称なようで、対称なのは大雑把な外観だけ。誰しも利き手や利き目が存在するのは周知の事実であるように、人のあらゆる部位には偏りがあります。体の中心線上、顔の真ん中に座っている鼻でさえ、多くの人は左右どちらかに骨が傾いているとか。
手の組み方を変えて気づくのは、指の股が普段組む組み方で馴染むようになっているという事。これはきっと体の形自体が変わってしまったという事ばかりではなく、普段と違う事に両手が上手く対応できないのだろうと思います。
例えば舞踊にしてもそうですが、理屈でわかっていても一発で上手くいかせるというのは無謀な話。多くは体で覚える、という作業が必要になります。意識しなくともどこかで型を作っていたり、コツを掴んでいたりしています。
手を逆に組んでもぐにゅぐにゅと形を模索すると、なんとか股がうまく噛み合う形というのは見つける事が出来ます。しかしそうしても普段組んでいるのとは気分が違う。かなり意識的であるからだと思う。
一月か二月か、意識的に指を組んでいましたが、いつしかそんな事も忘れて“普段組み”に戻ってしまっていました。
水は低いところを探して落ちていきます。人とて同じく、一旦落ち着く場所を見つけてしまえばそこに安住するようになります。自分から高い場所に上るのは一苦労。上って良い事があるならまだしも、そうでもないなら窪みにいる方が楽なのです。
もちろん手の組み方なんて一例に過ぎず。あるいは左手でボールを投げようと思った事があるだろうか。
実際にボールを投げなくとも、モーションだけで十分です。右手でボールを投げる動作をすると上手くいくのに、それを鏡写しに真似しようとしてもどうもぎこちない。右、左と交互に動いてコツを掴もうとしても体は右で感じるような自然な感覚にはなれないのです。
長い間この問題について考えてきた結果、得られた結論は肉付きの違いでした。
紐付けした球を円形に運動させるときに生まれる遠心力。直線に加速させる時とは違った方向に力が必要となります。同じようにボールに速度エネルギーを与えるとき、右手では直線方向の加速度ばかりでなく、向心加速度を上手く利用します。
実は左手は、右手のようにボールを投げるときに必要となる力をあまり経験した事がないのです。右手の真似をしようとすると関節が外れそうな方向に力が働く、というのが適切な表現かはわからないが、引っ張る力に筋肉で対抗しようとするのではなく、上手く働いてくれる筋肉が無いために、その力の出所を骨格に任せてしまうのです。
右と左の違いは思ったよりも遙かに奥が深い。
右手が利き手だから少なくとも手に関していえば、左よりも右の方が圧倒的に器用かというと、そうでもないらしい。ペンを持つにしてもプルタブを起こすにしても、何か新しい事を覚えるときに主役を任されるのは右手が多い。左手が補助的な役割に回るのは必然だろう。
主役ばかりに目を奪われるのは仕方の無い事だが、左右を入れ替えてみて驚くのは実は右手の不器用さであったりする。左手でペンを持ち、紙に文字を書こうとする。すると右手は忽ちに行き場を失い、何をして良いのかわからなくなるのです。左手が普段何をしているのかなんて気にもとめないでしょうが、実は何気ない左手の立場があってこそうまく右手が機能できる場というのは驚くほど多いのです。
ボールを左手で投げるとき、右腕はどこで何をすれば良いのかさっぱりわからず、普段の左腕の動きを観察するために右手でボールを投げる動作をしてみなければならない。という具合になる。
ペンを持つときだってそう。単に紙を押さえてくれさえすれば良いのだが、実際初めてやろうとするとなかなかどうして上手くいかない。手が支えるのは実は紙だけではなく、体の姿勢を決める役割もある。思えばさして難しい事ではないようで、やってみる前にいくら思いを巡らせても気づいたかどうかは定かでない。
しかしどうだろう、鉛筆の持ち方を学ぶときに言われた事を思い起こせば新鮮さを感じる方がむしろおかしいのかもしれない。左手で紙を押さえないと字を書けないだろう、と確かに何度か言われた。その頃から既に、脇役の居場所は膝の上ではなかった。
そうこうして左に主演をさせてみてもやはり“普段”の右の方が楽なもので、左が少々器用になろうとも右にトラブルがあったときのバックアップが厚くなったくらいで特段日常生活が良くなるわけではない。英語がある程度堪能になったって日本語の方が便利なもの。やはりというべきか、安住の地はそう易々と離れられるものではない。
ファーストフードで注文を済ませると、会計をおこなう前に別の商品を勧められることがある。自分はこの手の販促活動に乗っかって注文を追加した事は一度も無いのだが、あれはきっと売り上げを向上させる貴重な一手なのだと思う。
スーパーマーケットのレジで並んでいると、手の届くところにガムやら電池やらが並べてある。コンビニではいざという時に無いと困る生活必需品は下の段に。駅前の書店の入口近くには外からでも見える棚に時刻表が収められる。
衝動買いと、その逆とを上手い具合に突くよう作戦を立てるのは、きっと成長する経営に欠かせないものなのだと思う。
居酒屋で注文を聞き、繰り返す前に尋ねられてもいないお勧めメニューを紹介する。ある客は、そう迷う事なくそれも、と返事をするとしよう。海鮮ものだと、鮮度や旬の問題だとか、店側にとっては一定ではない仕入れ値の具合なんかも勘案して勧める。
客としてはそのメニューが目を見張るほど珍しかったり特徴的でもない限り、あるいは後悔するような味でない限り、店を出る頃には勧められたメニューだった事なんてどうでも良い事になっているだろう。客としては別段損をしたという意識はないし、店側は売りやすいメニューで売り上げを伸ばせるのだから、これはとても素敵な事だと思う。
だが一方で、これで良いのだろうかという立場に立ってしまえばどうだろう。
これは商売に一種の妨害をしてやろうという単純で幼い発想ではない。自分の利益を中心として、絶対的な価値判断の基準として考えるというもの。店員に勧められる前にその商品の存在を知っていれば果たして注文しただろうか。オススメとして存在した場合と、そうでなかった場合を考えたときに同じ結論が導かれただろうか。
レジに並んでいるときに見つけたガムが美味しそうだと直感的に感じたとする。そこでカゴに入れてしまえば楽しみを一つ得る事が出来るだろう。しかしもし、それを見つけなかったときはどうだったろうか。結果的にそのガムを買わない事で後悔することはまず無いし、この場合は楽しみを“失った”のではなく“得られなかった”というだけでしかないのです。
もし“得られなかった”ら気持ちとして“得た”場合には劣るかもしれないが、その差は果たしてどれくらいのものだろう。商品の価格に相応するだけの価値があるだろうか。
“無かった場合”を考えるというのは非常に難しいもので、特に気持ちの問題となると困難を極めます。
調子が狂うとき、特によく言われるのはかわいい女の子と普通に話せないというシチュエーションですが、もし仮に相手がかわいい女の子ではなかった場合、一体何を話しただろうかという事を事前に知っていれば意識的に“普通に”会話をする事ができるかもしれない。という非常に単純明快でかつ難解な問題と大筋では同じ事を言っています。
深いところまできてしまうと、人によって何を善しとするかが違うために消費動向も一概に言い纏める事はできなくなってしまうのですが。
咄嗟に出されるオススメというのは売る側にとって常に都合のいいように出てくるものの、消費者にとって良い提案であるとは限らない。予め存在を知っていても注文しなかっただろうという場合はその場で考えるのが面倒なのでとりあえず断る。別の陳列順序であれば購買意欲をそそられただろうと思うものは立ち止まって少し悩んでみる。書店で見つけた面白そうな本は、その書店の努力によって見つけられたものかもしれないし、そうでなくとも書店側が斡旋した出会いだと思えば、帰ってからインターネットで注文しようという気持ちにはとてもならない。今の自分はそういった考えを持っています。こういった姿勢に関して、完全に意見の一致する人はそういないでしょう。
これらは考えに考えた末に辿り着いた考え方で、これからも絶えず変化していくでしょう。中には一周して結論的に以前と同じ行動を選ぶ事もあるくらいです。
こうした反逆を楽しみ、より優れた考えを勝ち取っているようにも見える一方で、単純に居酒屋で勧められたメニューを受け入れる方が遙かに楽なのは確かです。
あまり深く考えない方が、言うなれば馬鹿であった方が、もっと言うなら頭の中がお花畑な方が圧倒的に幸福に近い立ち位置であるのではないかという乱暴な仮説がどこまで適しているかを“考え”続けてきたわけです。
煮詰まる。という言葉には二つ意味があって、一つは議論や熟考の末に方向性や内容が絞られてきてそろそろ結論が得られそうだという状態。もう一つは議論が進まなかったり適切な案が出せずに立ち往生する状態を言います。後者は原義的には間違いだそうですが。
どうにも今日日は頭が硬くなっているというか、斬新で興味深いものを生み出す発想力が衰えてきているように感じます。あらゆる物事にだいたいの妥当な結論を出せたという事かもしれませんけれども、それはそれで退屈な事です。
そこで一度凝り固まった理屈を切り崩し、ゼロベースから思考を再構築すれば何か新たな発見があるかもしれない。という事を思いついたのはつい先日の話。
何かに熱中するなりして難しい考え方から距離を置き、いわゆる時間を無駄にするような生活の仕方でも何でも良いのでとにかくシンプルで馬鹿な生活をすれば、これまでとは違う物の見方ができるのではないかと思ったのです。
しかしこうした物の考え方は自分にとって一つのアイデンティティであり、言いようによってはプライドでもあるわけですから、そう簡単に自励的な変化は期待できないのではあるのですが。
また、人は景気の良いときは白を好み、悪いときは黒を好む性質もあるとか。
衣服などで明るい色を取り入れると気分を変える事もできるとかできないとか。しかしそれは火種となり得てもただそれだけで高揚をもたらし続ける事は無いでしょうから、また難しいところではあります。
関連して、作り笑いでも表情筋を動かせば健康に良いとか、あるいは気分を上向きにする効果があるそうです。
二進も三進もいかないときはとりあえず側から入るのも手段としては悪くないのでしょう。それでもやはり何か根源が芳しくないのであれば、そこは抜本塞源的な働きかけを欠かしてはいけないのでしょう。
以前の投稿で人は幸せになる事ができるのかとういう事について論じた事がありましたが、今でもやはりその命題に対する的確な理屈を設ける事ができずにいます。
その題に対する専らの切り込み口は、考える事が幸福に繋がるかどうかという点でした。
自分にとっての考える、というのはその大半が小さな反逆であるように思います。
自分で左右の手を組むとき、普段は右手の親指が上になるように指を交わしているのですが、一時は意識して左の親指が上になるよう組んでみた時期がありました。
人の体というのは一見左右対称なようで、対称なのは大雑把な外観だけ。誰しも利き手や利き目が存在するのは周知の事実であるように、人のあらゆる部位には偏りがあります。体の中心線上、顔の真ん中に座っている鼻でさえ、多くの人は左右どちらかに骨が傾いているとか。
手の組み方を変えて気づくのは、指の股が普段組む組み方で馴染むようになっているという事。これはきっと体の形自体が変わってしまったという事ばかりではなく、普段と違う事に両手が上手く対応できないのだろうと思います。
例えば舞踊にしてもそうですが、理屈でわかっていても一発で上手くいかせるというのは無謀な話。多くは体で覚える、という作業が必要になります。意識しなくともどこかで型を作っていたり、コツを掴んでいたりしています。
手を逆に組んでもぐにゅぐにゅと形を模索すると、なんとか股がうまく噛み合う形というのは見つける事が出来ます。しかしそうしても普段組んでいるのとは気分が違う。かなり意識的であるからだと思う。
一月か二月か、意識的に指を組んでいましたが、いつしかそんな事も忘れて“普段組み”に戻ってしまっていました。
水は低いところを探して落ちていきます。人とて同じく、一旦落ち着く場所を見つけてしまえばそこに安住するようになります。自分から高い場所に上るのは一苦労。上って良い事があるならまだしも、そうでもないなら窪みにいる方が楽なのです。
もちろん手の組み方なんて一例に過ぎず。あるいは左手でボールを投げようと思った事があるだろうか。
実際にボールを投げなくとも、モーションだけで十分です。右手でボールを投げる動作をすると上手くいくのに、それを鏡写しに真似しようとしてもどうもぎこちない。右、左と交互に動いてコツを掴もうとしても体は右で感じるような自然な感覚にはなれないのです。
長い間この問題について考えてきた結果、得られた結論は肉付きの違いでした。
紐付けした球を円形に運動させるときに生まれる遠心力。直線に加速させる時とは違った方向に力が必要となります。同じようにボールに速度エネルギーを与えるとき、右手では直線方向の加速度ばかりでなく、向心加速度を上手く利用します。
実は左手は、右手のようにボールを投げるときに必要となる力をあまり経験した事がないのです。右手の真似をしようとすると関節が外れそうな方向に力が働く、というのが適切な表現かはわからないが、引っ張る力に筋肉で対抗しようとするのではなく、上手く働いてくれる筋肉が無いために、その力の出所を骨格に任せてしまうのです。
右と左の違いは思ったよりも遙かに奥が深い。
右手が利き手だから少なくとも手に関していえば、左よりも右の方が圧倒的に器用かというと、そうでもないらしい。ペンを持つにしてもプルタブを起こすにしても、何か新しい事を覚えるときに主役を任されるのは右手が多い。左手が補助的な役割に回るのは必然だろう。
主役ばかりに目を奪われるのは仕方の無い事だが、左右を入れ替えてみて驚くのは実は右手の不器用さであったりする。左手でペンを持ち、紙に文字を書こうとする。すると右手は忽ちに行き場を失い、何をして良いのかわからなくなるのです。左手が普段何をしているのかなんて気にもとめないでしょうが、実は何気ない左手の立場があってこそうまく右手が機能できる場というのは驚くほど多いのです。
ボールを左手で投げるとき、右腕はどこで何をすれば良いのかさっぱりわからず、普段の左腕の動きを観察するために右手でボールを投げる動作をしてみなければならない。という具合になる。
ペンを持つときだってそう。単に紙を押さえてくれさえすれば良いのだが、実際初めてやろうとするとなかなかどうして上手くいかない。手が支えるのは実は紙だけではなく、体の姿勢を決める役割もある。思えばさして難しい事ではないようで、やってみる前にいくら思いを巡らせても気づいたかどうかは定かでない。
しかしどうだろう、鉛筆の持ち方を学ぶときに言われた事を思い起こせば新鮮さを感じる方がむしろおかしいのかもしれない。左手で紙を押さえないと字を書けないだろう、と確かに何度か言われた。その頃から既に、脇役の居場所は膝の上ではなかった。
そうこうして左に主演をさせてみてもやはり“普段”の右の方が楽なもので、左が少々器用になろうとも右にトラブルがあったときのバックアップが厚くなったくらいで特段日常生活が良くなるわけではない。英語がある程度堪能になったって日本語の方が便利なもの。やはりというべきか、安住の地はそう易々と離れられるものではない。
ファーストフードで注文を済ませると、会計をおこなう前に別の商品を勧められることがある。自分はこの手の販促活動に乗っかって注文を追加した事は一度も無いのだが、あれはきっと売り上げを向上させる貴重な一手なのだと思う。
スーパーマーケットのレジで並んでいると、手の届くところにガムやら電池やらが並べてある。コンビニではいざという時に無いと困る生活必需品は下の段に。駅前の書店の入口近くには外からでも見える棚に時刻表が収められる。
衝動買いと、その逆とを上手い具合に突くよう作戦を立てるのは、きっと成長する経営に欠かせないものなのだと思う。
居酒屋で注文を聞き、繰り返す前に尋ねられてもいないお勧めメニューを紹介する。ある客は、そう迷う事なくそれも、と返事をするとしよう。海鮮ものだと、鮮度や旬の問題だとか、店側にとっては一定ではない仕入れ値の具合なんかも勘案して勧める。
客としてはそのメニューが目を見張るほど珍しかったり特徴的でもない限り、あるいは後悔するような味でない限り、店を出る頃には勧められたメニューだった事なんてどうでも良い事になっているだろう。客としては別段損をしたという意識はないし、店側は売りやすいメニューで売り上げを伸ばせるのだから、これはとても素敵な事だと思う。
だが一方で、これで良いのだろうかという立場に立ってしまえばどうだろう。
これは商売に一種の妨害をしてやろうという単純で幼い発想ではない。自分の利益を中心として、絶対的な価値判断の基準として考えるというもの。店員に勧められる前にその商品の存在を知っていれば果たして注文しただろうか。オススメとして存在した場合と、そうでなかった場合を考えたときに同じ結論が導かれただろうか。
レジに並んでいるときに見つけたガムが美味しそうだと直感的に感じたとする。そこでカゴに入れてしまえば楽しみを一つ得る事が出来るだろう。しかしもし、それを見つけなかったときはどうだったろうか。結果的にそのガムを買わない事で後悔することはまず無いし、この場合は楽しみを“失った”のではなく“得られなかった”というだけでしかないのです。
もし“得られなかった”ら気持ちとして“得た”場合には劣るかもしれないが、その差は果たしてどれくらいのものだろう。商品の価格に相応するだけの価値があるだろうか。
“無かった場合”を考えるというのは非常に難しいもので、特に気持ちの問題となると困難を極めます。
調子が狂うとき、特によく言われるのはかわいい女の子と普通に話せないというシチュエーションですが、もし仮に相手がかわいい女の子ではなかった場合、一体何を話しただろうかという事を事前に知っていれば意識的に“普通に”会話をする事ができるかもしれない。という非常に単純明快でかつ難解な問題と大筋では同じ事を言っています。
深いところまできてしまうと、人によって何を善しとするかが違うために消費動向も一概に言い纏める事はできなくなってしまうのですが。
咄嗟に出されるオススメというのは売る側にとって常に都合のいいように出てくるものの、消費者にとって良い提案であるとは限らない。予め存在を知っていても注文しなかっただろうという場合はその場で考えるのが面倒なのでとりあえず断る。別の陳列順序であれば購買意欲をそそられただろうと思うものは立ち止まって少し悩んでみる。書店で見つけた面白そうな本は、その書店の努力によって見つけられたものかもしれないし、そうでなくとも書店側が斡旋した出会いだと思えば、帰ってからインターネットで注文しようという気持ちにはとてもならない。今の自分はそういった考えを持っています。こういった姿勢に関して、完全に意見の一致する人はそういないでしょう。
これらは考えに考えた末に辿り着いた考え方で、これからも絶えず変化していくでしょう。中には一周して結論的に以前と同じ行動を選ぶ事もあるくらいです。
こうした反逆を楽しみ、より優れた考えを勝ち取っているようにも見える一方で、単純に居酒屋で勧められたメニューを受け入れる方が遙かに楽なのは確かです。
あまり深く考えない方が、言うなれば馬鹿であった方が、もっと言うなら頭の中がお花畑な方が圧倒的に幸福に近い立ち位置であるのではないかという乱暴な仮説がどこまで適しているかを“考え”続けてきたわけです。
煮詰まる。という言葉には二つ意味があって、一つは議論や熟考の末に方向性や内容が絞られてきてそろそろ結論が得られそうだという状態。もう一つは議論が進まなかったり適切な案が出せずに立ち往生する状態を言います。後者は原義的には間違いだそうですが。
どうにも今日日は頭が硬くなっているというか、斬新で興味深いものを生み出す発想力が衰えてきているように感じます。あらゆる物事にだいたいの妥当な結論を出せたという事かもしれませんけれども、それはそれで退屈な事です。
そこで一度凝り固まった理屈を切り崩し、ゼロベースから思考を再構築すれば何か新たな発見があるかもしれない。という事を思いついたのはつい先日の話。
何かに熱中するなりして難しい考え方から距離を置き、いわゆる時間を無駄にするような生活の仕方でも何でも良いのでとにかくシンプルで馬鹿な生活をすれば、これまでとは違う物の見方ができるのではないかと思ったのです。
しかしこうした物の考え方は自分にとって一つのアイデンティティであり、言いようによってはプライドでもあるわけですから、そう簡単に自励的な変化は期待できないのではあるのですが。
2012年8月9日木曜日
例えばパワースポットという存在に対して
だらだら続くよ自己分析シリーズ。。。
一時期パワースポットブームがマスコミで騒がれていたのをさっき風呂で思い出したので、ちょっとそれに関して述べてみようかと思いますね。
度々言うようだけど、パワースポットに対してもの申したいんじゃなくて、パワースポットを例にとって自分の思考手法を解析しようという企画なので、そこんとこ勘違いしないでよね。
パワースポットというのは、なんだかよくわからないけど神聖なオーラが溢れ出てる場所で、そこに行けばなんだかパワーをもらえる、みたいなそんなスポットのことですよね。たぶん。
ちょっぴり問題になってたのは、そのスポットだけ拝んでホイサッサと帰ってしまう客がいるということでした。たとえば神社の境内にあるご神木だけ拝んで本殿を無視して帰る、みたいな。
パワースポットを信じるかどうかというのは恐らく大きく意見が分かれるところだろうと思います。
科学的な立場からものを言う人にしてみれば、パワーだなんて聞いただけでアホらしい存在に対して物理的な説明を求めるところから始まるかもしれません。パワーストーンなんかでも同じ事が言えますけど、俗に言う「気」だとか「力」というのは物理的に解析できるエネルギーで論じる事ができるものではないでしょう。その点、あくまで「科学的根拠はない」ものとして扱うしかないのです。
しかし一方で、実際にその「力」を信じている人がいる事も報道によると事実なようです。科学的な立場のみから何かものを言うならば、そういった人に対しては根拠の明示を求めるか信仰をやめるように勧告するしかないでしょう。無論、多くの人はそんな議論に興味は無いでしょうが。
自分の場合は、「パワースポットから信仰する人に対して何らかのエネルギーやそれに準ずる何かが与えられる事は無いだろう」という立場にはいますが、むやみにそれを否定したり見下したりする立場ではありません。
あくまで多角的に問題を捕らえたいので、科学的な見地を拭い去って再び議論を始めます。
科学的な立場からの論点は「パワースポットの存在自体に関してやその機能に関して」でしたが、次の論点は「非科学的と言えるパワースポットを信仰させるのは何か」に移ります。
分野で分けるならば宗教的というのが近いかもしれませんが、「信仰する人がいるのは事実」という点を掘り下げます。
まず、信仰する事で何が起こるのかを考えます。最初にメリットとして考えられるのは「パワーが得られるというプラシーボ的効果」です。おみくじで大吉を引いたときのように、自分が頑張れるように後押しをしてくれる効果はあると思います。自分にパワーが充填されていると思い込めば、少々の事であっても通常時より優位な状態で問題を解決する事ができると信じる事ができるでしょう。また、誰かに「大丈夫」と声をかけてもらえればある程度自分に自信が持てる人がいると思いますが、そういった人が誰にも声をかけてもらえないとき、自分自身の中に「大丈夫」といえる根拠をパワーの存在から生み出す事ができる点で、精神的な安定をもたらす効果が認められるだろうと考えられます。
一方、そういった扱いをするのであればわざわざ遠出をしてまでパワーを享受しに行く必要は無いと言うこともできます。確かに何か適当なものを信仰するだけならば旅費を出したり、時間を割いたりする必要は無いわけです。
いわゆる「パワー」というのは、信仰を高める事でその効果も大きくなるものだと思います。個人個人の心理的な依存度の問題です。信仰を高める一つの方法に、信仰対象を遠い存在にする、つまり崇高な存在にするというものがあります。絶対化です。
某新興宗教の手法で言うならば、崇高な存在である教祖が教徒の思想を否定する、例えば何気ない所作に対して「もっと物を優しく扱いなさい」とか一言言ったとします。万物に精霊が宿っていて来世で云々みたいな事を言ったとすると、教徒は「教祖は自分よりも優れた考えを持っている」と考えるわけです。これはあくまでその宗教という数直線で測ったものでしかないのですが、依存が深まれば恐らくそう考えるのでしょう(宗教は勉強してないから割と適当な事言ってる)。
教徒からすれば信心が足りないとか、教祖について行けば“より良く”なれるという思いが深まり、教祖や信仰対象との距離がより正確に、そして遠く感じるようになります。
これと同様で、パワースポットに対して「簡単に接触できる存在ではない」と思い込み、「時間やお金を消費してまで行く価値のあるもの」と化す事で信仰心を高める事ができると考えます。家の前の電信柱に塩をまいたら幸せになれます、なんて言っても殆どの人は気休めにすらならないでしょう。
しかし、あくまで表層的な信仰を利用したブームなのであまりにも崇高すぎる、つまり相当量の時間と金が必要であるとなると火種となる信心さえ生み出す事ができなくなります。
重要なポイントは、時間さえあれば誰でも簡単に御利益が得られる、という程度の存在である事だと思います。
また、移動などに要した労力が結果的に見てあたかも信仰心によるものであったかのようにいつの間にかすり替わりが起こる点も見逃せないと思います。自分を疑わない利益観念によるものですが、例えば振り込め詐欺でも同様の事が起こっていると考えられます。
客観的な第三者が見ればどう考えたって振り込め詐欺であるのに、振り込んだ本人はそれを認めようとしないという事例が多いようです。例えば息子が会社の金を紛失したと連絡があったとき、微塵も疑わずにお金を渡したとします。渡した後になって振り込め詐欺ですよ、と言われてもそれを認めてしまえばその瞬間に自分は大金を損失した事になります。しかし、それを認めない限りは仮想的に「騙されていない」状態であり続ける事が出来、息子の窮地を救ったという心地でいることができます。また、認めない事で振り込む当時の自分の判断を正当化する事が出来るので、ある意味で自分の行動を否定しようとする人から守る事が出来るのです。
パワースポットの話に戻りますが、丸一日使ってヘトヘトになってまで行ったのにまさか効果が無いわけがないだろう、という思いがある限りどうしても“ある”方に賭けたくなるものでしょう(半信半疑である場合に限る)。逆に言うと、ある方に賭けられない人間は丸一日かけてパワーを享受しに行く事自体がナンセンスであります。
以上の事から、結論的には「信じる者は救われる」という事になるのですが、それを踏まえての自分の立場としては「信じる事が全くの無意味では無いですよ」という感じになりますね。後半は信念を生み出すメカニズムに関する記述なので、蛇足ではありますが・・・。
自然科学、(エセ)心理学と来たら次は経済学の視点からになります。
経済は完全に専門分野外なので問題提起程度に留めておきますが、もしかしたらその答えはパワースポットが存在し始めた理由の核心に迫るものになるかもしれません。
要は誰の利益になるのか、というのが主題です。宗教的なしきたりを知らなくても、あるいは宗教分野を横断してでも簡単にパワーを得られるようなシステムを編み出したのは何故なのか。
消費者の心理を利用した黒幕がいるとすれば、その扇動による経済効果はどの程度になるのか。
みたいな事をありったけの知識をつぎ込んで考えるわけですね。
多角的に、というのが一つ心がけている事で、従来になかった視点というのを日々模索しています。何らかの新しい見地が見つかれば、その視点から見た尺度で何かより良く改善できるかもしれない、あるいは更に新しい視点の存在を見いだす事が出来るかもしれない、というのがモットーです。
自分は、自分の知らない視点を持った人と議論する事を望むし、あるいはそういった人と議論をする事でお互いが持っていなかった全く新しい考え方を見いだす事を望んでいます。
切磋琢磨と言いますが、率直に言って自分が相手に切り込む事があっても、自分が感心するような反論を受ける事は殆どありません。普通の意見を返してもらったところで思考の燃料にはならないのです。
ただ、奇をてらいすぎて何の意味も成さない意見を出す人がいるのも事実です。3秒で反証が思いつく意見を言ってもらっても仕方が無い。それこそ絶対化してしまうようで逆に会話を続けづらくなるのです。一方的に啓蒙するような立場ではないので、単に嫌な奴にしか成り得ないですから。
こういう話を貶し合える目くそ鼻くそな関係の人がいればなぁ、なんて思います。
一時期パワースポットブームがマスコミで騒がれていたのをさっき風呂で思い出したので、ちょっとそれに関して述べてみようかと思いますね。
度々言うようだけど、パワースポットに対してもの申したいんじゃなくて、パワースポットを例にとって自分の思考手法を解析しようという企画なので、そこんとこ勘違いしないでよね。
パワースポットというのは、なんだかよくわからないけど神聖なオーラが溢れ出てる場所で、そこに行けばなんだかパワーをもらえる、みたいなそんなスポットのことですよね。たぶん。
ちょっぴり問題になってたのは、そのスポットだけ拝んでホイサッサと帰ってしまう客がいるということでした。たとえば神社の境内にあるご神木だけ拝んで本殿を無視して帰る、みたいな。
パワースポットを信じるかどうかというのは恐らく大きく意見が分かれるところだろうと思います。
科学的な立場からものを言う人にしてみれば、パワーだなんて聞いただけでアホらしい存在に対して物理的な説明を求めるところから始まるかもしれません。パワーストーンなんかでも同じ事が言えますけど、俗に言う「気」だとか「力」というのは物理的に解析できるエネルギーで論じる事ができるものではないでしょう。その点、あくまで「科学的根拠はない」ものとして扱うしかないのです。
しかし一方で、実際にその「力」を信じている人がいる事も報道によると事実なようです。科学的な立場のみから何かものを言うならば、そういった人に対しては根拠の明示を求めるか信仰をやめるように勧告するしかないでしょう。無論、多くの人はそんな議論に興味は無いでしょうが。
自分の場合は、「パワースポットから信仰する人に対して何らかのエネルギーやそれに準ずる何かが与えられる事は無いだろう」という立場にはいますが、むやみにそれを否定したり見下したりする立場ではありません。
あくまで多角的に問題を捕らえたいので、科学的な見地を拭い去って再び議論を始めます。
科学的な立場からの論点は「パワースポットの存在自体に関してやその機能に関して」でしたが、次の論点は「非科学的と言えるパワースポットを信仰させるのは何か」に移ります。
分野で分けるならば宗教的というのが近いかもしれませんが、「信仰する人がいるのは事実」という点を掘り下げます。
まず、信仰する事で何が起こるのかを考えます。最初にメリットとして考えられるのは「パワーが得られるというプラシーボ的効果」です。おみくじで大吉を引いたときのように、自分が頑張れるように後押しをしてくれる効果はあると思います。自分にパワーが充填されていると思い込めば、少々の事であっても通常時より優位な状態で問題を解決する事ができると信じる事ができるでしょう。また、誰かに「大丈夫」と声をかけてもらえればある程度自分に自信が持てる人がいると思いますが、そういった人が誰にも声をかけてもらえないとき、自分自身の中に「大丈夫」といえる根拠をパワーの存在から生み出す事ができる点で、精神的な安定をもたらす効果が認められるだろうと考えられます。
一方、そういった扱いをするのであればわざわざ遠出をしてまでパワーを享受しに行く必要は無いと言うこともできます。確かに何か適当なものを信仰するだけならば旅費を出したり、時間を割いたりする必要は無いわけです。
いわゆる「パワー」というのは、信仰を高める事でその効果も大きくなるものだと思います。個人個人の心理的な依存度の問題です。信仰を高める一つの方法に、信仰対象を遠い存在にする、つまり崇高な存在にするというものがあります。絶対化です。
某新興宗教の手法で言うならば、崇高な存在である教祖が教徒の思想を否定する、例えば何気ない所作に対して「もっと物を優しく扱いなさい」とか一言言ったとします。万物に精霊が宿っていて来世で云々みたいな事を言ったとすると、教徒は「教祖は自分よりも優れた考えを持っている」と考えるわけです。これはあくまでその宗教という数直線で測ったものでしかないのですが、依存が深まれば恐らくそう考えるのでしょう(宗教は勉強してないから割と適当な事言ってる)。
教徒からすれば信心が足りないとか、教祖について行けば“より良く”なれるという思いが深まり、教祖や信仰対象との距離がより正確に、そして遠く感じるようになります。
これと同様で、パワースポットに対して「簡単に接触できる存在ではない」と思い込み、「時間やお金を消費してまで行く価値のあるもの」と化す事で信仰心を高める事ができると考えます。家の前の電信柱に塩をまいたら幸せになれます、なんて言っても殆どの人は気休めにすらならないでしょう。
しかし、あくまで表層的な信仰を利用したブームなのであまりにも崇高すぎる、つまり相当量の時間と金が必要であるとなると火種となる信心さえ生み出す事ができなくなります。
重要なポイントは、時間さえあれば誰でも簡単に御利益が得られる、という程度の存在である事だと思います。
また、移動などに要した労力が結果的に見てあたかも信仰心によるものであったかのようにいつの間にかすり替わりが起こる点も見逃せないと思います。自分を疑わない利益観念によるものですが、例えば振り込め詐欺でも同様の事が起こっていると考えられます。
客観的な第三者が見ればどう考えたって振り込め詐欺であるのに、振り込んだ本人はそれを認めようとしないという事例が多いようです。例えば息子が会社の金を紛失したと連絡があったとき、微塵も疑わずにお金を渡したとします。渡した後になって振り込め詐欺ですよ、と言われてもそれを認めてしまえばその瞬間に自分は大金を損失した事になります。しかし、それを認めない限りは仮想的に「騙されていない」状態であり続ける事が出来、息子の窮地を救ったという心地でいることができます。また、認めない事で振り込む当時の自分の判断を正当化する事が出来るので、ある意味で自分の行動を否定しようとする人から守る事が出来るのです。
パワースポットの話に戻りますが、丸一日使ってヘトヘトになってまで行ったのにまさか効果が無いわけがないだろう、という思いがある限りどうしても“ある”方に賭けたくなるものでしょう(半信半疑である場合に限る)。逆に言うと、ある方に賭けられない人間は丸一日かけてパワーを享受しに行く事自体がナンセンスであります。
以上の事から、結論的には「信じる者は救われる」という事になるのですが、それを踏まえての自分の立場としては「信じる事が全くの無意味では無いですよ」という感じになりますね。後半は信念を生み出すメカニズムに関する記述なので、蛇足ではありますが・・・。
自然科学、(エセ)心理学と来たら次は経済学の視点からになります。
経済は完全に専門分野外なので問題提起程度に留めておきますが、もしかしたらその答えはパワースポットが存在し始めた理由の核心に迫るものになるかもしれません。
要は誰の利益になるのか、というのが主題です。宗教的なしきたりを知らなくても、あるいは宗教分野を横断してでも簡単にパワーを得られるようなシステムを編み出したのは何故なのか。
消費者の心理を利用した黒幕がいるとすれば、その扇動による経済効果はどの程度になるのか。
みたいな事をありったけの知識をつぎ込んで考えるわけですね。
多角的に、というのが一つ心がけている事で、従来になかった視点というのを日々模索しています。何らかの新しい見地が見つかれば、その視点から見た尺度で何かより良く改善できるかもしれない、あるいは更に新しい視点の存在を見いだす事が出来るかもしれない、というのがモットーです。
自分は、自分の知らない視点を持った人と議論する事を望むし、あるいはそういった人と議論をする事でお互いが持っていなかった全く新しい考え方を見いだす事を望んでいます。
切磋琢磨と言いますが、率直に言って自分が相手に切り込む事があっても、自分が感心するような反論を受ける事は殆どありません。普通の意見を返してもらったところで思考の燃料にはならないのです。
ただ、奇をてらいすぎて何の意味も成さない意見を出す人がいるのも事実です。3秒で反証が思いつく意見を言ってもらっても仕方が無い。それこそ絶対化してしまうようで逆に会話を続けづらくなるのです。一方的に啓蒙するような立場ではないので、単に嫌な奴にしか成り得ないですから。
こういう話を貶し合える目くそ鼻くそな関係の人がいればなぁ、なんて思います。
2012年8月1日水曜日
だいたいまんげつ
いつも思うんですけど、餃子の満州の「3割うまい」の3割って何なんですかね。
検索すればヒットするかもしれないですが、なんとなく知ってはいけないような気もしつつ、いつも気になります。
中央じゃないじゃんって言わないで。手持ちだから。
この前の投稿と比べて頂ければちょっとわかりやすいかもしれませんけども、なぜ満月の撮影を難しいと思うかと言いますとね、簡単に言えば表面に影ができない分立体感が出ないんですよ。
裸眼で眺めればクレーターの影なんて殆どの人には見えませんから立体感も糞もないんですけど、これぐらいまでズームするとそれが見えちゃうわけですよ。
満月は真ん丸感で言えばMaxな状態な訳ですけど、あくまでも丸なんですよ。僕が撮りたいのは球なんです。
球の写真を撮るときってね必ず影がでるんです。まあ写真に限らずですけども、立体感を得るためには影の存在って結構大きいんですよ。
絵を描いてもそうですが、影の付け方で表情が変わってきますよね。それもこれも光の当たり具合が鍵になるんですよ。
満月の時って太陽と地球と月がだいたいまっすぐに位置するときになるわけなので、影なんてできなくて当然なわけで、いわゆる海と呼ばれる黒いシミがあるだけののっぺりした顔になっちゃうわけですよ。
なんて事を思ったりするんですね。
他にも、満月はいつでも満月だけど、欠けてるときはいつ見たって違う欠け方をしてる、みたいなこじつけもできますよね。
満月を嫌いなんじゃなくてね、欠けてる月が好きなだけなんですよ。
検索すればヒットするかもしれないですが、なんとなく知ってはいけないような気もしつつ、いつも気になります。
| 2048*1536 f/4.4 1/200 ISO-80 949mm |
中央じゃないじゃんって言わないで。手持ちだから。
この前の投稿と比べて頂ければちょっとわかりやすいかもしれませんけども、なぜ満月の撮影を難しいと思うかと言いますとね、簡単に言えば表面に影ができない分立体感が出ないんですよ。
裸眼で眺めればクレーターの影なんて殆どの人には見えませんから立体感も糞もないんですけど、これぐらいまでズームするとそれが見えちゃうわけですよ。
満月は真ん丸感で言えばMaxな状態な訳ですけど、あくまでも丸なんですよ。僕が撮りたいのは球なんです。
球の写真を撮るときってね必ず影がでるんです。まあ写真に限らずですけども、立体感を得るためには影の存在って結構大きいんですよ。
絵を描いてもそうですが、影の付け方で表情が変わってきますよね。それもこれも光の当たり具合が鍵になるんですよ。
満月の時って太陽と地球と月がだいたいまっすぐに位置するときになるわけなので、影なんてできなくて当然なわけで、いわゆる海と呼ばれる黒いシミがあるだけののっぺりした顔になっちゃうわけですよ。
なんて事を思ったりするんですね。
他にも、満月はいつでも満月だけど、欠けてるときはいつ見たって違う欠け方をしてる、みたいなこじつけもできますよね。
満月を嫌いなんじゃなくてね、欠けてる月が好きなだけなんですよ。
2012年7月31日火曜日
今年も夏休みがきました 自己分析と首尾一貫の話
去年は夏休みの工作をやってたんですね。
というか、あれ作ってからもう1年近く経ってるんですね。段ボール本棚。
あの本棚は、段ボールの箱を見て思い立ったその日に作り始めて、接着剤の都合で翌日に完成したんでしたかね。一気に作ったというわけではなかったと思います。
今年は何しようかね、なんて事を今決めたって結局やらないパターンが多いですし、性格的なものでしょうけど、宣言しちゃうと実現しないっていうジンクスがあるので、なかなか単発的な計画は立たないのですが。
とりあえず直近の課題として自己分析なるものを進めていかなくちゃいけないかなと思うんですね。
心理学の分野で自己分析はうまくいかないというのが相場ですが、どうやら就職にあたってはこの自己分析とやらが鍵を握るらしいぞ、というのを知りまして。
自己分析と一言に言っても、目的によって必要となる情報は様々ですよね。
今回は自分の魅力を他人にわかるように分析しなきゃいけないんですね。
実は、自分にわかるように自分を分析するっていうのは結構やってるんですよ。
小学生くらいの時は、文書で自己紹介をするのに自分で長所短所を書くじゃないですか。足が速いとか頭が悪いとかけんかが強いとか。
まあ、文字に起こすわけじゃないですけど程度としてはそれくらいの自己分析ですね。はい。
自分にわかるようにやるのと他人にわかるようにやるのでは雲泥の差なんですよね。いや別にどっちが泥とか雲とかじゃないですけど、目的によって価値が全く変わってくるわけですよ。
知らない人に自分の価値を知ってもらうには、もちろん他人向けの自己分析が必要だし、自分の価値をより高めるのであれば自分向けの自己分析をしないと効率が悪いです。
他人向けっていうのが難しくてですね、聞くところによると、どうやら謙虚な日本人は自己PRを控えめに作っちゃうらしいんですね。やってみるとまあその通りにうまくいくものではないんですが。
長い間ブログを書き続けてわかったことでもあるんですけど、自分の癖として、話し相手の顔色をうかがいながら話を進めるときが一番議論の進行が早くなるみたいなんですよ。
というのも、どうも相手がどこまで理解してるかを基準に次の言葉を選ぶ癖があるようで、疑問に感じているとわかったらその疑義を潰し、興味がありそうな事は蛇足にならない程度に余計な事までしゃべるんですよね。
逆に言うと、相手が話を聞いてないとわかったらその時点で全てが終了してしまうんですね。
そしてこうやってブログを書くときでさえ、万人にとって疑いの余地のないよう、自分の意思を曲解されないようにしようとしちゃうので、文字を書くのになかなか時間がかかるんです。
読んだ人が何を思うかと考えたとき、自分の望まぬ方向に勘違いする可能性があるときはそれを正すために何らかの修正や加筆を試みたり、あるいはそもそも言及しない事で本筋を明確にしたりと、悩まないようにするために結構悩んでるみたいです。
基本的に会話の順序ってのは相手に依るんですよ。
何を知っているのか、どんな言い方をすれば理解しやすいのかは人によって違いますからね。
余計な話もしておきましょうか。
昨今改善してきたのは姿勢の明確化。自分の意思が今どの方向に向いているのかを自分で正確に把握しておくという事。
自分がどうしたいのか、ぼんやりではなく、はっきりと決めるのです。自分が何をどうしたいのかはっきりしないうちに物事を進めていると、ふと振り返ったときに過去の自分と言っている事に矛盾があったりします。
自分では気づかなくても、余所から見ているとコイツ何やってんだろうって思われてる事も往々にしてあり得る話。
それは他者からの信頼にも影響するでしょう。始めは味方だったのにいつの間にか敵になっている、と思われたらそれ以降は味方だと思ってもらえないでしょうから。
姿勢の明確化は詰まるところ、物事に対して首尾一貫した対応を保証することにつなげます。
そうする事で、初っ端に十分な意見交換さえしておけば後は任せる、ということもしやすくなるわけです。結果はどうであれ、過程において方向性を議論する必要性が少なくなりますから。
武士に二言はない、と言いますが、自分の場合は少し違うかもしれません。この姿勢を最後まで保つ事ができるだろうか、結果的に何らかの不利益を生じないだろうかと先に全部考えちゃうんですね。
例えば、できない約束を軽々しくしちゃう人っていますけど、自分は基本的に最初に相手を信頼させる事はしないようにしています。
約束ではなく、なるべくどうするとか、できれば、あるいはできないかもしれないけど、というこの先起こりうる可能性を相手と共有する事で不履行によって信頼感を失う事を防いでいます。
見方を変えればズルいとも言えるし、責任から逃げてると思う人も少なくないでしょう。
しかし一方で、こうして「できないかもしれない」案件の依頼を受けたとき、基本的に全力を尽くします。自分がその依頼を成し遂げるかどうかで相手の利益が決まるときは、自分にとって少々不利益であってもやってあげようと思うようにしています。
良く言えば情けは人のためならず、悪く言えば恩着せがましいとでも言えるでしょうか。
まあ、ギブアンドテイクの助け合い精神が根幹にあると思えば良いんでしょうかね。
ただ、最近は一部の心ない人たちが、その人たちの利益ばっかりで自分が一方的に損してる事があると気づいたんですね。ギブアンドギブですよ。全く。
そういう人だと気づいたらなるべく依頼は受けるときに断るようにしています。まあ、基本的に最初に相手の利益と自分の不利益を天秤にかけて断るんですけど、それがどれくらい失礼な事をしてるつもりなのかわかってるのかわかってないのか・・・。
これも一種の姿勢の明確化だと思います。上では短期的な話をしてきましたが、人間関係では長期的な姿勢を考えるのが大事なんじゃないですかね。
利害の一致しない人と一緒にいても仕方ないというか、そもそも自分にとって迷惑であるということを意識して対応する事で、そのうち相手も気づいてくれるんじゃないかと思いますのでね。
ただ1つ言っておかなくちゃいけないのは、相手が致命的な損害を受けるようであれば自分が一方的な損をしようとも問題の解決に尽力するということ。
自分が3の損をすることで相手が100の損を免れるならば形振りは構わないという事です。
まあそれでもやはり、これまで自分に100の損をさせてきた人に手をさしのべる事はありませんが。
みたいな事をこれからいくつか書いていこうかな、なんて思います。夏休みだしね。
というか、あれ作ってからもう1年近く経ってるんですね。段ボール本棚。
あの本棚は、段ボールの箱を見て思い立ったその日に作り始めて、接着剤の都合で翌日に完成したんでしたかね。一気に作ったというわけではなかったと思います。
今年は何しようかね、なんて事を今決めたって結局やらないパターンが多いですし、性格的なものでしょうけど、宣言しちゃうと実現しないっていうジンクスがあるので、なかなか単発的な計画は立たないのですが。
とりあえず直近の課題として自己分析なるものを進めていかなくちゃいけないかなと思うんですね。
心理学の分野で自己分析はうまくいかないというのが相場ですが、どうやら就職にあたってはこの自己分析とやらが鍵を握るらしいぞ、というのを知りまして。
自己分析と一言に言っても、目的によって必要となる情報は様々ですよね。
今回は自分の魅力を他人にわかるように分析しなきゃいけないんですね。
実は、自分にわかるように自分を分析するっていうのは結構やってるんですよ。
小学生くらいの時は、文書で自己紹介をするのに自分で長所短所を書くじゃないですか。足が速いとか頭が悪いとかけんかが強いとか。
まあ、文字に起こすわけじゃないですけど程度としてはそれくらいの自己分析ですね。はい。
自分にわかるようにやるのと他人にわかるようにやるのでは雲泥の差なんですよね。いや別にどっちが泥とか雲とかじゃないですけど、目的によって価値が全く変わってくるわけですよ。
知らない人に自分の価値を知ってもらうには、もちろん他人向けの自己分析が必要だし、自分の価値をより高めるのであれば自分向けの自己分析をしないと効率が悪いです。
他人向けっていうのが難しくてですね、聞くところによると、どうやら謙虚な日本人は自己PRを控えめに作っちゃうらしいんですね。やってみるとまあその通りにうまくいくものではないんですが。
長い間ブログを書き続けてわかったことでもあるんですけど、自分の癖として、話し相手の顔色をうかがいながら話を進めるときが一番議論の進行が早くなるみたいなんですよ。
というのも、どうも相手がどこまで理解してるかを基準に次の言葉を選ぶ癖があるようで、疑問に感じているとわかったらその疑義を潰し、興味がありそうな事は蛇足にならない程度に余計な事までしゃべるんですよね。
逆に言うと、相手が話を聞いてないとわかったらその時点で全てが終了してしまうんですね。
そしてこうやってブログを書くときでさえ、万人にとって疑いの余地のないよう、自分の意思を曲解されないようにしようとしちゃうので、文字を書くのになかなか時間がかかるんです。
読んだ人が何を思うかと考えたとき、自分の望まぬ方向に勘違いする可能性があるときはそれを正すために何らかの修正や加筆を試みたり、あるいはそもそも言及しない事で本筋を明確にしたりと、悩まないようにするために結構悩んでるみたいです。
基本的に会話の順序ってのは相手に依るんですよ。
何を知っているのか、どんな言い方をすれば理解しやすいのかは人によって違いますからね。
余計な話もしておきましょうか。
昨今改善してきたのは姿勢の明確化。自分の意思が今どの方向に向いているのかを自分で正確に把握しておくという事。
自分がどうしたいのか、ぼんやりではなく、はっきりと決めるのです。自分が何をどうしたいのかはっきりしないうちに物事を進めていると、ふと振り返ったときに過去の自分と言っている事に矛盾があったりします。
自分では気づかなくても、余所から見ているとコイツ何やってんだろうって思われてる事も往々にしてあり得る話。
それは他者からの信頼にも影響するでしょう。始めは味方だったのにいつの間にか敵になっている、と思われたらそれ以降は味方だと思ってもらえないでしょうから。
姿勢の明確化は詰まるところ、物事に対して首尾一貫した対応を保証することにつなげます。
そうする事で、初っ端に十分な意見交換さえしておけば後は任せる、ということもしやすくなるわけです。結果はどうであれ、過程において方向性を議論する必要性が少なくなりますから。
武士に二言はない、と言いますが、自分の場合は少し違うかもしれません。この姿勢を最後まで保つ事ができるだろうか、結果的に何らかの不利益を生じないだろうかと先に全部考えちゃうんですね。
例えば、できない約束を軽々しくしちゃう人っていますけど、自分は基本的に最初に相手を信頼させる事はしないようにしています。
約束ではなく、なるべくどうするとか、できれば、あるいはできないかもしれないけど、というこの先起こりうる可能性を相手と共有する事で不履行によって信頼感を失う事を防いでいます。
見方を変えればズルいとも言えるし、責任から逃げてると思う人も少なくないでしょう。
しかし一方で、こうして「できないかもしれない」案件の依頼を受けたとき、基本的に全力を尽くします。自分がその依頼を成し遂げるかどうかで相手の利益が決まるときは、自分にとって少々不利益であってもやってあげようと思うようにしています。
良く言えば情けは人のためならず、悪く言えば恩着せがましいとでも言えるでしょうか。
まあ、ギブアンドテイクの助け合い精神が根幹にあると思えば良いんでしょうかね。
ただ、最近は一部の心ない人たちが、その人たちの利益ばっかりで自分が一方的に損してる事があると気づいたんですね。ギブアンドギブですよ。全く。
そういう人だと気づいたらなるべく依頼は受けるときに断るようにしています。まあ、基本的に最初に相手の利益と自分の不利益を天秤にかけて断るんですけど、それがどれくらい失礼な事をしてるつもりなのかわかってるのかわかってないのか・・・。
これも一種の姿勢の明確化だと思います。上では短期的な話をしてきましたが、人間関係では長期的な姿勢を考えるのが大事なんじゃないですかね。
利害の一致しない人と一緒にいても仕方ないというか、そもそも自分にとって迷惑であるということを意識して対応する事で、そのうち相手も気づいてくれるんじゃないかと思いますのでね。
ただ1つ言っておかなくちゃいけないのは、相手が致命的な損害を受けるようであれば自分が一方的な損をしようとも問題の解決に尽力するということ。
自分が3の損をすることで相手が100の損を免れるならば形振りは構わないという事です。
まあそれでもやはり、これまで自分に100の損をさせてきた人に手をさしのべる事はありませんが。
みたいな事をこれからいくつか書いていこうかな、なんて思います。夏休みだしね。
2012年7月30日月曜日
cicada
2012年7月27日金曜日
お久しぶりに月を撮った
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